40話 英知の決壊
ヨアニスという男は、ハリから見て軟弱そのものだった。動きは鈍く、顔付きもどこか女々しい。口を開けば、出て来るのは形ばかりの言葉だけ。
そんな彼は幼い頃、たびたび迫害の対象となっていた。理由は簡単である。尾ビレの様子が、他スキュラと大きく異なるためである。
彼の尾は漆黒だった。鱗はなく、ただ硬くしなやかな皮膚が表面を覆っていた。先端には丸形のヒレ。一般スキュラの持つ二股のヒレとは明らかに異なる。
今思えば、それは実母“黒の母”から受け継いだものだったのだろう。右手を薙いだまま、まるで動こうとしない背を前に、ハリは呆然と思っていた。
「俺は……俺はもう、あなたを母とは思いません。海を荒らし、人々に仇成す怪物よ。即刻ここから立ち去れ」
一言一言を噛み締めるようにヨアニスは紡ぐ。息を飲んだハリはそれに手を伸ばす。気配を察したのか、こちらを振り返るヨアニスの顔には、反発を宣言してもなお穏やかな笑みが宿っていた。
「ハリ。さっきはすまなかった。親不孝者だと……そう言って。これで俺も同じ道の者だ」
「ばっ、馬鹿かお前! ンなことしなくたって――」
「これはケジメなんだ、ハリ。肉親の不始末は肉親が片付ける。大好きな友人に『神』殺しなんてさせないさ」
そう鮮やかな破顔を見せた途端、辺り一面に耳を劈く悲鳴が響き渡った。
化け物だ。ヨアニスの母。スキュラの片神。それは血液を滴らせんばかりに目を開き、口角を膨らませていた。
「ヨアニス――ああ、ヨアニス、ヨアニス! なぜなのです。なぜそこまで、そやつに傾倒する。それは敵、あの男と正妻との子ぞ。忌々しい。なんて忌々しい正統の血め。いつもわたくしの邪魔をしおって……」
ヨアニスは無言のまま怪物へと向き直る。表情は窺い知れない。だが彼の中には確かな決意が読み取れた。
親殺しと神殺し。あるいは同族殺し。青年は若い身空ながら、三つもの禁忌を犯すつもりなのだ。
それは違う。望んでいた展開と遥かに異なる。いくらハリでも、ヨアニスの意志を容認することはできなかった。
「ヨアニス、やめろって! お前だけが――お前だけが業を担う必要はない!」
「……ハリは知ってる? 今神殿で何が起こってるか」
ヨアニスは、まるですっぽりと感情が抜け落ちてしまったかのように静かだった。
しつこく引き留めようとするハリに愛想を尽きかけているのかもしれない。ハリの背を、じわりと焦燥の波が走った。
「今リオ達は戦ってる。俺達の神殿を守ろうとね」
「戦う? 何と」
「幽鬼……確かそう言ってたかな。何かは分からないけど、よくないモノみたいだ」
幽鬼。その話はちらりと耳にしたことがある。
語り主曰く、それは戦の場に現れ、器から抜け出した魂を食らうのだという。
死後の安寧を妨げ、循環を乱す。その伝承が確かならば、怪物との対峙の中で散って行った仲間も、その歯牙に掛けられかねない。ハリはどうしようもない震えを身体の奥に感じた。
「なるほどね。あれが連れて来た……訳か」
「あの二人に何かあったら大変だ。早くこっちを片付けて、向こうの加勢に――」
ふと目を向けた怪物は笑み深めていた。どこからどう見ても、それは人々に仇成す化け物そのものである。
「そう。今アレは、こちらを見ていないのね」
首をもたげる大蛇は、ぐにゃりと口角を歪めた。まずい。そう思った時には、ハリの身体はヨアニス共々吹き飛ばされていた。
荒々しい潮は辺りを大きく揺るがし、目も開けられぬ程の力を生む。
けたたましい笑声と共に怪物は進んでいく。その先にあるのは仄かな光を灯す神殿――脆い泡で守られた、友人の命だった。
「なっ……やめろ!」
水を蹴り、怪物を止めようとする。しかしそれは無常にも神殿を飾る灯りを薙ぎ倒し、あまりにも長大な身体を打ち付けた。
無音のまま、衝撃のみが水を揺する。打点から波紋が広がり、神殿の絵を歪ませる。
一度目は、耐えた。
再びそれは身体を捻り、長大な尾を叩き付けた。
膜にヒビが走る。だが危うくも、二度目も耐えた。
「やめろ、やめてください! そんなことしたら――」
黒色の顔面に張り付いて、ヨアニスは叫ぶ。一方の緑目は、今にも泣きそうな息子をぎょろりと睨みつけた。
「大人しく従っていれば、お友達を失わずに済んだのに」
ブンとそれは頭を振る。白い手が滑る。放り出されたヨアニスは背を膜に受け止められて、そのままずぶずぶと空気の層へと沈んで行った。
「ヨアニス!」
ハリが叫ぶと同時に、怪物は強く水を蹴る。その力は、これまでとはまるで比較にならなかった。海面と海底、その全てが丸ごと引っ繰り返るのではないかと思う程凄まじい。
衝撃が海を揺らす。
渾身の体当たりを食らわせた怪物から、一筋の紅が立つ。膜に入っていたヒビは見る見るうちに広がり、一つ、また一つと破片が落ちて行く。次第にそれは、無音のままになだれ落ちた。
身体に伝わる振動が、ただ崩壊を告げる。三度目にして、英知の結晶は砕け散ったのだ。
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