3
もう何時間も同じ本を読んでいる。
マツリは静かにページをめくり、瞬きをしながら文字を追いかけた。
その本は可哀想な女の子が可哀想な男の子に出会い、自分のほうが可哀想だと
なぜ、人間は自分が最も不幸だと思ってしまうのか。なぜ、自分は独りきりだと思ってしまうのか。文字越しに問いかけてくる。
「こんにちは」
不意に声をかけられ、マツリは顔を上げた。
「気分はどうだい?」
目の前に腰をかけたのは
「悪くはないです」
「そう」
にこっと笑う。
「あの……」
マツリは本を置いた。
「話が、したいんですけど」
「……そうだね。私もだ」
時雨は笑った。だけど、いつも思うんだけれど、この男は眼が笑ってない。マツリはじいっと時雨の瞳の奥を見つめた。
「お父さんのこと、知ってるんですか?」
「……まぁね」
「お父さんはいつから此処で働いてたんですか?」
「君が生まれる前だよ」
――じゃあ、十七年以上前だ。
「彼が大学の研究者になって、すぐだったかな。二十四、五才の時だった。此処に引き抜かれてね」
「どれくらい此処にいたんですか?」
「六年だよ」
「六年……。……お父さんはブラックカルテのこと……、メグのこと知らないんですか」
「メグには会ってないよ。ブラックカルテが見つかったのは、彼が消えてからだから」
マツリは俯いた。
「私の知ってるお父さんは、たしか、工場で、働いてた……」
「どこの?」
「……南町の川の近くにある」
「楓が死んでいたところか」
「…………」
楓、死。その二つの言葉でマツリの頭は脳から揺れた。
「しかし、あそこは廃工場だったと聞いたが」
「よくは、知りません」
俯いたまま。
「私、お父さんのこと、顔も覚えてないんです」
時雨は眼を細めた。
「気がついたら、いなくなってた」
気がついた時には、彼はもういなかった。居なくて当然の者になっていた。
「お父さんは、お母さんを。捨てたんです」
「…………」
――あの人が私を捨てたのも、全部、マツリ、あんたのせいだからね。
頭の中であの言葉が渦巻いて、マツリは思わずぎゅうっと目をつむった。
「お父さんに会いたいかい?」
「……知りたいです」
「知りたい?」
「どうして、お母さんを捨てたのか」
本当に私のせいだったのか、ずっと、それが知りたかった。お父さんに今更愛情なんか求めない。お母さんをあんな風に変えたのは、彼に変わりない。
「憎んでる?」
憎んでる。
「と、言えば、そうなのかもしれないです」
ただ、知りたい。
「……時雨さん」
マツリは顔を上げた。
「私、手がかりにはならないです」
時雨もマツリを真っ直ぐ見つめ返した。
「でも、知りたい。だから、父を探す協力は、します」
「……ありがとう」
彼がそう言うのと同時に、松田の声が機械の裏側から聞こえた。
「左手の検査、終わりました」
「……終わったみたいだ」
時雨が微笑んで立ち上がる。それと入れ違いになる形で松田が駆け寄ってきた。優しく微笑みながら。
「お疲れ様、マツリさん。もう一方の腕もこのまま検査するので、もうちょっと我慢してくださいね」
「……分かりました」
そうして松田が左手に刺さった針をゆっくりと抜き始めた。
――ああ、痛む。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます