4:31「隣海の夏と旧知の竜 4」
「匂うの――どらごんさんの、匂い」
「……なんだって?」
一体何を言い出すかと思えば、ドラゴンの匂いだと!?
ののの言葉を聞き、俺は前に出たグレィの顔を見上げると、彼は前から目を離さずにそっと頷いた。
ドラゴンであるグレィが同じ匂いを感じ取っているというのなら、おそらく間違いはないのだろう。しかし、なんだってののが……。
「穏やかじゃねえな」
「うん。母さん、シーナさん。杖出しておいた方がいいかも」
「そうね。グレ君、エルちゃんをお願いね」
「っ……母さん……」
「わかっている」
母さんとシーナさんが杖を精製し、俺も続こうとしたところで、母さんはグレィにそう言った。
昨日からずっと、両親の前ではできるだけいつも通り振舞っていたつもりだったのだが……どうやら精神的に不安定なことはバレていたらしい。
普段と変わらないようにしていたのは、俺の意思を尊重したのか、はたまた何かを察して話してこなかったのか……まあ、どちらにせよ今考えることではないが。
不安定と言っても、俺だってただ守られている気はない。
確かに魔力の――高度な魔法のコントロールは不可能かもしれないが、それでも身構えないよりはずっとましだ。
そう思い、俺があらためて杖を精製し構えるとほぼ同時。
アーチの奥に聳え立つ巨大な岩柱の陰から、190センチはあるであろう長身の男が姿を現した。
比較的細身の、しかしがっしりとした体つきをした男。
その体と、輝くようなアクアマリンの髪を濡らしている彼を見た途端、俺たちは言葉を失うとともに一歩後ずさってしまった。
だって彼、全裸なんだもの。
すんごいぷらぷらさせてるんだもの。
「会っていきなり失礼な客人だ」
「いやいや服着ろよ!」
「服……ああ、なるほど」
男は首を傾げつつもそうつぶやくと、左手を海の方へサッと構え始める。
するとどういう訳か、まるで男の方へ吸い込まれるように、渦を巻く海水が彼を覆った。
それからほんの数秒の後。
覆っていた海水が弾け、中から姿を現した男は全裸……ではなく、海の色をそのまま映したかのような綺麗なズボンとコートを身に纏っていた。
「こいつぁ一体……」
「フム、これならいいだろうか。元よりお客人方も裸と変わりない恰好だと思うのだが、ヒトと言うのは分からない生き物だ――なあ、『グラドーラン』」
「……『リヴィア』」
「グレィ、知ってるの?」
「あぁ……我の故郷によく来ていた。……幼馴染と言ったところだ」
俺の問いかけに、グレィは地面を踏みしめながら頷く。
先の言動と言い、魔法のような衣服の纏い方と言い、ののが言っていたドラゴンの匂いとは、このリヴィアという男から発せられていたものなのだろう。
グレィの反応と共に、俺たちはより一層気を引き締め、臨戦態勢をとる。
「うーん、一度武器を降ろしてもらいないだろうか? 別にオレは争おうという気はないのだが」
「何?」
「君らは住処の前でドンパチするのか?」
「住処? 住処だと? しかしここは毎日巨大な音が鳴ると言うではないか。そんな場所に住んでいると?」
「ああソレって、もしかしてこれのことか――」
もしかしてと言いながら、リヴィアは波打つ海へ体を向ける。
するとそのまま腰を下ろし、両手の平を海水面に添え……
「はッ!」
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
鼓膜が破れそうなほど大きな音が、俺たちの耳に襲い掛かってきた。
どういう訳か水しぶき一つ上がらず、音だけが青空と鼓膜に響き渡る。
余りの大きさに俺は咄嗟に耳を塞ぐが、それでもギンギンと頭に訴えかけてくる騒音にやられ、膝をついてしまった。
「これはオレの日課でね。寝起きにやるとすっきり目が覚め――おや?」
スッキリ爽快。そう言わんばかりのさわやかな笑顔を見せるリヴィアだが、耳を抑え、膝をつき、のたうち回る俺たちの姿を見て首を傾げた。
いや、首を傾げるな。
「これまたどえらい高度なモンを日課にしとるのう……老人の耳は優しくせんか小童め」
「み、みみ、が……」
「ぐおぉぉぉ……」
「グラドーランまで……ああ、普通はそうなるのか、これは失礼した。獣人のバアさんが言った通り、結構高度な魔力コントロールが求められるものなのだがね、ウォーミングアップに丁度いいのさ。後は退屈な時の暇つぶしにやったりもする」
「よく今まで何の被害も出なかったもんだ……」
「ヒトの気配を感じたら控えるようにしている」
ならなぜ今は何の躊躇もなく……ああ、まだ耳の中ジンジンする。
音の余波が収まり、耳が正常な働きを取り戻すまで数分を置いた。
それまで何をしてくるまでもなく待っていたリヴィアを見るに、本当に敵意があるわけではないのだろう。
「大丈夫か、お嬢」
「う、うん……ありがと」
グレィが差し伸べてきた手を掴み、立ち上がる。
他の面々もほどなくして立ち直ったようだが、リヴィアはそんなことよりも気になるとばかりに顎に手を置き、俺とグレィをじっと見つめてきていた。
「な……なに?」
「グラドーラン。その女が噂に聞いた『ご主人様』ってやつか?」
「………………」
「………………」
「「なっ!?」」
俺とグレィが声を合わせ、共に驚愕の表情をリヴィアに向ける。
母さんは「あらまあ」とびっくりしたような声をあげ、親父とアリィは吹き出し、ミァさんは眉間にしわを寄せ、ののは「ごしゅじんさまー」と便乗し、何も知らないリリェさんは疑問符を浮かべる。
シーナさんだけは無反応だった。
「な、なんでそれを……」
「…………(プイ)」
なぜ初対面のはずのリヴィアがそれを知っているのか。
同じ竜族であるグレィならと目を向けてみると、グレィは顔を赤くして、逃げるように視線を逸らす。
「あのグラドーランがそこまで堕ちるとは……」
「う、うるさい!!」
やだ!
なんかグレィの反応がすごく女々しい!
まあ、今のグレィを出会ったばかりの頃のグレィに見せたら卒倒しそうではある。
「オレたち竜族は、同じ血族――親族間で念話の様な交信が可能なのだ。グラドーランは『テ族』でオレは『ト族』だが、ト族は代々テ族と交流が深い。血族が違えど情報に関してはほぼ共有していると言っていいだろう。一部例外はあるが」
「……ワーオ」
「それは初耳です」
「ああ。だがそれなら……」
ミァさんに続き、親父が少しばかり言葉を重くしながらグレィを睨む。
リヴィアの言う通りだとしたら、グレィの――フォニルガルドラグーンの血族だというテ族とグレィは、例え居場所が違えど密接につながっているということになる。
これはつまり、一歩間違えばフォニルガルドラグーンの一族全員を敵に回すかもしれないということにも繋がる。
グレィ一人でさえ苦戦を強いられたというのに、その一族全員など絶対相手にしたくない。
まあ、グレィが今テ族の中でどのような立ち位置にいるかと言う問題でもあるのだが……。
親父につられて俺もグレィに視線を送る。
するとグレィは、頬に一筋の汗を流し、リヴィアへ反論の言葉を送った。
「我は10年前、レーラに命を捧げると誓った時点でそのネットワークからは外れたはずだ。何故リヴィアが知っている」
ネットワークから外れた……と言うことは、先の交信は使えないということになるのだろうか。
人間に恋をするということがタブーなのだとすれば、そうなっても何らおかしいことはない。
しかしそれならそれで、グレィの言う通りリヴィアがその情報を知りえる由も……。
「ああ、そう言えばそうだった。今の情報は、ト族の里に訪れた小さな銀髪のエルフがもたらしたモノだ。テ族の里にも訪れたと聞いているな」
わざとらしく、まるで今思い出したかのように厭味ったらしく言うリヴィア。
だが彼がこうして口にしたこともまた、俺には心当たりがある。
最近竜族の里を飛び回り、グレィに関する情報をかき集めていて、俺が呪いをかけたことを知っている銀髪のエルフ。
そんなの一人しかいない。
「エィネか……」
「エィネだな」
「エィネ様ですね」
「えいちゃんね!」
「…………」
やれやれとチビッ子エルフの名を口にする俺たちに対し、グレィはかなり複雑そうな様子を見せる。
先ほどリヴィアがグレィに言ったことだけでも、幼馴染だという二人の仲がそこまで芳しいものではないことは想像がつく。
もとよりグレィの立場もあまりいいものとは言い難い。
『禁断の恋をした結果家から追い出された王族』となれば、その血族、ましてや竜族全体から見ても汚点の塊と言える。
人間に恋をしたかと思えば、今度はハーフエルフの隷属下に置かれているなど、恥の上塗りもいいところだ。
絶対に知られたくはなかっただろう。
「グレィ……」
「それでグラドーラン、お前は何故そこにいるんだ?」
俺がグレィに声をかけようとした刹那。
リヴィアの口から発せられたその一言によって、場の空気が一変した。
「竜姻は解除されたのだろう? ならば里に戻ることもできよう」
「……リヴィア、貴様には関係のないことだろ」
「呪われた――と、聞いている。が、それが例え【王の声】だとしても、所詮はヒトの扱う禁呪だ。その程度のものに抵抗できないタマではあるまい? 仮にもお前は王位継承者だった身。オレたち竜族の頂点に立つ者なのだからな」
呪いに抵抗できないはずがない。
そう言ったのか、こいつは?
だがしかし、グレィは確かに言っていた。
【王の声】は絶対服従だと。現にグレィはあれから一度も俺の言うことを破ったことはない。
抵抗できるのだとしたら、そもそもルーイエの里の時だってもっと違う結果になっていたはずだ。
でも、もし……
「グレィ、それって……どういうこと……?」
「お嬢、耳を貸すことは無い。こいつは――」
「そーれーとーもー? そのハーフエルフの女に本気で恋でもしちゃってるのかー? グラドーラーン?」
「黙れ……」
耳を貸すな。
そう言ってくるグレィを煽るかのように、リヴィアは大きく口元を歪ませた。
これにグレィは何か感じるものがあったのか、その表情には先ほどよりも一層深い影を落としている。
そのグレィの顔見た俺は、思わず身震いをしてしまった。メラメラと、彼の鋭い目に宿る確かなもの――これはそう、間違いなく……怒りのそれだ。
「おいおい、まさか本当に? あのレーラとか言う人間の姫様の時と言い、それで恥ずかしくはないのか?」
「黙れと言っている……!」
「さっきも言ったがお前は竜族の王になるはずだった男だ。もっと自覚を持ってもらわないとオレらも困るんだよ」
「リヴィア……!!」
「そんな薄汚い『雑種』の呪いなんて、今すギャヴッ!?」
雑種。
この言葉を聞いた瞬間、リヴィアの小奇麗な歪んだ顔に、グレィの拳が襲い掛かった。
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