41話 変な物

 潮が変わり、ハリの身体は危うく引き込まれそうになった。


 水の泡、結界とも言うべきそれが崩壊を遂げ、海は躊躇なく神殿を飲み込む。平生ならば幻想的と感想を抱く光景であるが、今のハリにとっては悪夢でしかなかった。


 手から槍が落ちる。零れ落ちる。


 友人が死んだ。理解者とも言うべき少年が、その忠犬が、偉大にして雄大なる自然に飲まれて死んだ。それが漠然とハリを責め立てる。


「しっかりしてください。貴方がそれでどうするのですか!」


 同士がハリの背を叩く。同士の中でも最年長。かつて王の傍に控えていたという男は、端然とした様子で、じっと視線を注いでいた。


 その後ろには激戦を生き残った数人の仲間――ハリが率いる革命軍同士であった。


「オレは……ああ、そうだな」


 海の意志が流れ込んでくるようだった。ハリは身体の強張りを解放すると、辺りに視線を這わせた。


 怪物はいない。いつの間にか姿を消していた。膜の破壊を終えて気が済んだのだろう。勝ち逃げという形で締め括られたが、その判断は結果的にハリ達を助けることになっていた。


「誰か街に戻って救助隊を呼んできてくれ」


「救助隊ですか」


「せめて死体だけでも、探してやりたい」


 地上の民は、空気がなければ死ぬという。スキュラのように海の中では生きられない。泡が破壊された今、生存は望み薄だった。


「……分かりました」


 意を汲んだらしい仲間は、痛々しげに神殿を一瞥すると、そのまま去って行った。


 残った二人の仲間には指示を出し、連れ立って沈んだ建物へと近付く。入口には親友ヨアニスが蹲っていた。顔を顰め、じっと自分の足を睨みつけるその様は、自分を責め立てているようにも見えた。


「ヨアニス」


 面が持ち上がる。血の気の失せた唇が、弱々しい声を紡ぎ出す。


「どうしよう、リオ達が……」


「行こう。ちゃんと葬ってやろう」


「……駄目かな、やっぱり」


「駄目だと思う」


 きっと生きてはおるまい。はっきりと口にすると、ヨアニスは肩を落とした。

 視界の端に、神殿内部へ進む仲間の姿が見える。ハリもそれに続くべく、尾ビレを反した。


 神殿の中は崩壊しかけていた。天井を装飾程度に支えていた柱はすっかり砕け、貴重な光源も辺りに散らばっている。余程強い圧が掛かったのだ。それを目にして、客人への望みはますます薄れる。


 床に落ちた〈明石〉を拾い、それを照明代わりに進んでいく。すると視界の端で、キラリと何かが光った。


 それは棒だった。棒状の刃物。襲撃の時、二人の地上の民から取り上げた品とよく似ていた。一つ――柄頭に宝石が埋め込まれた薄刃を取り上げる。そしてもう一つ、先程のものよりも少し長く、幅の広い剣も手にする。


 寄り添うように沈んでいた二つの剣は、まるで未だ骸の見当たらない持ち主のようだった。


「……見つからなかったら、代わりにするのもアリだな」


 そう呟いて、ハリは再び尾ビレを揺らした。


 長らく進んでいると、不意に声が聞こえてきた。ハリを呼ぶその声は、先に調査を始めていた仲間の一人のものだった。浮上してくる彼女はどこか怪訝そうに首を捻っている。骸を見つけた、という訳ではないようだ。


「どうした?」


「な、なんか、変な物が……」


「変な物?」


 こちらです、と先導する背は、来た道を戻って行く。それに従うと、水の淀みが一層強くなった。柱の崩壊時に発生した砂煙が沈殿し始めているのだ。ハリは口元を覆いつつ、ゆらゆらと漂う尾を追った。


 目的地に着くまで、そう長い時間は必要なかった。煙の奥に影が見えてきたのである。こんもりと盛り上がった山。その背丈はハリや他スキュラを遥かに凌いでいた。


 岩や山の類にも思える。しかしその表皮は、それらとは全く異なっていた。表面は白色で、触れてみると弾力がある。肌と同化しかけてはいるものの、鱗の如き装飾も見て取れる。


 紛れもなく「変な物」だった。


「これ、槍で突いても動かないんですよね。何だと思いますか?」


「いや、知らねぇよ」


 表面を突く穂先は軽く沈むばかりで、刺さることはなかった。


 そっと耳を当ててみると、あまりにも小さく、どこか安心する音が聞こえて来る。幼い記憶に刻まれた母の温もり。血潮の騒めきと鼓動。それとよく似ている。


 その中に、音を聞いた。談笑するような、あるいは交渉するような、場違いにも程がある声。思わず耳を疑った。


「おい、誰かいるのか?」


「あら、誰か来たみたいですよ。ちょっと待ってくださいね」


 確かにはっきりと、声は意味を成していた。


「ごめんなさい、動けないので、このままで失礼しますね! 何か御用ですか?」


 そう声は聞こえてくるものの、発言者らしき人物は一向にハリ達の前には現れない。あまりにも間抜けなその声は、どうやら「変な物」の中から聞こえてくるようだ。不審に思いつつ、ハリは声を張った。


「アンタは誰だ。一体何があった。この塊は? 地上の民を見なかったか」


「わわわ、一気に訊かれたら答えられませんよ! ちょっと待ってくださいね。えっと、どうしましょ――え、お話しですか? 多分聞こえないですよぉ。場所、移動してもらいましょ。ね、お外の人もそれでいいでしょう?」


 ハリの答えを待たずして、白い塊から泡が立ち始めた。もぞり、もぞりとそれが動くたび、隙間から球体が零れるのである。それに触れてみると、皮膚を掠めて指の間を抜けてしまう。捕らえることは出来ない。それは紛れもなく、空気の泡だった。


 その頃になって、ようやく気を取り戻したらしいヨアニスがハリに追いついた。彼はハリに目を遣り、次いで白い塊を捉える。事態を把握したらしいヨアニスは、しばしの沈黙の後、その瞳を――宝石のように美しい瞳を丸くした。


「まさか」


 持ち上がったのは長い首だった。頭はウツボのように凹凸がなく、口の端からは長い触手が伸びている。白い皮膚に埋められた瞳は、緑色に爛々と輝いていた。


「行きましょ。空気がある所へ」

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