柿崎春樹の正体
異世界から来た賢者は、手すりの隙間から杖をつき出し、修一の胸をトンと突いた。
(あ……)
胸を杖で軽く突かれただけだが、上半身のバランスが崩れ、つられて屋上の
修一は仰向けの姿勢で真っ逆さまに落ちていく。
(あぁ……)
――ドガァァァ
「ガファ……」
背中から落ちた修一の身体は、全身を強打し、修一の心臓が止まった。
修一は仰向けに倒れたまま動かない。地面に強打した後頭部から血が流れている。見開かれた瞳から生気が抜けている。
まばたきの止まった瞳には、賢者が屋上からゆっくりと落下してくる様子が映っていた。ストンと地上に降り立った賢者は、修一の死体を見て満足そうに
「マナ揺動はまだ止まってないな」
賢者はそう独りごちると、再生魔法をかける。この魔法は、身体欠損部位まで再生する強力な上級魔法だ。だがマナ揺動のある生物相手にしか効果がない。マナ覚醒者は、心停止後もマナ揺動はしばらく続くので、蘇生が可能だった。さらに直前に共鳴魔法をかけていたので、蘇生できるのはほぼ確実だった。
翌日、修一は、オルトゥス協会日本支部近くのホテルの一室で目が覚めた。賢者が修一を見下ろしている。
「起きたか。協会の顧問弁護士に動いてもらったよ。自己都合の退職で話がついた。セクハラはなし。君の経歴に傷はつかない。さあ、立ちなさい」
「……あ、えと、ありがとうございます。飛び降りたはずなのに身体がなんともない?」
自分の身体を触りながら立ち上がる。痛みは全くない。
「
そう言って賢者は魔法を唱えると、等身大の鏡が空中に発現した。鏡は空中を静かに移動し、修一の目前で止まる。
「中級土魔法、アースシールド。術者の私を中心に半径二メートル以内を上下左右自在に動かせる。普通は盾として使うが材質を変更して鏡にした。シャツを脱いで自分の顔と身体をよく見なさい」
言われた通りにシャツを脱いで上半身裸になる。顔は二十八歳にしては若々しい。こんな顔だったっけと内心驚く。美男子といえる顔相ではないが、生気にあふれて、顔も身体も、みずみずしい肌でシミ一つない。
「マナ覚醒者は、マナが細胞の隅々まで浸透し、肉体は若々しくなる。筋力、神経伝達速度も常時強化される。訓練しなくてもこれくらいは握り潰せる」
賢者がリンゴを修一に渡す。修一は力を込めて握るがリンゴに変化はない。
「うーん、ちょっと無理みたいです」
「自分の力を信じていないな。まあいい。英語は話せるかね?」
賢者は英語圏のニュース番組をテレビに映す。
「いや、学生時代に習ったきりで。洋画は好きなんですが、この一年、忙しくて映画見てないなぁ」
そう言いながら少し集中して耳を傾ける。
「……なんだ? 俺、こんなに聞き取れたのか?」
「他の言語も三ヶ月あれば習得できる。集中力も体力も増えたのだ。自覚はないようだが、マナ覚醒者になってからこの一年、仕事の成果も相当にあるんじゃないのか」
――バシャン
「おわっ?」
修一が無意識に力を入れたリンゴが潰れた。
「やっと目が覚めたようだな。ようこそ
「ははっ、俺にはこんな力があったのか」
修一は目を輝かせながら、リンゴを持っていた右手を何度も握りしめる。
「君自身よりも、周りの人間が君の有能さや魅力に気付いていたようだな。相沢亜紀は婚約者より君に惹かれたのだろう」
「じゃあなんで俺に襲われたなんて嘘付いたんですかね」
「ホテルに入るところを目撃した柿崎が、脅したんじゃないか。相沢には婚約者がいる。浮気をバラされたくなければ修一に強要されたことにしろ、とな」
「それこそ意味が分かりません! なんで柿崎さんが俺を
「仕事ができ過ぎる部下は脅威だよ」
「そんな! それだけの理由で俺の人生を破滅させようと?」
「他にも理由があるかもな。だが今さらどうでもよかろう。次は武技の説明をするぞ」
賢者は興味なさ気な口調で応えると、マナの説明に戻った。修一はまだ納得できなかったが、今はこれ以上の推測はできない。
****
修一がオルトゥス協会の専任研究員となって、ひと月が過ぎた。
「柿崎さん」
人通りのない夜道を帰宅中の男に、修一が声をかけた。
「なんだ、柊か」
修一は、何枚かの写真と文章を元上司に手渡す。
「この二週間、あなたと相沢さんのやり取りは全て記録しています。チャットのログもホテルの部屋での会話記録もあります」
「馬鹿なっ。ここまでやるなんて犯罪だぞ。裁判の証拠にはならん」
渡された写真と文章を読んで、顔色を悪くした柿崎が声を上げる。
「ええ。公開する気はありません。ただ柿崎さんの本心を聞きたいだけです。あなたが不倫相手の相沢さんと組んで、セクハラをでっち上げた。なぜです?」
「ふん、この会話も録音しているんだろ? 何を言わせたい? どうせ暴力で強要するなら台本を渡せ。読み上げてやる」
「俺はオルトゥス協会に世話になっています。この調査は異世界の賢者に協力してもらいました。法律も倫理も気にしない魔法使いは怖いですよ」
修一は小さく魔法名を唱える。柿崎の手にしていた書類が燃え上がった。
「アツッ……」
柿崎は慌てて書類を手放し、延焼した袖口を叩いて消化した。灰になった書類を呆然と見る。
「母子家庭で育った俺に、あなたは父親代わりに何でも相談にのると言ってくれた。家に招いてもらって奥さんの手料理を何度もご馳走になった。そんなあなたが俺を陥れようとした。どうしても信じられません。なぜなんですか!」
「チッ、お前の母親の愛子に頼まれたから面倒みてただけだ」
「そんな……」
「愛子があんなジジイと結婚したのはどうせ財産目当てだ。未亡人になったら俺とよりを戻すつもりがあるかと思って優しくしてやったんだ」
「付き合ってたんですか」
「死んでしまえばもうどうでもいい。お前は俺が狙っていた亜希にも手を出しやがって、目障りだったんだよ。まあ、お陰で婚約破棄になった亜希の傷心に付け込んで俺の物にしたけどな」
「ハハッ、くだらない。アンタみたいなゲスな人間のせいで俺は自殺するまで追い込まれたのか。もう二度と会いませんよ。……魔法は証拠が残りません。せいぜい不審火に気をつけることですね」
そう言って修一が踵を返すと同時に、柿崎の足元から火が吹き上がった。修一は振り返ることもなく歩き去った。
「アァァァ」
柿崎が悲鳴を上げながら転げ回る。火はすぐに消えた。だが彼は心身ともに恐怖で
二ヶ月後、柿崎はドライブ中に運転を誤って事故死した。修一との最後の会話以来、不眠が続いていたという。
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