42話 彼は生きている。

 水面を照り付ける強い太陽。それを反す水面が鼓膜を焦がす。僕は目蔭を作って大海原を眺めていた。


 遥か遠く、世界の末端まで続く青の絨毯。その奥には、赤茶けた山々が薄らと影を作っている。


 行く慣れた漁場での仕事を終えた僕は、網に絡まるゴミを取り除きつつ、「彼女」を待っていた。胸にあるのは春の陽気さながらの期待だ。いつ「それ」が姿を見せてもよいようにと、陽に焼けた手は動き続けていた。


「待ちました?」


 水の膜が盛り上がり、白の小島が顔を出す。


「ごめんなさい。妹がなかなか離れてくれなくて」


「いいや。こちらこそ、毎度すまない。海面まで来てもらって。……オレが魚だったら、海の中まで会いに行けるんだが」


「貴方が魚だったら、食べちゃいそうで怖いです」


 海中から伸びてきた触手が船縁を揺らす。子をあやすような、あるいは構えと控えめに要求するかのような、慈愛の滲む仕草だった。


「代わりに……そうですね。私が魔術でも使えたら、自由に海の外も歩けたんですけどね。そうしたら陸に上がって、け、けけ、結婚なんて! できちゃったりして……」


「ははは、そうだな」


 僕は手を伸ばす。白く硬い肌が、角ばった手に寄る。白い尾が水面を破り、ゆるりと円を描いた。


「ねえ、漁師様」


「うん?」


「また明日も、会えますか?」


「……すまない。しばらく漁はできそうにないんだ」


 そう語ると、翡翠が丸くなる。


「どうしてです? 魚がいないなら呼び寄せるのに!」


「すまない、本当にすまない」


 尾をもって海面を叩く白蛇を前に、僕は何度も頭を下げる。


「向かいの――エルツ王国の沿岸まで魔族軍が迫っているらしいんだ。そこの攻略が終われば、次はヴェルトラオム島に目を付けるだろう。そうなれば、この海が……きっと、戦場になる。危険だから、どうか戦火が通りすぎるまで隠れていてくれ」


「でも……」


「大丈夫だ。この海はオレが守るよ。大いなる母と、全ての海の民に誓って」


   □   □


 霞む視界を満たすのは、白い天井だった。その中には、薄らと木目と焼き印の姿が見て取れた。かつて何かの一部であったらしい。それを天井に貼り付け再利用しているのだろう。


 その板を見上げる最中、僕は胸の中に揺蕩う記憶を追っていた。


 夢を見ていた気がする。


「リオ様、お目覚めですか?」


 鼓膜を優しい声が震わせる。相棒カーン。彼は僕のすぐ隣に膝を突いていた。一般的な寝台と比べると、彼の身体は妙に小さく感じる。きっと寝台の足が長いのであろう。接近しているから、そのような錯覚を受けるのだ。


 用があるなら起こしてくれればいいのに。文句を垂れようとした瞬間、僕の脳裏に恐ろしい光景が蘇った。


 迫りくる波。轟音に紛れる嘲笑。視界は瞬く間にぼやけ、全身を痛烈な圧力が襲う。相棒が目の前を漂う。その身体は、糸が切れた操り人形のように力がない。それを必死に手繰り寄せて、僕は――。


 全身から汗が噴き出る。今更になって早鐘を打つ心臓が、肋骨を突き破ってしまいそうだ。


「リオ様、ご安心を。この通り私は無事です」


 語る言葉すら疑わしい。これも夢なのではないか。漠然とした不安が、僕の中に荒波を立てる。


「生きて、る? 本当? 本当の本当に?」


「ええ。心の臓も、変わりなく動いておりますよ」


 カーンは僕の手を取り、自分の胸に押し当てる。隆々としている訳ではないが、しっかりとした頼もしい胸板。その下には、確かに力強い鼓動と呼吸が感じられた。


 生きている。


 強張っていた身体が解け、鼻の奥がツンとする。どうやら天使様は、まだ僕達を見捨てていなかったらしい。たとえ一時の気まぐれであっても、有り難いことだった。


「ああ……よかった。よかった、本当に……」


 じわじわと視界が霞み、口の端が歪んでいく。そんな僕の頭を、カーンの大きな手が撫でる。柔和に笑む赤の瞳には、薄い膜が張っていた。


 初めてだった。生きていることを歓喜し合うなど。悔やむことは多々あれど、その逆は無に等しい。この激情は、感動と呼ぶにはあまりにも強すぎる。これを何と呼べばよいのか、僕には分からなかった。


「あーあ、安心したら急に疲れてきた」


「もう一度お休みになられますか?」


「いや、もう起きるよ」


 僕は寝台から身を起こす。苦労するかと思いきや、意外にも身体は軽かった。


 王宮全体に魔力が――この場においては空気を保つ為に用いられる魔力が、豊富に漂っている為であろう。穏やかで力強い、海特有の魔力。それが僕の中にも鼓動していた。


 持ち上げた視界に映るのは、見覚えのある部屋だった。海中都市オロペディオから神殿へ向かう直前に立ち寄った客間だったのだ。だだっ広いその隅には、二つの荷物袋が置かれている。平時は水に埋まる所為か、装飾品は殆どなく、見えるのは質素とも絢爛とも称し難い家具数点のみだ。


「……ここ、お城だよね、オロペディオの」


 記憶が確かならば、大量の海水に飲み込まれた現場は神殿――オロペディオから、体感で半刻程離れた位置であった筈だ。しかも当時の海は荒れ狂い、車の牽引魚ですら逃げ出さんばかりの戦闘が繰り広げられていた。そのような中から僕達を探し、連れ帰るなど不可能に近い。化け物が存命であれば尚更だ。


 なぜ僕達は、この城まで生きて帰ることが出来たのか。


「あれから何があったか、教えてくれる?」


 カーンは小さく頷いた。


「私が目を覚ました時、リオ様は意識を手放しておられました――」

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