63話 花火

 じっとこちらを見据えるのは、どこにでもありそうなこげ茶の瞳。しかし中にあるのは、確固たる意志だった。


 惚れ惚れするほどに真っすぐで、それゆえの苛烈さをも孕む茶。


 一瞬、世界の音が消える。


 心臓を鷲掴みされたかのような、あるいは熱された鉄の棒を鼓膜に突きつけられたような。


 柔らかな声色に応じることもできず、僕の目はただそれに捕らわれていた。


「こーら、もうすぐ花火が上がるっていうのに、フード被ってたら見えないでしょう。ほら、取った、取った」


 ぐいと、その少女はフードを引き摺り降ろそうとする。そこでようやく、今の状況を把握する。


 僕は魔族だ。


 人間界において魔族は珍しい。しかもよくない印象を抱く者も多いと聞く。


 だから種族の証たる角、そして尖った耳を隠すべく、不特定多数の前に出る際には頭を覆うようにしているのだが、こちらの事情を少女が知るはずもない。


 攻防戦が続くかに思えたが、意外にも少女はすぐに力を緩めた。


「……強情ねぇ」


 見知らぬ子供のフードを力尽くで剥ぎ取るほどの乱暴者ではなかったようだ。安堵の息を洩らすと、喧騒の中を低い声が貫いた。


「おいおい、勝手に行くなって」


 がしりと、大きな手が少女の腕を掴む。


 それはひどく大柄な男だった。群衆から頭一つ分は突き出している。


 ニーナよりも暗い、ともすれば黒と呼べる髪色に、和やかながらも剣呑を滲ませる垂れ目。武人なのだろうか、その手は無骨で傷だらけであった。


 暴漢かと思わず身構えるが、少女はいたって朗らかだった。白い歯を剥き出して、幼さの残る笑みと共に男を顧みる。


「こんなに人が多いところ久しぶりに来たから、興奮しちゃった」


「全く、お転婆姫には困ったモンだ。……ん?」


 こちらを見る男の目が大きく見開かれた。無骨な唇がもの言いたげに動くがぐっとこらえ、代わりに好青年じみた微笑を作る。


「……どうした、迷子か?」


「あ、ああ……そう、迷子。お父さんと妹と来てたんだけど、はぐれちゃって」


「お父さんと妹と、ねぇ。早く見つかるといいな。ほら、行くぞ嬢ちゃん」


 そう言うなり、男は踵を返して人混みを突き進む。


 どれだけ肩がぶつかろうと、「じゃあね」と少女が手を振ろうとも、全く気にする素振りを見せない。二人の姿はすぐに雑踏に紛れて消えた。


「リオ、みーっけ!」


 入れ替わるように聞こえてきたのは、今度こそ待ち望んだ声だった。


 群衆を縫うように濃茶色の毛玉が近付いてくる。それを追うのは相棒カーン。つい先程まで二人だ。


「もうっ、リオ、探したんだよ? 一人でどっか行くの、メ!」


 腰に手を当て、頬を膨らませるニーナ。その仕草は年の近い弟を叱る姉のようで、微笑ましさすら感じる。


「心配かけたね」


「ニーナ、お姉ちゃんだから手繋いであげる!」


「……うん?」


 思わず制止をかける。街灯を散らす橙の瞳は、ぞっとするほどに真っすぐだった。自分が間違っているとは微塵も思っていない。


「……僕がお兄ちゃんだよ」


「ニーナの方が背高いもん!」


「それは耳があるからでしょう! 僕の方が長く生きてる」


「七歳だもん、七歳は大人ってお母さん言ってたもん!」


「残念でした、僕は七十年以上生きてま~す」


「じゃあニーナ百年!」


「じゃあって何、じゃあって!」


 そんなやり取りの最中でも、ニーナはお姉さん風を吹かせて手を掴もうとするのだから照れ臭くて仕方ない。


 彼女が迷子になるのを防止すると思えばどうってことはないのだが、つい逡巡してしまう。


 しばらく攻防が続いたが、ニーナが折れる気配は一向にない。


 両の手を上げる矜持を胸の内に感じながら、やんわりと獣の手を握り返す。すると新品の衣服を与えた時のように心底嬉しそうな笑みをこぼすのだから、無邪気とは末恐ろしい。


 その時であった。


 大地を揺るがす爆音が辺り一面に響きわたり、パッと視界が明るくなる。辺りは歓声に包まれ、人の流れは停止する。


 見上げた夜空に灯るのは細やかな火の粉であった。赤に白、黄色、あるいは青、緑。色とりどりの炎が闇を彩る。


「花火だ」


 重々しく、時として軽やかな音と共に火の芸術は撃ち上がる。


 多少魔力が揺らぐことから魔術の力も借りているのだろうが、大半は『技術』に頼っているのだろう。炎の色を変える魔術は聞いたことがない。


 ちらりと隣に目をやれば、ニーナはピンと耳を立てたまま固まっていた。そういえばカーンも初めて花火を見た時は同じような反応だった気がする。


「花火はもう慣れた?」


「慣れましたよ、毎年のように聞いていますから」


「それはそうか」


 耳がよいのも困りものだ。そう笑えば、カーンも「全くです」と目を細める。


 改めて夜空に視線を移して――僕は、息を飲んだ。


 はじける火花。魔術の応酬。薄れたはずの景色が脳裏を支配する。歓声はいつしか咆哮と段末魔に変わり、辺りは肉の焼ける臭いに満たされる。


 思わず口を覆った。


「――」


 カーンが唇を動かす。その声は届かない。


 なぜ今更こんなことを。


 問い掛けるが応える声は当然なく、代わりに『平和な世界』が戻る。


 夜空を彩るのは花火だし、鼓膜を震わせるのは歓声だ。あの爆音は戦いの予兆でも何でもなく、安寧の祝福なのだ。


 それなのに、どうして胸が騒めくのだろうか。

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