61話 ファントとダフネ
工業都市グラナト。エルツ共和国が誇る発展都市。
上を向けば至る所から煙突が突き出し、どれも空を覆うほどの黒煙を吐く。家々の外壁はどうやらレンガ製であるようで、大半がくすんだ橙色や薄黄色をしている。
同じエルツ共和国に属していながら、白を基調としたオパール港とは一線を画す景色だ。
たった一日歩いただけなのに、ここまで街並みが変わるのか。そう感嘆せずにはいられなかった。
技術の祭典が行われているだけあって、その警備は厳重だった。目的を聞かれ、積み荷の確認と簡素な身体検査を経て、ようやく街へ踏み入る許可が下りる。
街道が混んでいたのはこれが原因だったようだ。
検閲を抜けてしまえば、人の流れは滞留を知らず、それどころか絶えず右へ左へと流れていく。気を抜いたらすぐにはぐれてしまうだろう。
はしゃぎ半分、不安半分に手を握る獣人を
「あっ、私、ファントっていいます。ネコ族のファント、どうぞご贔屓に~」
ネコ族の獣人はファントと名乗った。世界各国をさすらっては珍しいものを手に入れ、商いを生業としているのだという。ここグラナトを訪れたのも、それが目的であるらしい。
「いろいろ紹介したい所はありますけど、まずは目的を果たしますかにゃ。そういう契約ですから」
大通りから外れ、生活用と思しき狭い通路を行く。
案内されたのはひっそりと建つ集合住宅だ。
日焼けしたレンガを
一階部分に取り付けられた戸を叩けば、中から聞こえてきたのは何かが倒れる音と悲鳴。
大事故の予感に思わず首を竦めるが、ファントはというと大して驚きもせず「慌てなくていいぞー」と声をかけていた。
「だ、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。いつもこんな感じですから」
それならいいけど、とこの時は引き下がったが、家の中から聞こえるのはとても日常生活では出ないような音ばかりだ。
破壊音に落下音、バシャリと何かがぶち撒けられる音。大型の獣が暴れ回っているのではないかと思うほどの有様だった。
流石にただ待っているだけではいられなくなった僕がノブに手を掛けようとしたその時、突如としてそれが開いた。
顔を出したのは男だった。丸い顔に丸い身体。小太り気味の彼はぱっちりとした目を瞬かせて、跳ねに跳ねた髪を撫でつけた。
「あ……ファント君。今日はゆっくりだったね。……そちらの人たちは?」
「お客さん。ダフネ氏に用があるそうだよ」
「ええっ、ボクに?」
その男、ダフネは目を丸める。
彼がダフネ――オロペディオ王国の元司書であり、魚人族の神話を紐解く鍵を握る男。
だが、失礼とは思いつつも、どうしても懐疑を抱かずにはいられなかった。彼はどこにでもいるような中年男性だ。司書や研究者特有の眼光はなく、聡明さの欠片も匂わせない。
本当に彼が。まじまじとそれを見つめていると、やがてダフネは太い指を絡めたり擦り合わせたりと落ち着かない様子を見せる。挙句の果てにとうとう涙を浮かべた。
「殺しに来たんだぁ……剣を持った二人と犬なんて、もう狩人の身なりじゃないか。さようなら、ファント君。キミの死神っぷりは海に還っても忘れないよ~」
「相変わらず悪い方にしか考えないにゃあ。ほら、いいからとっととお茶を淹れる! 喉乾いた」
「わわわ、ファント君が干からびる! えっと、ボクの涙でよかったら飲んでいいから、これで一時凌ぎを――」
「何が悲しくて小太りのおっさんの涙なんか吸わなきゃなんねーのさ。ばっちぃ。どうせなら可愛い女の子のがいい」
「女の子ならこの前作った子がどこかに」
「だから一時凌ぎは結構だって」
ファントの灰色の手がダフネを押す。すらりと縦に長いファントに対して、丸く短いダフネの背。でこぼことした二人は部屋の中へと入って行く。
僕はどうしてもそれを追えず、僕のすぐ後ろで控えるカーンと顔を見合わせる。
どうやら彼も不信感を抱いたようで、ふるふると首を振った。
「ささ! 三人共入ってくださいにゃ」
家の中から声が聞こえて来る。明らかに家主ではない男の声だったが、いつまでも近所の目を集めているわけにはいかない。
元気よく乗り込んでいくニーナを、僕は何となく羨ましく思うだった。
■ ■
その家は閑散としていた。
台所と寝具、さらに机や椅子、さらに巨大な水槽を押し込めた空間には、それ以外の『小物』と呼べるものがほとんど存在していなかったのだ。
研究者と司書を象徴する本も、身体を隠す衣服もない。唯一あるものといえば食器類くらいだが、それも二組あるかないかの状態である。
『休むためだけの空間』という表現が相応しいように見えた。
「ああっ、えっと、どうしよう。お茶っ葉ない、食器も水も……す、水槽――」
「今日水使ってないのか? 本当に
そう仕方なさそうに笑って、ファントは扉の傍に置かれていた木桶を拾い上げる。
「わわっ、ファント君、疲れてるでしょ。ゆっくりしてて」
「お前に任せてたら、いつ飲み物が出て来るか分かったモンじゃにゃい。十カラトで我慢してやる」
「長旅で疲れたファント君に水汲みをさせたにも関わらず、わずか十カラトしか払わせてくれないなんて……せめて三十! 三十カラト出させておくれよ!」
「面倒な奴だにゃ。お金様は帰り際にまとめて清算するから、適当な場所にまとめておけって、いつも言ってるだろ」
「ああ、我らが“母”のごとき寛大さ……ファント君がこんなに優しいなんて、どこか身体を悪くしたんじゃないかい? 舌のザラザラが取れちゃったとか」
嘆くダフネの一方、友人は応じなかった。慣れているのだろうか、この演劇じみた反応に。
呆気に取られる僕を余所に、ファントはそそくさと水を汲みに向かってしまうう。
残されたダフネは顔を引きつらせて、視線を落としている。
彼の扱いを未だ把握し切れていない僕も困惑の最中にいたが、いつまでも無言のままでは目的が果たせない。意を決して涙ぐむ男と向かい合う。
「急に押しかけて申し訳ない。僕たちは先日、スキュラの民に世話になった者だ」
「世話? ああ、一族への恨みをボクにぶつけに来たのか……せめて工房を片付けたいから、一日だけ猶予を――」
「どうしてそうなるの」
呆れるあまりこめかみの辺りが痛くなってきた。
「リオ様、レヴァン王からいただいた物を見せてはいかがでしょうか」
「そうだね」
早速荷物を漁る。
海中都市オロペディオを出立する際、魚人族を治めるレヴァン王より謝礼の品として送られた小箱。その中には乳白色の匙が収められている。
一寸の曇りも引っ掛かりもなく、艶やかに研磨されたそれはまるで芸術品のようであった。初めて見た時、思わず詠嘆したことを覚えている。
どうやらダフネの意識をがらりと変えたらしい。目元に浮いていた涙は引っ込み、郷愁に浸る黒の瞳がそこに残された。
「レヴァン王からいただいたんだ。これでも、まだ疑う?」
「……いいや、もう疑えないよ。この貝細工は紛れもなく友情の証だ」
ようやく落ち着いたダフネは胸を張ると、背後で手を組む。
魚人族特有の敬礼だ。だがその姿勢を取る彼は、膨らんだ腹のこともあってひどく窮屈そうだ。
「数々の無礼をお許しいただきたい。改めて、ボクはダフネ――オロペディオ城所有図書館元司書、そして一研究者です」
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