第3話


もう足は届かなかった。


やがて、その白い男が一気に近づいて来たのが、感覚的に分かったという。

鼻と口の中に海水が流れ込み、むせた。

頭の隅で鐘の音が鳴っている気がした。

自分の前にそいつが居る。直視したら意識が消える気がした。死ぬと思った。


それは、例えようのないほど邪悪でおぞましい、しかし確実に実体らしきものを伴った存在だった。

もし悪魔がいるとしたら、あれもその類いとしか考えられないと思った。

もう助からない…と思った時、不思議な事が起こった。

心臓の奥の方から何か光のようなものが湧き上がってくるのを感じた。


ごーっという勢いで、一気に頭の中まで駆け上がって来たそれは、激しい衝動であり、眩しい光だったという。

すると、頭の隅で鳴っていた鐘の音が、何だか耳元で聞こえてる気がした。

それは鐘の音ではなく、人の叫び声だった。


あんた何してんだ!危ない!


背後から声がして、がっしり右腕を掴まれ引き戻された。

近くの岩場で釣りをしていた人だった。

帰り支度をして岸壁の階段を登っている時、少し離れた所から海に入っていく彼女が見えたらしい。

誰も居ない、黒くなりつつある水面を彼女はゆっくり進んでいたという。


釣り人は何度も大声で呼びかけたが、聞こえてないのか、どんどん深みに進んで行く彼女を見て、慌てて助けに行った。間一髪だった。


その後の記憶は断片的で、あまり覚えてないらしい。

後日、釣り人から聞いた話によると、彼女は号泣していて最初は話せる状態では無かったそうだ。

一時的に保護された先で、死んだように眠り、翌朝何事も無かったように起床して周囲を驚かせた。


この経験をして以降、彼女は少し、ある種の感覚が変わったという。

相変わらず浮き沈みの症状はあるが、それまでの耐え難い浮き沈みから、酷い浮き沈み程度に変化した気がすると言っていた。

あの時、心臓から頭に突き抜けた、ある種の感情を持った光が、脳細胞の重い一部に風穴を開けて、吹き飛ばしてくれたのかも、と感じていた。

それが何なのかは分からない。

ただ、ダウン傾向の予感がする時や、しんどくて辛い時、心臓に手を当ててあの時の光を思い出すのだという。


そうしたらね、鼓動に合わせてジーンときて、涙が出てくるのよ。

あの時みたいに。それで大体復活出来てる。


そう言って彼女は笑った。


彼女は、そういう自分の業を抱えながら、以前と変わらず医療の現場で頑張っている。今は旦那さんと子供達に囲まれて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔の海へ 星村悠木 @ysn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ