疾駆

野分 十二

こんな人里近い山林にあっては、この芸術品は直ぐに世間の凡愚どもに見つかって、たちまちのうちに破壊されてしまうだろう。

山居晋太はそう考えた。

この芸術は俺と彼にしか理解出来ないし、若しかすると、彼女にすら理解出来ないだろう。

彼の作品は、彼の精神そのものであるかのように美しいと山居は思った。

時刻は午後18時を過ぎ、雨雲の垂れ篭める山林は人里近くとも鬱蒼とした影を落とし始めている。

今朝のニュースによれば、今晩は四週間ぶりの雨が降るらしい。

それを警戒してレインコートを着込んで来たものだから、酷く蒸し暑い。

山居本人はそう不快を感じていなかったものの、額を流れ落ちる汗がそれを示していた。

蜩の声が遠く聞こえる。

どこか懐かしく、哀愁ある羽音が夏の終わりを想像させるが、本当は夏の始まりに鳴く生き物であると、どこかで読んだのを幽かに思い出す。

その通りに、まだまだ季節は夏であった。

徐々に沸き始める湯のような苛立ちが山居を襲い始めた。

彼は何故ここに、この作品を放置したのか?

きっとこの後降る雨によって絵の具は流され、作品は台無しになってしまうだろう。

暑さによって腐敗した姿で誰かの目に触れてしまうだろう。

誰かに価値を奪われてしまうだろう。

彼の存在もまた、この作品における哲学の内から消え去ってしまうだろう。

程なくして、山居は彼にこの作品を隠す役割を授けられたのではないかと思い至った。

彼の要望はいつも無言で示されるのだから困ったものだ……つまり、今回も俺が処理してくれると踏んでそうしたのだろう。

そう確信した瞬間、山居が先程まで感じていた苛立ちは途端に使命感へと変化した。

自宅から乗り付けて路肩に停めておいたジムニーから、新品のブルーシートとシャベルを無造作に取り出した。

全て彼の為に、彼の作品の為に、何日も前から用意していたものだった。

作品を保護しなければ、隠さなければという気持ちだけが山居の挙動総てを支配していた。

厳重に保護してしまえば、そう易々とはこの作品に再会できないだろうと、既に様々な角度から写真を収めていた。

山居は穢れ無き乙女に触れるかの様な神聖さを以って恭しく作品を抱え上げ、また扱い、許す限りの時間をかけ、丁寧にブルーシートで作品を覆うと、間違って発見されないようシャベルで幾度も土を被せた。

普段しないような運動によってかいた汗で、レインコートの内側はぐっしょりと濡れていた。

これではレインコートを着てきた意味もあまり無いな、と山居は息を切らせながら自嘲した。

やがて、作品は万全に保護された。

ポケットから取り出したスマートフォンで時刻を確認すると、時刻は既に20時を迎えている。

山居がふうと安堵の息を深く吐き出した刹那、ポツポツとした温い数滴を皮切りに、一斉に雨が降り出した。

夏らしい、急な激しい雨だった。

山の土が雨を吸い込んで強く香りを放つ。

その包み込まれるような青い香りが、酷く心地好く感じられた。

山居は土のついたシャベルを助手席に放り込むと、濡れたレインコートを着たままジムニーの運転席に乗り込んだ。

土砂降りになりつつある天気とは裏腹に、爽快な気分だった。

挿したままのキーをまわしてエンジンをかけ、サイドブレーキを外してアクセルを踏むと、転がり始めたタイヤが砂利を踏むざらついた響きが、雨音を貫いて彼方へ消えた。

作品から1m、また1mと離れる毎に不安は積もったが、同時に、作品が隠された事によって得た更なる特別さは、山居の心の中で満足感として膨らんでいった。

山居はジムニーをゆるゆると走らせながら、静かに深呼吸をした。

雨はまるで山居の感涙を代打するかのように酷く振り続けていて、フロントガラスに落ちては万雷の拍手を奏でている。

今日の全てが彼と、彼の作品の為に整えられた舞台だった。

山居にはそう感じられ、今更筆舌に尽くし難い歓びと共に、腹の底から武者震いが湧き上がって来た。

平静を呼び戻すかのように、何度も何度も深呼吸を繰り返した。

「彼の元へ。」

幾ばくかして、山居は呟いた。

山居の運転するジムニーはじきに山道を抜け、いくつかの田畑と民家を通り過ぎ、取り零されたような数軒の家屋を越えて、やがて街へと至るだろう。

そうして自宅へ辿り着けば、彼が山居を待っているに違いなかった。

山居はアクセルを踏み込み、ヘッドライトを点灯させた。

夜がやって来る。

夜が来ると……そうだ、また朝がやってくる。

彼に会える眩いあの朝が、何度でもやってくるのだ。

武者震いは、いつの間にか止まっていた。


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疾駆 野分 十二 @iamjuni

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