第三十五章 狗神 -1-

 二日目が終わった。


 全体的にはこちらが押し込んでいたが、決定的ではない。

 敵の右前備は半壊したが、潰走はしなかった。

 ペーローズがバハーラムを討てれば決まったであろうが、老獪なバハーラムはうまくかわしきったようだ。


 とはいえ、敵の右翼が著しく弱体化したのは明白である。

 明日は、崩せるのではないだろうか。


 チョーハチローを討ったことで、ノートゥーン伯ら三人はハーフェズから褒賞を受けていた。

 戦場であるから臨時のものであるが、ハーフェズの持つ短剣や宝石を貰ったらしい。

 黄金の短剣をひらひらさせながら、これは実戦では使えないなと伯爵が笑った。

 装飾華美な短剣は、儀礼的なものなのであろう。

 売れば、かなりの額になりそうだ。


 ペーローズの騎馬隊は、また夜陰に紛れて消えている。

 部隊を再編せざるを得なかったアルキンは、追えていないはずだ。

 明日も、ペーローズの動きが鍵になるだろう。


 イ・ラプセルの騎馬隊は、後方に下がって夕食を摂った。

 ファリニシュが大量の食料を用意しているが、アンヴァルたちの消費も大きい。

 時折、ハーフェズからの支給も受ける。

 ハーフェズはサナーバードを出立するときに輜重を用意してきているので、食料は潤沢だ。

 とはいえ、薄くて固いパンや羊肉の燻製などが多いので、高等科生の評判はあまりいいとは言えない。

 ビアンカなどは、よく文句を言っていた。


「ご飯もまずいし、出番もないし、退屈ね」


 ビアンカがイザベル相手に愚痴をこぼすのはもはや定番の行事であるが、隣で薄焼きパンを齧っていたアーデルハイト・シュピリはそれが気に入らなかったようだ。


「また言っているのね。ボーメンの地獄を知らない新参は気楽でいいわ」


 地道な研鑽で高等科生まで上がってきたアーデルハイトは、ビアンカのようにある程度才能があり、それほど苦労も知らない貴族が好きではないのだろう。

 イザベルのように寡黙な性質でもない。

 ビアンカの軽口が我慢できなかったのだ。


「へえ……それはわたしに言っているのかしら、アーデルハイト」


 そして、自分に向けられた敵意をスルーできるほど、ビアンカは大人しい性格ではない。

 短気で口より先に手が出る。

 それがビアンカという女性の気性である。


「そうよ。出番がなくてよかったわね、ビアンカ・デ・ラ・クエスタ。貴女程度の力で実戦になっていたら、間違いなく命を落としているわ。ボーメンに来た当初のイザベルもひどかったけれど、貴女よりはまだましね。少なくとも、彼女は自分ができないことをよくわかっていたわ」

「ああら、馬に乗せられている程度の騎乗技術しかお持ちでないアーデルハイトに言われたくはないわねえ。ねえ、イザベル?」


 ぶんぶんとイザベルは首を振った。

 巻き込まれたくない。

 それが、イザベルの正直な気持ちであろう。


「随分と血の気が余っているようやんか、なあ、アーデルハイトにビアンカ」


 不穏な気配を感じたのか、トリアー先輩とジリオーラ先輩とマリーがやってくる。

 ファリニシュを除く女性陣は、大抵この三人ずつで固まっているのだ。

 力の差が大きいせいか、アーデルハイト、イザベル、ビアンカは上位の三人にはあまり絡まない。


「ちょっと注意していただけよ、ジリオーラ。戦場を舐めているお貴族様にね。──こんなやつにだって、死んでほしいわけじゃないもの」


 苦々しげに、アーデルハイトが言う。

 ジリオーラ先輩の顔が歪んだ。

 カサンドラ・ペルサキス。

 二人が思い出していたのは、ウルクパルに殺されたイ・ラプセルの騎馬隊唯一の戦死者のことであろう。


「──そうね。でも、いさかいはよくなくてよ、アーデルハイト」


 マリーとアーデルハイトでは、マリーの方が後輩に当たる。

 地道な努力で高等科まで上がってきたアーデルハイトは、高等科でも古株なのだ。

 だが、席次で上であるマリーは、特にアーデルハイトに敬称は使わない。

 それは、他の高等科生も同じである。

 実力主義の高等科では、年数より席次が優先されるのだ。


「それは、彼女に言ってやって、マルグリット」


 とはいえ、アーデルハイトもマリーに敬称を使うわけではない。

 流石に、年下相手にへりくだるほど席次がものを言うわけではない。


「ははは、いいじゃないか、ジリオーラ、マルグリット。戦場じゃ大抵気が昂るものさね。ちっと身体を動かせば、すっきりする。二人にやらせてみりゃいいのさ」


 トリアー先輩の世界は単純だ。

 頭を使うことはない。

 問題は、拳で解決する。

 それが、北方の海賊の流儀だ。


 正気? と言いたげにジリオーラ先輩がトリアー先輩を睨む。

 同じ海の女でも、南方の商会の出であるジリオーラ先輩は、頭を使ってなんぼの世界で生きてきている。

 高等科生で一番油断ができないのが、この人だろう。

 あの聖騎士サンタ・カヴァリエーレとも渡り合える人だと思う。


「面白いわね。やってやろうじゃない」


 そして、気性的にビアンカはトリアー先輩に近い。

 イザベルにも抜かれそうなアーデルハイトのことも、舐めているのだろう。

 ふふん、という感じで顎をそびやかした。


 ジリオーラ先輩はため息を吐くと、ぽんとアーデルハイトの肩を叩いた。


「しゃあないな、アーデルハイト。やったれや」

「任せて」


 アーデルハイトには、気負いがなかった。

 ビアンカの態度にはむかついていると思うが、苛立った様子もない。

 負けるとも、思ってないようであった。


 女性陣が騒がしいのは、伯爵やティナリウェン先輩も気が付いたようだ。

 何事かと出てきていたが、ジリオーラ先輩が説明すると納得したようである。

 トリアー先輩の説明だと、こうはいかないだろう。

 マリーも、ジリオーラ先輩に任せている。

 こういう交渉ごとや差配では、高等科生でジリオーラ先輩の右に出る者はいないのだ。


「武器も基礎魔法バジコ以外の魔法も禁止やで。障壁を破った方が勝ちや。ま、怪我せん程度にするんやで。明日もあるさかいな」

「楽勝よ!」


 ビアンカは、自分の身体強化ブーストには自信を持っている。

 中等科では、パワーで圧倒して首席を取っていたのだ。

 高等科では、魔力圧縮コンプレッションを使える上位陣には敵わないのは理解している。

 だが、まだ魔力圧縮コンプレッションを使いこなせていない下位陣には、劣っていると思ってないようであった。


 高等科生が円を作る。

 二人は、その中で距離を取って相対した。

 審判を務めるのは、ジリオーラ先輩だ。

 ビアンカもジリオーラ先輩には弱いから、判定に不服と唱えないだろう。


「大丈夫なのかしら」


 マリーは、ちょっと不安そうだった。

 彼女は、アーデルハイトが決してそんなに高い実力を持っていないことを知っている。

 それだけに、ビアンカが勝つ可能性も考えているのであろう。


「心配はいらないさ」


 だが、ぼくはビアンカが勝つとは思っていなかった。

 アーデルハイトは、基本に忠実で真面目に基礎魔法ベーシックを鍛練してきている。

 たとえ地味でも、その研鑽は決して自分を裏切らない。


始めアンファンクト!」


 ジリオーラ先輩の手が振り下ろされる。

 同時に、一気にビアンカが前へと出た。


 先手は、ビアンカ。

 豪剣の如く、両の拳を撃ち下ろした。

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