19話 よい夢を

 鐘が鳴る。腹に響く、深く高く耳障りな音。出航の日を告げる鐘が、港の賑わいをより一層酷いものにした。


 足の悪いプランダに代わって、見送りに来てくれた兄妹は、最後まで僕たちの旅路を案じていた。


 街に着いたら真っ先に宿を確保することや、船に乗る際には出航日を確認しておくこと。可能であれば整理券を得ておくこと。荷物を増やし過ぎないことなど、それこそ実の親のように口を酸っぱくして言っていた。


 彼らの言葉は正しい。どれもこれも、僕たちがヴァーゲ交易港で仕出かした失敗が、それを物語っている。


 今回は宿を探すべく歩き回らなくても済んだが、次に訪れる港やその先にある街でも、そのような幸運に恵まれるとは限らない。予期せぬ外寝を強いられないよう、そして無益な時間を過ごさぬよう、僕はきちんと反省した。


 もう同じ過ちは犯さない。


「そうだ。これ、ばあさんから預かってたんだ」


「プランダから?」


 ベンノが胸元から取り出したのは、一枚の封筒だった。鳥形の浮き出し模様を施された、白い包み。僕はそれを受け取って、くるりと手首を返す。裏面に文字はない。本当に、僕たちに直接渡すためだけにしたためられた文章であるらしい。


「ばあさんがよろしく言ってたぞ。あと定期的に手紙も欲しいってさ」


「いいけど……プランダからの手紙は受け取れないかもよ? 僕たち、そこら中を歩き回る訳だし」


「それでもいいんだと。――まあ、暇があったらでいいんだ。構ってやってくれ」


 ベンノの大きな手が、僕の頭を掻き混ぜる。僕は便箋を手に、首を竦めた。


 その時、二度目の鐘が鳴った。次の鐘が鳴ったら、今度こそ船は港を発つ。それまでに船に乗り込まなければ、また一週間の足止めを食らってしまう。


「リオ様、そろそろ……」


 静かに言葉を述べるカーン。僕は頷いて、この港街に降り立った頃よりも増えた荷を持ち上げた。


「本の翻訳が終わったら、また来るね。あっ、手紙もちゃんと送る!」


「ええ、ええ。いつでも遊びにおいで。待ってるからね……」


 目元に涙を滲ませたディアナは何度も頷く。気の効いた人なら、彼女を抱き寄せて別れを済ませる場面なのだろうが、生憎僕はそのような性分を持ち合わせてはいない。代わりに僕は、元気よく頷いて応じた。


 桟橋と甲板の間に渡された板を登り、船へと乗り込む。視界の端で次々と担ぎ込まれる荷物を捉えながら、僕はこれまで歩き回っていた、赤茶けた街を見下ろした。


 とうとうお別れだ。僕たちは長い旅へと漕ぎ出す。三度目の鐘の音が鳴り、陸と船とを結んでいた板が外さた。影と共に白く広い帆が降りてくる。それを待っていたかのように穏やかな風が頬を掠め、布を膨らませた。




「リオ様、昨晩はお休みになられましたか?」


 そう尋ねながら、カーンの腰が僕の隣に降りてくる。


 荷物の影、海を望むその位置は、我ながらよい選択だった。他人の視線を気にする必要がない。加えて照り付ける日光からも、心許ないながら逃れることができる。しかしそんな場所だからこそ相棒と向き合うことは必須であり、隠し事はできなかった。


「見てたでしょ」


「さて、何のことでしょうか?」


 嘯く相棒は目を細める。僕は全身から息を吐き出して、


「全く。やっぱり、カーンがいないと駄目みたい」


「光栄でございます」


 頬を緩めるカーンは、本当に嬉しそうだ。同時に誇らしげだ。


 老婆の養女との同衾は、僕に安眠をもたらすことはなかった。それどころか絶え間ない緊張を押し付け、砂漠を歩き回るよりも遥かに深い疲労が僕に残った。しかし何も得なかったという訳ではない。優しい女性の気まぐれは、ありもしない幻想を、僕に抱かせた。


「……お母さんって、あんな感じなのかな」


 零れてしまった言葉は、もはや撤回のしようがない。せめて聞き逃してくれれば――そう思ったが、あからさまに表情を殺すカーンが目に入って、僕の口角が歪む。


 僕には母親がいない。父親と呼べる人物は存在するが、血が繋がっている訳ではない。僕は知らないのだ、血縁の親子の営みというものを。


「キミに言っても仕方なかったね」


「……いいえ。何と返したものかと……悩んだだけです」


「正直だねぇ」


 無理に慰められるよりは、気が楽だった。


 僕は天を仰ぐ。


 てっきり荷物とのみ同席するとばかり思っていたが、どうやら僕たち以外にも乗客がいたらしい。どれも慣れた様子で自分の荷を確認し、あるいは横になり、さらには逞しいことに商談を進める声も聞こえてくる。


 商売意外の目的で船に乗っているのは、どうやら僕とカーンだけのようだ。確かに、よほどの物好きか訳アリでなければ、変わり映えしない光景に、何十日も拘束されたいとは思わないだろう。


 軽い後悔を始める僕の脳裏に一枚の封筒が蘇った。ヴァーゲ交易港の去り際、ベンノより渡された老婆の伝言。それを荷物から引き摺りだして、破いてしまわぬよう丁寧に開封した。


 書かれていた内容は、大きく分けて三つだった。


 まず一つに礼とお詫び。プランダは物語りと、僕が魔界の本の翻訳を請け負ったことへの礼。もてなしが十分にできなかったこと、そして見送りをすることができなかったことを詫びていた。


 二つ目に、旅の安全祈願。その内容は確かに安全を願うものであったが、彼女の養子たちが刷り込むように口にしていた事柄と合致していた。同じ屋根の下にいると、思考まで似通うのだろうか。


 そして三つ目に、僕たちが目先の希望として設定していた、馬人族と魚人族――古くから人間界に住まう種族の行方について書かれていた。


「馬人族も魚人族も、どっちも数を減らしているんだね。道理で話を聞かない訳だ……。環境に適応できないとか、そういう理由なのかな?」


「それもあるとは思いますが、一番の理由は人間族の繁栄でしょう。……それも含めての環境の変化ですか」


 人間族は、他種族と比べると歴史の浅い種族だ。同時に、謎の多い種族でもある。


 彼らは他の種族よりも繁殖能力が高く、また社会を築きたがる。家族を、そして隣人を大切にすることが多い。

 そんな彼らが子孫を繁栄させることは、当然と言えば当然で、その結果他の種族を侵食していくこともまた必然である。


「魚人族は特に港周辺で目撃されている、か。ちょっと意外だね。陸や人間から離れた場所に住んでいるのかと思ってた」


「そうですね。……一方の馬人族は、確かな情報はないようですね。“人避けの森”とやらに生き残りがいるらしいですが」


「“人避けの森”なんて初めて聞くよ。どんな所なのかなぁ。方向は合ってる……よね。ヴェルトラオム島の東の大陸って書いてあるもんね」


 プランダが知っているならば、地元の民に尋ねれば、より有力な情報を得る事ができるだろう。少なくとも、僕たちの本来の目的である〈兵器〉の捜索を直前の目標に据えるよりは、幾分か気が楽だった。


「何か手掛かりがあるといいね」


「……そうですね」


 神話――特に、〈兵器〉捜索の依頼主が治める国、あるいは周辺諸国にのみ伝わる、伝説の代物。それはたった一説、いや、ほんの数文にしか組み込まれてないにも関わらず、物語の重役を務めている。そんな物を現実においてその全貌を垣間見えようなど、無謀も甚だしい。


 神話は、伝説は史実と同義ではない。僕はそれを知っている。だが作り話の中にも、僅かながら史実が含まれる可能性がちらつく。それを追って僕たちはゆっくりと、それこそ帆船のように、虚実定め兼ねる「歴史」の海を漂っていた。


 僕は大きく身体を伸ばす。一晩中敷かれていた緊張の所為だろうか、全身の筋肉が強張っていた。軋む身体を労いつつ、ゆっくりと身体を緩めていく。そんな様子を目敏く捉えて、相棒は荷物から薄い布を引き摺り出した。


「お休みになられますか?」


「ん、ちょっとだけ。……膝、借りていい?」


「はい、どうぞ」


 カーンは足を伸ばす。僕は外套を身体に巻き付けて、それに頭を乗せた。


「……硬い」


「枕ではありませんから」


 慣れ親しんだ声が降ってくる。筋肉質で逞しい腿。落ち着ける場所を見つけるべく僕が動くと、カーンは困ったように笑った。


 やはり落ち着く。僕は目を瞑って、大切な相棒の気配を胸いっぱいに吸い込んだ。


「よい夢を、我が主」



  ―第1章 ヴァーゲ交易港編 完―

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