第八章 ベールに忍び寄る影 -3-
夕食になってもハンスが帰ってこなかった。
公衆浴場から帰ってきた女性陣たちも、不審に思い騒ぎ始める。
ぼくは胸騒ぎがして、ファリニシュを見た。
「もしかしたら、主様の考えている通りかもしれんせん」
「まさか。でも、どうして!」
ぼくとファリニシュだけで会話していると、マリーが睨み付けてくる。
心配すると思って、
さて、どうしたものか。
「こうなると、みんなにも言っておいた方がいいかな」
どちらにせよハンスの身に何かあったのなら、事情は知ってないとまずい。
ぼくは、イグナーツから聞いた話をみんなに説明した。
それを聞いて真っ先に怒ったのは、カレルだった。
ぼくが黙っていたことに対してもだが、関係のないハンスが狙われたかもしれないという理不尽さに怒ったのである。
そして、マリーはぼくとファリニシュだけ知っていたことにお冠だった。
「そもそもそいつらって、わたしを狙ってきてイリヤにやっつけられた連中の仲間なのよね」
そういや、イフターハ・アティードを陽動にロタール公の手の者がマリーを襲ったっけ。
ファリニシュに凍り漬けにされたらしいが。
「元はわたしの問題なのに、当の本人に黙っているとか、よくないんじゃないかしら」
まずいな。
マリーの目が結構本気だ。
これは、下手に言い訳なんてしたら余計に怒らせる。
此処は素直に頭を下げた方がいい。
「ごめん、悪かった。余計な心配を掛けたくなかったんだ」
「もう、それは
マリーの目が少し柔らかくなる。
確かに、何度もぼくは同じ間違いをしている気がするな。
レオンさんにも言われていたのに。
「まあ、アラナンさんもぼくたちまで巻き込みたくなかったんでしょう。結果的には裏目に出ましたが、まさか無差別に学院関係者に仕掛けてくるなんて思いませんしね。しかも──ハンスさんは、帝国の有力者ザッセン辺境伯の長子。下手をすれば、帝国を敵に回しかねない行為です」
おお、アルフレートが極めて冷静な意見を出してきた。
流石は帝国の大貴族の子供だな、彼も。
「ヴァイスブルク家はアレマン人の有力貴族ですが、ザッセン人を敵に回すような行為をするとも思えないんですけれどね」
「ヴァイスブルク家とはベルンシュタイン大主教が一応の折り合いを付けたらしいし、むしろロタール公が
アルフレートのお陰で話が逸れたので、ほっとしながら問い掛ける。
すると、ファリニシュが自信ありそうに手を挙げた。
「それなら、わっちの鼻で跡を追いなんす」
「追えるのか?」
「わっちは足が速いだけの無駄飯食らいとは違いなんす」
ちらりとファリニシュがアンヴァルを見る。
アンヴァルは顔を膨らませると、抗議の声を上げた。
「アンヴァルは無駄飯食らいじゃないです! とても優秀で有能なできる女ってやつです!」
「未来に期待しているよ」
アンヴァルに付き合っている場合ではないので、ぽんぽんと頭を叩いてファリニシュに追跡を依頼する。
神馬は部屋の隅で黄昏始めたが、流石に慰めている時間はない。
「では、お任せくんなまし。
元々ファリニシュの嗅覚は、人間の何千倍も鋭い。
人間の姿のときは人間並みに抑えているが、その気になれば神狼の嗅覚に戻せる。
これはそういう
部屋に残っていたハンスの荷物を暫く嗅いでいたファリニシュは、やがて辿るべき痕跡を見つけたか、しっかりとした足取りで外に出た。
それにみんなでぞろぞろと付いて行こうとするが、流石に目立ちすぎる。
マリーとアルフレートにだけ付いてきてもらって、アンヴァルとジリオーラ先輩とカレルとジャンには留守番をしてもらった。
余り単独行動もしない方がいいからな。
宿を出ると東に進み、
暫く行くと大きな赤い屋根の市庁舎が見えてきた。
あそこにはベールの市長がいるはずで、お陰でいけ好かない場所となってしまっている。
「どうだ、イリヤ。何かわかったかい」
「まだ、行きの匂いしかありんせん。帰りが……」
「もっと先か」
フロリアン・メルダースが怪しく思えてしまうのは、偏見かな。
今回の件とは無関係かもしれないのだ。
市庁舎を通りすぎ、
飛脚屋の前はいつも人の出入りが多い。
「
「え、ああ、そうだっけ」
そういや、そう習った気はするな。
ベルンシュタイン大主教が自由都市の信仰を獲得した理由のひとつが、飛脚屋を独占したことだって。
そっちのルートから情報を集めることもできるのかな。
後でオニール学長に聞いてみるか。
道は次第に右にカーブし、ニーデ通りに突き当たる。
これを真っ直ぐ行き、アーレ川に架かるニーデック橋を渡れば、
ニーデ通りは都市の中央を貫く幹線だから、こんな人通りの多いところで事件など起こらないと思うが……。
「主様、そっちじゃありんせん。匂いはこっちから漂いなんす」
ファリニシュが指差したのは、ニーデ通りから左斜めに分岐する小路だ。
ニーデ教会の裏側に回る薄暗い道である。
とはいえ、今のベールの人出なら何処の道も人が溢れているのに、不自然なほど人気がない。
「むっ」
ファリニシュが急に立ち止まる。
何だ、いや、わかった。
結界が張られている。
それで人の侵入が阻まれていたんだ。
「この程度の結界で、わっちと主様を妨げられると思いなんすか!」
ファリニシュがふっと息を吹き掛けると、急に目の前の空間が白くなり、広がっていった。
結界を凍らせているのか。
凍った部分から崩れ落ち、すぐに人が通れるくらいの穴が開く。
「行かんしょう」
「ああ」
ファリニシュの表情は固い。
思ったより、事態は深刻か?
「血の臭いが致しんす」
「──まだ戦闘の気配があるぞ!」
時間が経ちすぎている。
すでに戦闘が終わっているかと思えば、まだ剣戟の音が聞こえてくる。
まだ、間に合うかもしれない。
「ハンス、ハンス・ギルベルト! いたら返事をしろ!」
宙を飛ぶように駆けながら大声で叫ぶ。
屋根の上にいた見張りが何かをしようとしたが、その瞬間に凍り付いた。
ファリニシュか、流石に頼りになる。
「アラナン!」
右にカーブした小路の先から返事があった。
よかった、まだ生きている!
安堵に体を震わせながら、そのカーブを曲がった。
十人ほどの黒衣の男たちが、ハンスと熊を包囲していた。
見覚えのある
あ、あいつ、イグナーツじゃないか!
何してんの、貴方も追われているんじゃなかったっけ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます