第二十八章 激戦の彼方に -6-
戦場には、静寂が訪れていた。
傍若無人に暴れまわっていたクリングヴァル先生と、イシュバラの二人も手を止めている。
それだけ、この旗が戦場に立った影響が大きかった。
「かっ、どういうこった。たかが旗ひとつ、それに戦場全部が飲まれちまってやがる」
イシュバラとの戦いを止めた先生が戻ってくる。
目立った傷はなさそうだが、流石に神力を大分消耗しているようだった。
あれだけの激突を繰り返していながら、よく無事でいるものだ。
「──存在感ですか。それだけで、兵を圧倒した感があります」
「確かにエーストライヒ公は英邁で剛毅な人物だが、此処まで化け物のような存在感じゃなかった気がするがな。どうだ、アラナン。お前は選帝侯会議で見ているんだろう?」
「覇気の強さは常人離れしていましたが──此処までとは。先生とイシュバラの手を止めるができるのは、
「問題は、そこだって話だよ」
エーストライヒ公の命令か、前線から兵が退き始めている。
一度態勢を立て直すのか、それとも今日はもう引き上げるのだろうか。
「フェストで見たエーストライヒ公は、あんな化け物じゃなかった。だが、いまじゃこれだけ離れているのに、やつがいるのがはっきりと感じ取れる。この短期間で変わったのか、どれとも牙を隠していたのか」
「でも、気配を抑えることができないのは、たいした腕ではないってことじゃないですか?」
「いや、ありゃあえて抑えていねえんだ。その気になれば、気配を消すのも雑作もないだろう。威圧ひとつで戦場を支配できる男だぞ。舐めてかかったら、やられるのはこっちだ」
傲岸不遜なクリングヴァル先生が、エーストライヒ公を警戒している。
イシュバラなら手並みは知れているが、得体の知れぬこの気配には油断はできない。
そう言うことだろうか。
南の城壁の外で先生と話していると、ハンスの騎馬隊が駆けてきた。
東のポルスカ軍団も退いたということか。
重装備の騎士たちに止まれと合図をすると、ハンスは馬を降りて先生に一礼した。
公式には大した身分ではない先生にも敬意を払う律儀さは、ハンスの変わらぬ美点のひとつだろう。
「あれは本当にエーストライヒ公ですか? まるで人間ではないかのような異形の気配を感じますが。魔力が巨大と言うわけではないのですが──」
「少しは上達したじゃねえか、ハンス・ギルベルト・フォン・ザルツギッター。見ろ、向こうの兵も静まり返っている。歓呼の声が上がったのは、一瞬だけだ。みな、何か異様なものを感じ取っているのだろう。この静寂を破ったものは殺される、とでも思っているかのように」
「先生、こんな異様な気配を出せる男は、一人しか心当たりがないんですが」
頭の中に、ひとつの仮説がある。
これだけの異常者ということであれば──。
思い付くのは一人しかいないのだ。
「存在感を自在に操れる男。そこにいるのに、いないと思わせることができる男。数多の顔を持つ男。
「──アラナン君、それは」
「イフターバ・アティード、
一度、フラテルニアで遭遇したことがある。
そのときは、やつの姿さえ拝むことができなかった。
あの異様な体験。
いま、ぞわりと毛が逆立つ感覚は、まさにあのときのものだ。
「エーストライヒ公と入れ替わっているのか、それとも影武者としているのかはわかりませんが、少なくともいま戦場にいるエーストライヒ公は、フランヒューゲルで会ったエーストライヒ公ではない。別人です。それだけは確かですよ」
あの日、選帝侯会議で見たエーストライヒ公そのままだ。
そんなことを思いながら観察していると、不意に、エーストライヒ公がこっちを見た。
心臓が跳ね上がる。
あそこまで、一万フィート(約三千メートル)は離れているはずだ。
間には兵も遮蔽物となって展開しているし、気付くはずがない。
だが、エーストライヒ公は、ぼくが見ていることに気付いた。
そして、軽い衝撃とともに
まさか、
そんな芸当は、あのアルトゥン並みの術者でなければできまい。
冷や汗が背中を伝う。
これは、容易ならぬ敵だ。
警戒を強めているうちに、正面に広がるマジャガリーのニトラ公の陣がふたつに割れ、中から二人の人物が現れた。
あれはイシュバラとセンガンか。
見間違えるわけがないな。
「ヴィッテンベルク及びラティルスとブルグンドの統治者にして、アレマン人、ザッセン人、パユヴァール人、ラティルス人、チェス人、ブルグンド人の支配者たる皇帝陛下の命を伝える」
ぼくらの前に来ると、静かにイシュバラが宣言した。
「慈悲深い陛下は、翌朝まで侵攻を猶予してくださる。その間に、降伏するか開城して立ち去るかを選ぶがいい。明朝になったら、再び侵攻を開始する」
淡々と語るイシュバラ。
皮肉なものだ。
まだ即位していないヴィッテンベルクの皇帝の命を、アセナの人間が、エアル人であるぼくに通告する。
茶番でしかない。
だが、内容は看過できないな。
先生の顔をそっと見る。
本気とは、とても思えないが──。
先生も同意見か。
今さら降伏などするとは向こうも思っていないだろうに。
これは、何の時間稼ぎだろう。
「──そのとき、貴様らに神のご加護があるとは思わぬことだ。大いなる裁きのときが始まる。陛下に逆らうものはみなこの地に倒れるだろう」
それだけ言い捨てると、イシュバラはくるりと
一方、腕を頭の後ろで組みながらぶらぶらしていたセンガンは、いたずらっ子ぽい視線をぼくに向ける。
「ああ、アラナン・ドゥリスコル。キミは無理に降伏や逃亡しなくていいよ。明日の朝には、どうせボクに殺されるんだから。最後の夜を、ゆっくり楽しみなよ」
前回の遭遇で、ぼくとセンガンの戦いは互角、ややぼくが優勢だったと思う。
センガンだって、ぼくの急な成長に驚いているはずだ。
だが、その割には余裕がある。
本当に、明朝になれば確実に勝てると思っているかのように。
「先生、アラナン君、彼らのあの余裕は何でしょうか」
ハンスが訝しげに首をひねる。
「エーストライヒ公の本隊が到着し、兵力は一万を数えるでしょう。総攻めで昼夜を問わずに押せば、僅かな人数のプトヴァイスはすぐに落ちるはず。それを、あえて時間を与えてくれる意図がわからない」
「アラナンの魔術による犠牲を嫌ったんじゃねえか?」
先生の視線は、去っていくイシュバラの背を見据えて動かない。
「──時間を掛けるということは、何か準備をしていると言うことだ。明日の朝になれば、アラナンの魔術を気にしなくてもよくなるってことかもしれん」
「イフターバ・アティードなら、ぼくやアルトゥン以上の術者であっても不思議はありません。
「──昔、
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