56話 呪術師、あるいは

「わたくしの魔力は、ある人物から与えられたものなのです」


「与えられた?」


 頭の中が疑問符に満たされる。


 後天的に魔力を修得することは不可能ではない。しかしそれは本人の努力があってこその賜物であり、第三者によって付与できるほど単純なものではない。


 それなのに、なぜ。


「もう随分と昔の話です。この海は、かつてない貧困に見舞われました――」


 かつて、オロペディオ城と城下町の座する海は、一国が壊滅しかねないほどの飢餓に襲われた。


 魚人族の主食である魚は一匹たりとも泳がず、日光もろくに降らないから海藻も育たない。無縁のはずの飢乏に、海中は呻きで満たされた。


 当時のマリネラ、もとい“黒の母”カリュブディス・メランはその光景を嘆くことしかできなかったのだという。“白の母”カリュブディス・レウコンも同様であった。


 魔力を持たず、頼れるのは己の神力のみ。魚を呼び寄せ、食物を授ける――しかし、その祝福すら、大自然の前ではあまりにも無力であった。


 そんな時である。カリュブディス・メランに救いの手が差し伸べられたのは。


「――宝玉が下されたのです。それは魔力の種。魔力を集め、留め、魔術の糧とする基盤です。わたくしはそれを取り込み、海に豊饒をもたらしました」


 ことわりを捻じ曲げられるほど、魔力は万能ではない。豊饒を――枯れていた海を蘇らせたのは、神の力があってこそであろう。魔力はそれを助けたに過ぎない。


 魔力が神の奇跡を実現したのである。


「それを得たから、マリネラは魔術が使えるようになったのか……」


「おそらくは」


「その宝玉とやらを確認してもいいかな」


 そう言うなり、マリネラはずるりと〈泡の魔術〉から顔を出す。そうかと思えば、バルコニーの床へと上半身――なだらかな身体では、どこまでが胴か判然としないのだが――を投げ出した。


 初めて触れるカリュブディスの身体は、ひどく冷たかった。硬い表皮には凹凸が――微かにではあるが、鱗同士が癒着したかのような薄らとした溝が確認できる。


 力強く脈打つ心臓。鼓動のたびにしなやかな筋肉が軋む。


 神と崇められ、人智を越えた力を持つとしても、これは生き物なのだ。


 なぜだかそれがひどく信じ難い、ともすれば気付いてはならない事実に思えて、しばらくの間、僕は身動ぎ一つできなかった。


「……これ、か」


 気を取り直して集中すると、すぐに目的のものに行き当たる。


 魔力の根源と思しき塊は、存在した。心臓にほど近い位置に、生命の異物として確かに埋め込まれている。しかしそれは、もはや彼女の一部であった。


 思わず顔をしかめる。


 ドロドロと、質の悪い油のごとき魔力は、およそ神が持つものとは到底思えない。ひどく胸が騒めき立つ。マリネラが持つ魔力の質感はどこか覚えがあったのだ。


「これ、砂虫の……?」


 砂漠に住まう虫、砂虫。その女王が持っていた魔力と酷似していたのである。


 陸、しかも水とは縁遠い熱砂に住まう生き物と、海の中に生きる神――両者の共通点は皆無と言ってもよい。それなのになぜ魔力の質がそっくりなのか。


 同じ魔力は二つとないとされている。僕とカーンの持つ魔力は違うし、当然マリネラやハリ、ヨアニス、レヴァン王とも、大なり小なり差異が生じる。


 しかし砂虫とマリネラのそれは、まるで分裂したかのようにそっくりだ。いや、同一と言い切ってもよいかもしれない。


「どうかなさいましたか」


「魔力を授けたのって誰?」


 喉が発するその声は、想像以上に硬かった。


「どうしてその人は、を持ってたの」


「その人は自らを呪術師と称していました。あるいは天使……いや、堕ちた天使とも」


 天使。それは悪魔と対になる存在である。


 その名は神話にも見られ、神への奉仕を至上とする清廉とした存在として描かれることが大半だ。


 この世の悪を悪魔と呼ぶならば、天使はその逆、善そのものと呼べるであろう。


 それなのに、今僕の目の前にある魔力は不快そのものである。不愉快極まりない。


「こんな胸糞悪くなるような魔力を授けておきながら天使だって? よく言えたものだ」


「当時の姉も憤っていました。天使は天の、もとい神の声を届けるからこそ天使なのだと。独断で、しかも気まぐれに贈与するはずがない、と」


 与えるからには、何か意図があるはずだ。それを聞き出すことなく受け取り、あまつさえ体内に取り込んでしまったマリネラを、きっとレウは心配したのだろう。


 その事実だけ見れば立派な姉である。「過去の私、賢いですねー!」などとはしゃぐ姿さえなければ。


「……対価は」


「未だに」


 未だ徴集されずにいる対価。それがひどく不穏であった。


「残念だけど、これだけ癒着しているともう取り出せない。臓腑を抜き出すようなものだからね。だからせめて封印は強固にしておこう」


 悪あがきかもしれないが。頭の中でそう付け加えて、指先に魔力を集中させる。


 魔族の施した封印を解くためにやって来た僕が、封印を施して帰るだなんて、誰が想像できただろうか。


 ひどく複雑な気分になりながらも、僕は予感していた。


 呪術師、あるいは堕天使――それとは長い付き合いになるだろう、と。そして今後も、この淀んだ魔力は僕の前に現れるだろうと。


「どうかお気を付けください、リオ様。の囁きは甘露そのものです。あなたは、あなただけは、決して耳を貸してはいけない」


 その言葉は予言にしか聞こえなかった。

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