5:38「心の闇」
「――!?」
理性が戻った時。
目の前に飛び込んできたのは、真っ赤な肉塊だった。
俺の身体はいたるところが返り血に濡れており、どろつく感覚が奇妙な気持ちの悪さを与えてくる。
よくよく見てみると目の前だけでなく、部屋のいたるところが赤く――何かの血で染まっているのが見て取れた。
そして部屋のいたるところに、目の前にあるものと似た肉片が飛び散っていた。
気が付く前と場所は変わっていないはずなのに……まるで戦争で焼け野原となった住宅街のように、全くの別物に見えるほど変わり果てた姿を前にして、俺は頭を悩ませる。
そもそもこんな場所にいて頭が正常に動いていること自体が異常だというのに、俺はそれに気が付かない。
それどころか、勘違いした俺の頭は――。
「そういえば、なんでまだここにいるんだ? ガレイルは殺したんだ。元の空間に戻されてもいいはずじゃ……クソ!」
妙な苛立ちを覚え、肉塊を殴りつける。
べちゃりとした感触が手にまとわりつき、全身に虫唾が走った。
しかし何度も何度も、左右の拳を振り下ろしているのは悪い気分にはならない。
飛び散った血がさらに顔を濡らす。
そのうちそれが目に直撃して、ベタベタの手で顔を抑える。
すると血濡れて感覚の鈍った手の中に、何本か糸のような物が紛れ込んでいることに気が付いた。
何かの毛だということにはすぐ気が付いたが、ものすごく長い。
腕にまでまとわりついたそれは、伸ばすと優に1メートルはありそうな長さだった。
こんなものが何処から出て来たのかと思って見ていると、ほんの数センチだけ元の色が見える箇所があった。
吸い込まれるように目線がそこに集中した瞬間、正常だったはずの頭がようやく違和感を自覚した。
纏わりついていたのは。紛れもなく俺の髪の毛――それも俺自身から抜けた物じゃない。先端部分に微かにくっついていた肉片が、それを確かに物語っていた。
「え? じゃ、じゃあこの肉塊は……肉片は! この血は! は? うそ、俺何をして……あ、ああぁぁぁ!」
理性を失っていた間の事が全て、頭の中にフラッシュバックしてきた。
あの時、怖がって話を聞いてくれなかった俺(偽者)の抵抗の直後。なぜかプツンと来た俺は、その
その時の自分自身がどんな表情をしていたかまではっきりと覚えている。
弱者を見下し、顔を大きくニヤつかせて、物言わぬ肉塊となり果てるまでこの手を止めることはなかった。
普段だったら絶対にありえない。
あんなに嬉しそうな、いや気持ちよさそうな表情を浮かべて人を、あろうことか自分をなぶり殺して、それで罪悪感のひとつも感じない。
ガレイルの時だってそうだった。
確かに憎かったし、一泡吹かせてやりたいという気はあった。でもあんなことを望んでいたわけじゃない。
顔面を吹っ飛ばして、その死体を見て興奮していた。
以前、ヤマダ戦の後は思い出しただけで吐きそうになったというのに。
絶対におかしい。
そう思うと同時に、言いようのない恐怖が襲ってきた。
血の匂いが脳天を突いてきて、この場から逃げなければと思った。
これ以上ここにいたら本当にどうにかなってしまう。
その一心で部屋から逃げ出した。
血だらけの地面に躓き、転んでも、とにかく足を動かした。
あの部屋以外には灯りが灯っていない。
その灯りが見えなくなり、完全な暗闇にたどり着くまで……血の赤色が見えなくなるまで走った。
やがて壁にぶつかり体が倒れると、そのまま体を丸くするように膝を抱き寄せた。
真っ暗闇の中で蹲り、身体をビクビクと震わせる。
全身に付いた血の匂いが、絶え間なく鼻に入り続ける。
しかし視界が暗くなった分だけ、頭は考える余裕が生まれていた。
この時ようやく、何故元の空間に戻れないのかが分かった。
第二の試練……己の負に打ち勝つ。
それは己の〝中〟に眠るもの。
〝外敵〟であったガレイルを倒しても、戻れないのは当たり前の事だった。
いや……むしろ、あえてそうするように仕向けていたんじゃないかとすら思えてくる。
思えばあの段階から俺はおかしくなっていた。
乗り越えるべき敵は己の中にある。
だったらまずは、その敵を表に出してやらなければならない。
己の中に眠る負……復讐心や恨み辛みを重ねていた、いわば裏の俺を表面化して、意識するように仕向けたんだ。
そしてそれが最も出やすい状況が、一人でなんとかしなければならなく、且つ不完全燃焼のまま終わってしまったあの誘拐事件の現場。
俺の、エルナとしての人生における不幸の始まりともいえる場所だったんだ。
つまり、あれが……あのニヤケ面の俺が、越えるべき敵だと。
どうやって倒せってんだよ。そんなもの。
「そんなの……無理ゲーだろ……」
どうやって勝つかわからない、ヒントもない。
そんなものにどうやって勝てって言うんだ。
そもそもそんなことが可能なのか?
自分の中の自分を倒せって、まるで意味が解らない。
考えれば考えるほど、その方法が思いつかないことにイラついて仕方がない。
時折脳裏に焼け付いたあの真っ赤な部屋が頭を横切って、そのたびに体がびくびくと大きく震える。
あんな事が平気で出来る、正気の沙汰とは思えないものが自分の中にあったのかと思うと、どうしようもなく自分が怖くなった。
怖い。どうにかして乗り越えたい。
でもその方法はわからない。
どうしようもない、何もできないで蹲っている今が苦しくて、腹が立って、いっそ楽になってしまいたいとすら思うようになってくる。
脳裏に浮かぶ真っ赤な部屋が、やがて屋敷の中に結びついていく。
何かがキッカケで暴走し、血にぬれた部屋で倒れる家族。その中で笑みを浮かべて立つ俺。
そんな妄想までするようになって、抱き寄せる膝と腕を引っ掻き回す。
あんな自分がいたのなら、もしかしたら想像通りの、悲惨な事件を起こしてしまうかもしれない。
そんな妄想に憑りつかれ、声にならない悲鳴が上がる。
「や……ああぁぁ……ゃだ……違う……こんなの……こんなのは俺じゃない……!」
否定して打ち消そうとしても、そうすればするほどに、頭に浮かぶ映像は鮮明になっていく。
真っ暗なはずの視界が赤く染まり、他に何も考えられなくなる。
血の色と血の匂い。
それから俺自身が浮かべる
まるでPCがウィルスにでも感染してしまったかのように、正常な領域が瞬く間に間違った妄想に汚染されていく。
違う。
違う。
違う。
俺はこんな事望んでない。
こんなのは俺じゃない。
分かっているのに、それで合っているはずなのに。
表か裏か、どっちがどっちなのかもうわからない。
深く、深く闇の中に落ちていく。
今まで自分であった存在が……いや、どうだったんだっけ。
わからない。
でも落ちていくのは、なんとなく心が安らいでいく気がした。
このまま楽になれるのなら、それはそれでいいのかもしれない。
――でも、その時。
『たす……け、て……――――』
ただひたすらに落ちていく、底の見えない闇の中で。
一番大事な……この世の何よりも大切な人の、助けを求める声が聞こえた。
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