第三十五章 狗神 -2-
スパーニア貴族の出であるビアンカは、騎士として幼少期より武術を叩き込まれている。
しなやかな身体には、ばねを利用して膂力以上のパワーも宿っている。
天狗になっても、無理はなかった。
だが、中等科の流儀が通用するほど、高等科生は甘くない。
ビアンカの撃ち下ろしに体をずらして流すと、アーデルハイトはそのまま勢いを利用して投げ飛ばした。
背中をしたたかに地面に打ち付けたビアンカは、一瞬呼吸が止まる。
「見なよ。ビアンカは素手でも剣の動きをしているけれど、アーデルハイトは組み討ちをするつもりだよ。ボーメンで戦場を経験したアーデルハイトは、戦いの幅が広いんだ。そして、戦い方も、粗くないね」
「ふーん。確かにそうね。アーデルハイトは落ち着いているし、動きに無駄がないように見えるわ」
「無駄はある──が、ビアンカよりは小さいんだ」
ぼくの目から見れば、二人とも隙だらけである。
でも、ビアンカの方が、まだ実戦慣れしていない。
お貴族様の手習いの域を出ていないと言うべきか。
継承戦争で実戦を潜り抜けたアーデルハイトとは、比べようがなかった。
「それで終わり? ビアンカ・デ・ラ・クエスタ」
「──まだまだあ!」
起き上がりざま、ビアンカは左斜め下から斬り上げるように拳を振るう。
アーデルハイトは右腕でそれを流すと、身体を沈めてビアンカの右足でビアンカの足を払った。
たまらず、ビアンカがまたひっくり返る。
「あれは、貴方を真似ているの? アラナン」
「アーデルハイトは努力家だからね。真面目に、アセナの拳も鍛練している。実力はまだひよっ子だけれど、剣を持たないビアンカを捻るくらいはできる」
剣を持っての戦いなら互角だっただろう。
騎乗戦闘なら、ビアンカが勝ったかもしれない。
だが、素手での戦いでは、アーデルハイトの方が有利であった。
接近した間合いでは、ビアンカはその力を生かしきれていない。
「アラナンもジリオーラも、こうなるってわかっていたの?」
「うん。普段の訓練を見ていればね。ビアンカも調子に乗っていなければ素手では敵わないと気付いただろうけれど、最近ずっと騎乗しての移動が多かったからね。自分が他の人より馬術が優れているだけに、慢心を抑えることができなかったんだろうな」
実際、ビアンカの騎乗技術は高等科生でも三本の指に入る。
伯爵やティナリウェン先輩に匹敵すると言っても過言ではない。
ぼくやジリオーラ先輩より、圧倒的に優秀である。
騎士としての資質は、圧倒的にビアンカの方が上であった。
だが、この戦いでは、アーデルハイトに有効打を与えることができない。
豪打、豪剣を得意とするビアンカの戦法は、粗いのだ。
アーデルハイトでも、その兆しを読むことができる。
武器があればまた違ったのであろうが、素手での戦闘では小さく動くことが重要だ。
基本に忠実なアーデルハイトがビアンカを寄せ付けないのも、当然の結果であった。
結局、ビアンカは動けなくなるまで地面に叩き付けられていた。
アーデルハイトに一蹴されたビアンカは、寝転がったまま茫然としていた。
彼女には、いい薬であろう。
下に見ていた相手が、実は自分より上位の実力を持っていた。
プライドが高いビアンカにはショックであろうが、増長した鼻は早めに叩き折られた方がいい。
その方が、戦場では長生きできる。
高等科生たちは解散し、アーデルハイトはゲルハルト・ミュラーと一緒に馬の点検に行ってしまった。
放心状態のビアンカを、イザベルが介抱している。
まあ、外傷は特にないだろうし、肉体的には一晩寝れば回復する程度のダメージであろう。
あのへし折られた鼻のダメージがどのくらいかは、ぼくにはわからないが。
「高等科生と中等科生に、あれほど差があったのね」
マリーにはわからなかったのであろう。
ぼくやジリオーラ先輩、マリーは、中等科から高等科に進級したときには、すでに高等科生の下位陣を上回る実力を持っていた。
ハーフェズにハンス、アルフリートなど、中等科生の枠を超える実力の持ち主もライバルにいた。
だが、イザベルやビアンカなど、普通に進級してきた新人にとって、高等科の下位陣と言えど十分高い壁なのだ。
天才児と言われたステファン・ユーベルが、高等科で壁にぶつかって伸び悩んでいたくらいには。
下位陣をあっさりと抜き去ったジリオーラ先輩やマリーの方が異常なのである。
「伊達に高等科にいたわけじゃないってことさ。積み重ねた時間は、無駄にはならない」
「でも、なんでジリオーラは、こんな戦争の只中であんなことやらせたのかしら。初めは反対してそうだったのに」
「ジリオーラ先輩も、アーデルハイトも気付いているんだよ。明日は、決戦になると」
この二日間で、ヤフーディーヤ軍を追い詰めてきた。
明日は敵の前衛を突破し、
それは、マタザも動くということだ。
そうなれば、当然ぼくらイ・ラプセルの騎馬隊も出撃する。
敵の本陣での戦いともなれば、激烈なものになることは疑いない。
油断は、即、死に繋がる。
ボーメンでの継承戦争を生き延びた高等科生には、それが骨身に染み込んでいる。
だが、新参のビアンカに望むのは酷というものだ。
「ジリオーラは、ビアンカを死なせたくないのね」
「ああ。第二のカサンドラ先輩を出したくないんだろう。あれでも、いつもイザベルとビアンカを気に掛けている」
「あーあ。敵わないなあ、ジリオーラには」
マリーは嘆息し、大きく伸びをした。
豊かな黄金の髪が波打つ。
一日戦塵にまみれても、その輝きは褪せてはいなかった。
「ま、大丈夫よ。どんな手を使ってでも、わたしがみなを死なせはしないわ。わたしはそのために此処にいる。わたしは生命の女王。セルトの聖なる乙女。その力の全てを賭けて、みなを守り抜くわ」
「無理はしないでくれよ。ぼくやイリヤが離れる場面も出てくるはずだ。一人にならないでくれ」
「あら、どの口が言っているのかしら?」
下から見上げるようにして、マリーがぼくを睨んだ。
「いつも真っ先に危険に飛び込んで死にかけているのは、何処の誰なんでしょうね。だいたい、いつも貴方は自分のことは棚に上げすぎなのよ」
右手の人差し指を立てる。
その怒りの仕種には、頭を掻いて降参するしかない。
マリーの言うことも、もっともだ。
どうしてもやらなければならないとき、ぼくはそれほど自分の命を重視していない。
エアル島での教育が、幼少期からぼくには叩き込まれている。
学院のように、楽しいものではない。
静かに、そして冷徹に。
獣を、そして人を狩るための日々。
戻りたいとは思わないが、意識をしていないと身体に叩き込まれた過去が顔を出してくる。
「わかった、わかった。お互い、自分の身は大事にしよう。それでいいだろう?」
マリーは、まだぷんすか怒っている。
だが、本気ではないことは、わかっていた。
とりあえず、明日の夜もこうして迎えたい。
降るような星を見上げながら、そう思った。
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