85話 戻るつもりは

 ユリウス・ルットマン。人は彼を「英雄」と呼ぶ。


 英雄と称される所以は、かの戦争にある。


 約五十年前に勃発した人間族と神族の戦争――通称「人神戦争」において、新兵ながら敵の将を討ち取ったのだ。


 竜に跨り、長らく神族の統治下にあった人間族の国々を解放し、〈雷の魔術〉を拙いながらも操る。その様は、どれだけの同族に勇気を与えたことだろう。


 あの時彼は誰よりも天使に近く、誰よりも英雄であった。


「私はアロイス。アロイス・ルットマン――英雄の、孫だ」


「ルットマン……孫、だって?」


 ひどく信じ難くて、じっとその鋭い眼光を見返す。


 よく見れば彼女にはその面影がある。吊り上がった目尻、狭い瞳に癖の少ない茶髪。きつく結ばれた薄い唇など、上官に叱られた時の彼そっくりだ。


「結婚、していたのか……」


 新兵として忙しくしていた彼が、まさか家庭を持っていたとは。人間界における成人年齢は十五歳と聞いているから驚くようなことでもないが、まさか彼が。


 衝撃のあまり呆然としていると、不意にアロイスが溜息を吐いた。


「……私の負けだな、ブルクハルト。契約通り、この力、しばらくお前に貸してやる」


「言ったろ、勝負にすらなんねぇって」


 その刹那、鋭い穂先が眼前に迫る。竜の鱗すら割く、凶悪な煌めき――アロイスの槍は睫毛を掠め、既のところで軌道から逃れる。


 あと一瞬、ほんの刹那反応が遅れていたら目が潰れていた。ひょっとしたら僕の頭など果実のように吹き飛ばしていたかもしれない。


 ドッと汗が噴き出る。アロイスから距離を取って、無力な獣人を下がらせる。


 閉所でよかったと、そう言うべきだろうか。天井が低いおかげで槍の縦回転は配慮しなくていい。厄介な突きを封じられないことが難点だが、それは腕か最悪頭を犠牲にすれば何とかなる。


 問題はということか。


「英雄の血統、アロイス! 手合わせを申し込もう」


 声を上げたのはオルティラだ。


「こんな狭苦しい場所なのが残念だが、それもまた一興というもの。どうだい、有名人たるこの私の申し出、受けてみないか?」


「……いいでしょう。受けなければ戦士の名が廃るというもの」


 槍を回して、アロイスは新たに構えを取る。腰を沈めて下段に。突きにも払いにも対応できる姿勢へ。


 対するオルティラはといえば、大剣に巻いていた布を打ち捨てた。


 お互いに全力をもって応えるつもりなのだ。


「けっ、喧嘩は駄目だよぉ!」


 ニーナが声を張り上げるが、それが二人に届くはずがなく、金属の打ち合いはさらに激しさを増す。この光景はニーナには見せたくなかったが仕方ない。


「ニーナ、隠れていなさい」


「リオも?」


 ふと視界に影が降りる。


 ブルクハルト。大男が、僕の前にそびえ立っていた。


 背に隠したニーナが喉を唸らせているが聞こえたが、それが警戒の意を成すことはなかった。


「キミだな、入れ知恵をしたのは」


 見下ろすその目に光はなく、口元だけがただ歪に弧を描いている。だがそれも一瞬のことで、突然男は僕の頭に手を置いてきた。


 頭を包むのは、相棒のそれよりも遥かに大きな手。少しでも力を込めようものなら肉片へと化すだろう。


「……ブルクハルト。お前、何を企んでいる」


「人聞き悪いこと言うなよ、坊主。泣いちゃうぞ?」


「茶化すな。返答によってはキミを殺さなくちゃならない」


「おお、怖い怖い」


ブルクハルトはおかしそうに肩を揺らす。


「別に何も企んじゃいないぜ? ただ可哀想な嬢ちゃんがいたから、ちょーっと知恵を貸してやっただけさ。って」


「彼を貶めたのは人間だ、僕じゃない」


「落っこちるような場所に連れて行ったのはどこの誰だろうな」


 何も嘘を言っていないのが、実に嫌らしいところだった。


 魔族ブルクハルト。見た目よりも頭が回るようだ。厄介な奴が立ち塞がったものだ――意図せず打った舌打ちが届いたのか、ブルクハルトは口元の笑みをさらに深くする。


「おっと、勘違いするなよ。オレは人間どもの味方って訳じゃない。英雄がどうなろうが、その血統が潰えようが、どーでもいいんだよ」


「お前……ッ!」


 アロイスの目的が何であれ、この男はそれを利用しているに過ぎないのだ。願いにも欲望にも真摯に応えず、それどころか踏み台にして嘲る。それを看過してなるものか。


 食らい付こうとするが、牙が喉元に届く前に男は特大の爆弾を投下する。


「よく見てみろ。もうすぐ戦争が始まる。気づいているだろ、この場所。ここは兵器の生産工場だ。まあごく小さいものだがな。こんなもので大国がどうこうなる訳じゃないが、人間どもは着々と準備を進めている」


 この場所は地下墓地だ。古来の遺体が数多と眠る。そこに明らかに真新しいものがあった。


 白い布の包み――大人ほどの寸法の包みだ。布の重ねからは指と思しき塊がこぼれている。


!」


「……お前は何を知っているんだ」


「悪い話じゃないと思うぜ。――なあ、魔界に戻るつもりはねぇか?」


 僕は、何も答えられなかった。

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