キャラメルキッス
音水薫
第1話
丘の上にある洋館に近づいてはいけません。
町の大人は子どもたちにそう教えていた。そこには洋妾が住んでいて、関わると悪い子になってしまうよ、と。
女学校に通う途中、その館の前を過ぎる少女たちはみな一様に俯いて館から目をそらし、早足になった。百合子も同様に登校していた。
そんなある日、歌が聞こえてきた。
待てど 暮らせど
こぬひとを
宵待草の
やるせなさ
今宵は月も
出ぬそうな
「宵待草」だった。竹久夢二が作詞した、叶わぬ恋から生まれた流行歌。しかし、それは百合子が生まれるよりも前に発表されたもので、彼女自身も母が戯れに口ずさんでいるときにしか聞いたことがなく、洋館からそんな古めかしい歌が聞こえてくるとは思ってもいなかった。
同級生たちは呪詛でも聞いてしまったかのように耳を塞ぎ、きゃあ、と声を上げて走り出した。
しかし、百合子は初めて海を見た時のようにぼうっと立ち尽くしていた。きっと、その声、その歌でなければ彼女もほかの少女たちとともに行き過ぎてしまっただろう。
ひとり取り残された彼女は歌が終わるまで、塀に遮られて見えない歌の主に心を囚われて洋館をじっと見つめていた。
宵待草以降、歌は聞こえなくなってしまった。
(もういなくなってしまったのかしら)
百合子は通りかかる人がいないことを確かめたあと、塀に手をかけて背伸びし、中を覗いた。
すると、いた。
白磁のように白い肌の女性が髷も結わずに鳶色の髪を風で揺らし、開け放った出窓に肘をかけてこちらを見ていた。目があい、微笑みかけられた。
(なんて)
百合子は慌てて塀から降り、学校に向かって駆け出した。
(なんて、美しい)
走る百合子の頬が朱に染まる。目を閉じても気持ちは振り切れず、浮かぶのはあの微笑みだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます