もう何時間も同じ本を読んでいる。

 マツリは静かにページをめくり、瞬きをしながら文字を追いかけた。

 その本は可哀想な女の子が可哀想な男の子に出会い、自分のほうが可哀想だとい合うお話だった。

 なぜ、人間は自分が最も不幸だと思ってしまうのか。なぜ、自分は独りきりだと思ってしまうのか。文字越しに問いかけてくる。


「こんにちは」

 不意に声をかけられ、マツリは顔を上げた。

「気分はどうだい?」

 目の前に腰をかけたのは時雨シグレたった。

「悪くはないです」

「そう」

 にこっと笑う。

「あの……」

 マツリは本を置いた。

「話が、したいんですけど」

「……そうだね。私もだ」

 時雨は笑った。だけど、いつも思うんだけれど、この男は眼が笑ってない。マツリはじいっと時雨の瞳の奥を見つめた。

「お父さんのこと、知ってるんですか?」

「……まぁね」

「お父さんはいつから此処で働いてたんですか?」

「君が生まれる前だよ」

 ――じゃあ、十七年以上前だ。

「彼が大学の研究者になって、すぐだったかな。二十四、五才の時だった。此処に引き抜かれてね」

「どれくらい此処にいたんですか?」

「六年だよ」

「六年……。……お父さんはブラックカルテのこと……、メグのこと知らないんですか」

「メグには会ってないよ。ブラックカルテが見つかったのは、彼が消えてからだから」

 マツリは俯いた。

「私の知ってるお父さんは、たしか、工場で、働いてた……」

「どこの?」

「……南町の川の近くにある」

「楓が死んでいたところか」

「…………」

 楓、死。その二つの言葉でマツリの頭は脳から揺れた。

「しかし、あそこは廃工場だったと聞いたが」

「よくは、知りません」

 俯いたまま。

「私、お父さんのこと、顔も覚えてないんです」

 時雨は眼を細めた。

「気がついたら、いなくなってた」

 気がついた時には、彼はもういなかった。居なくて当然の者になっていた。

「お父さんは、お母さんを。捨てたんです」

「…………」

 ――あの人が私を捨てたのも、全部、マツリ、あんたのせいだからね。

 頭の中であの言葉が渦巻いて、マツリは思わずぎゅうっと目をつむった。

「お父さんに会いたいかい?」

「……知りたいです」

「知りたい?」

「どうして、お母さんを捨てたのか」

 本当に私のせいだったのか、ずっと、それが知りたかった。お父さんに今更愛情なんか求めない。お母さんをあんな風に変えたのは、彼に変わりない。

「憎んでる?」

 憎んでる。

「と、言えば、そうなのかもしれないです」

 ただ、知りたい。

「……時雨さん」

 マツリは顔を上げた。

「私、手がかりにはならないです」

 時雨もマツリを真っ直ぐ見つめ返した。

「でも、知りたい。だから、父を探す協力は、します」

「……ありがとう」

 彼がそう言うのと同時に、松田の声が機械の裏側から聞こえた。

「左手の検査、終わりました」

「……終わったみたいだ」

 時雨が微笑んで立ち上がる。それと入れ違いになる形で松田が駆け寄ってきた。優しく微笑みながら。

「お疲れ様、マツリさん。もう一方の腕もこのまま検査するので、もうちょっと我慢してくださいね」

「……分かりました」

 そうして松田が左手に刺さった針をゆっくりと抜き始めた。

 ――ああ、痛む。

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