39話 王子の対峙
地上からの使者が神殿へ戻った丁度その頃、スキュラの若者は黒の怪物と対峙していた。
総勢二十余り。とても軍には及ばない、烏合の衆同然の彼等ではあったが、その気迫は怪物のそれに劣らなかった。
力強い潮が宙を裂き、遊泳姿勢を悉く崩す。近づくことすら困難の中、牽引者ハリは、ただ疲労しゆく仲間を鼓舞し続けていた。
「気張れ、テメェら! こんな妖術ごとき、何の問題もねぇ!」
「そんなこと言ったって――」
仲間の一人が声を張り、槍を握る手を白くする。
「近付けないんじゃ、どうしようもない!」
どうしようもない。その言葉は的確だった。
長大な身体に接近しようとすれば急流が隔て、やっとのことで穂先が届いても、今度は硬い皮膚が行く手を阻む。魔術を以って対処しようにも、彼等が習得しているものは、戦には不向きだ。
一方の怪物は“黒の母”と冠されるだけあって人々の手には余った。潮を巧みに操り、身体を以って宙を薙ぎ、あるいはアギトを開けて小魚を噛み潰す。
なすすべもなく一人、また一人と、仲間は赤い霧と共に沈んでいった。
切り札はあると言えばある。親友ヨアニスの存在だ。
彼は怪物の子である。未だに信じ難いが、彼は魔性の血ではなく、異形の血を継いでいるらしい。それを矢面に立たせれば、いくら怪物でも動揺を見せるだろう。十数年を同じ屋根の下で過ごし、成長を見守って来たとなれば、少なからず情も移る。
だがハリは、どうしてもそれを使う気にはなれなかった。
実の母親に息子をけしかけるなど、悪魔の所業である。尤も、ハリがヨアニスの立場だったら、喜んで父親の首を取りに行くだろうが、自分と彼とでは事情が異なる。
どれだけ不孝を重ねても、せめて道は外れまい。ハリは強い決意を抱いていた。
「悪い、ハリ」
右手から聞こえて来たのは、仲間の声だった。後に将として軍を率いると期待されていた、勇敢な男。それはじりじりと後退し、顔を悲痛に歪めた。
「やっぱ、降りるわ」
そう言うや否や、男は尾ビレを反した。
「なっ、降りるって――おい!」
呼び止める暇なく、男の姿は暗い青へと吸い込まれていく。
それを見ていたらしい他の仲間も、ぽつりぽつりと離脱の声をあげ始める。
聞いていない。
神を相手取るなど知らなかった。
勝てる筈がない。
死にたくない。
そう口々に言い、去って行く。そんな彼等を、ハリは引き留めることが出来なかった。
所詮は下町の酒場で呼び集めた謀反の同志。不測の事態が生じれば、怖気づきもするだろう、と。
結局その場に残ったのは、たった三人の仲間と、腹立たしい笑みを湛えた化け物だけだった。
「あらあら、随分と少なくなってしまったわね。もう少しだけ待ってあげてもいいわよ。他のお仲間さんも、ほら、こんな所で死にたくないでしょう。裕福に暮らしたいでしょう? いいのよ、欲に従って。それが元来あるべき姿ですもの」
「惑わされんな、富なんてまやかしだ!」
「まやかし? ふふ、まだ夢を見ているのね。地上の民との共生なんて、できる筈がないじゃない。いずれ彼等は雄大なる海への恩を忘れ、愚かな道を歩み始めるわ。姉だって――姉さんだって、たかが人間ごときに現を抜かさなければ、こんなことにはならなかった」
緑の瞳が〈明石〉の如き光を湛える。怒りを孕むその熱は、いくら海中でも冷めることは出来ないようだった。
「人間がわたくしの宝を奪ったように、わたくしも人間の宝を奪うわ。これは因果よ。そう、悪人の名は平等に与えられるべきだわ」
言葉を紡ぐ怪物は、ハリの目には幼稚に移った。同時に純心であった。
癇癪を起したかの如く身体を捻る大蛇。それに釣られて潮が動き、やがて立っているだけでやっとの荒波となった。
泳ぎの巧みな者ですら、怪物にして神の前では無力なのだ。打ち倒すことなど不可能。それこそ、竜を駆り、国を守ったという地上の豪傑でもなければ、現状の打破は叶わない。
仄暗い悲観が広がる。こんな筈じゃなかった。
落ちゆく視線を掬うように、突然、怪物の尾がハリの胴へ巻き付いた。抵抗の暇なく引き寄せられた身体を、黒の大蛇が覗き込む。その目には再び小狡い商人の如き光が宿っていた。
「ところで、ここで貴方を殺せば、ヨアニスにも希望があるのではないかしら。第一子が死ねば、王位継承権は次の候補に移るものね。王宮の仕様には疎いけれど、そういうものでしょう? そうね、それも――」
怪物の尾はハリを放り出す。失意の中、体勢を崩したハリが目にしたのは、恐ろしく明瞭とした潮の数々だった。
「悪くないわね」
潮は渦となり、肢体を引き裂かんばかりに迫る。
全身が強張り、息が詰まる。
次いで訪れるであろう痛みを覚悟したその時、ハリの視界に見覚えのある白い背が飛び込んできた。
武器も握ったことがなさそうなほど細い腕が水を切り、張り手する。荒々しい潮は弾け、辺りには余波が漂うのみとなった。
「お前――」
息を飲むハリ。一方怪物は、怪訝そうに目を眇めた。
「なぜ邪魔をするのです、愛しい我が子よ」
ヨアニス。ハリの親友は、凛としてそこに立っていた。
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