57話 〈パンドラ〉
魚人族の神話は海の創生から始まる。
海は元来、ある神の体内にあった。神が死に絶えるその瞬間、海水が放出され、倒れ伏した神の肉体が
魚人族は海中に住まう種族だ。それゆえに陸上と関わる逸話は皆無に等しい――かと思いきや、石板に刻まれた物語には、既視感のある文脈が綴られていた。
「神話の最後で戦争が起こってる……終末戦争、ここにも書かれてるんだ」
レヴァン王とカーンの二人が運んで来た石板――魚人族はこれを記録媒体としているらしい――を覗き込みながら、僕は呟く。
文脈はほとんど読み取れないが、幸いにも綴られる文字は魔界のそれと似ている。何となく、ぼんやりとではあるが、王の朗読と摺り合わせる限り大差はなさそうだ。
「これは、パンドラ……?」
「ええ。神々の戦の末、世界を三つに引き裂いたとされる道具、その名も〈パンドラ〉。リオ殿の仰る〈兵器〉と同時期に用いられた道具、という点では共通点がありますな。ただしこの伝承は通説――我々の知る『スキュラの神話』とは異なります」
そう。〈パンドラ〉という名の道具が見られる逸話は、本文に付随する、言うなれば『諸説あり』の『諸説』の中にあった。
正伝とは胸を張って呼べず、かと言って誤りと打ち捨てることもできない。至極不安定な伝承の中に、それはあった。
「『ある人曰く、それは血を分けた兄弟であった。片や救世主として、片や先導者として、世の末に降ろされた』」
「対を成す……その片方が〈パンドラ〉?」
こくり、と王は頷く。
「文脈から推測するに、〈パンドラ〉こそが『救世主』でありましょう」
「『救世主』、だけど世界を三つに引き裂いたのか……。なんだかちぐはぐですね、統一性も共通点も全くない」
〈兵器〉とは希望をもたらすものである。これは事前の調査で判明していることだ。
しかし対する〈パンドラ〉は世界を三つに引き裂いた、言うなれば絶望をもたらしたに近い。
世界を三つに引き裂く――それはおそらく人間界、魔界、神界のそれぞれの断交を意味しているのだろう。
今でこそそれぞれの世界は隔たれているが、かつては壁などなく、地繋ぎであったのかもしれない。そうであるとしたら、終末戦争は、神代の終わりと創世――今の世界の成り立ちを語る逸話なのだろう。
では、今世の立役者はいったいどこへ消えたのか。
「二人はどう思う。何か知ってる?」
そう二匹の大蛇を見遣る。レウは捩じ切れんばかりに首を捻っていたが、マリネラはというと目を伏せ、僕と視線を合わせようとしなかった。
「ねえ、リオさんって、どうしてそれが欲しいんです?」
聞こえてきたのは予想外の声だった。
カリュブディス・レウコン――魚人族の双神が一柱。くるりと首を捻った彼女は、変わらぬ子供然とした声色で、そう尋ねるのだった。
「どうしてって……」
頼まれたから――その言葉は、再度腹の中へと納まる。口先だけの答えでは、解放してもらえないように思えた。
「だって、残っているかどうか分からないんでしょう? それなのに探し続けるなんて、並み大抵の執着じゃ無理ですよ。何がリオさんをそこまで掻き立てるんです?」
「…………」
理由は簡単だ。頼まれたから。それがきっかけで、長い旅路に身を投じた。
シュティーア王国に住んで数十年、そろそろ外界を見たいと思っていた時のことだ、ちょうど潮時だったのかもしれない。
だけどそれだけで、終わりの見えない旅を始めるだろうか。人知れず野垂れ死ぬかもしれないのに。
脳内を応酬が行き交う。
まさかここまで悩み込むとは思わなかったのか、レウはどことなく心配そうに僕の顔色を窺う。挙句には「そんなに迷うならいいですよ」と回答を保留にするくらいだ。
彼女自身、明確な意図を持った問いではなかったのだろう。許されても拭い切れない淀みが、ぐるぐると胸の内を渦巻いていた。
「答えを見つけるのも、旅の醍醐味というものでしょう。ですが……」
ちらりと、マリネラの瞳がこちらを見遣る。彼女の目には、僅かながら不審が映っていた。これまでの好意的な様子とは一線を画す。
何を間違えた。いや、何も間違えてはいない。僕は真実を言ったまでだ。それなのに、なぜここまで怪訝な顔をする。
「……本当に、ただの善意と興味だよ。彼には恩があるからね。でも、怪しいと思う気持ちも分かる。嫌われ者の魔族が神器を探している、なんて気が気じゃないだろうし」
長年に渡りカリュブディス・レウコンを封印した魔族。どれだけ僕が恩を売っても、種族に対する不審が消えることはないだろう。
だが僕はこの手綱を放すわけにはいかない。手掛かりという綱を。
何か知っているなら教えてほしい、どうか――柄にもなく懇願を口にしようとしたその時、バルコニーへ一人の魚人族が飛び込んでくる。
「申し上げます、魔力の減少により〈泡の魔術〉が崩壊寸前です……!」
その言葉は、さながら死刑宣告であった。
〈泡の魔術〉はオロペディオ城と海とを隔てる壁だ。それがあるお蔭でオロペディオ城は水に飲まれることなく、こうして僕やカーン、ニーナが呼吸できる環境を作り上げている。
しかしそれが崩壊しようものなら、つい先日の神殿と同じ結末を迎えることになるだろう。
それは絶対に避けなければ。地上の民も魚人族も一緒くたになって帰り支度を進める。
とうとうオロペディオではゆっくりできなかったな。それを少し残念に思いつつも、何となく充実した気分を味わうのだった。
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