11

 夜中の無機質な建物は怖くないわけじゃない。だけど、怯えるほどでもない。

 外の風に触れたい。月が見たい。鉄格子てつごうし越しじゃないやつが。そんな考えなしの衝動で、マツリは裸足のまま部屋を飛び出した。外へなど、出れるわけがないと分かっていたのに。

 そして、とあるドアの前まで来たところで立ち止まる。一番初めに連れてこられた場所だ。ぎゅっとこぶしを握り、沈黙と暗闇の中、ひとり立ちすくんだ。

「どうぞ」

「っ!」

 予期せず中から声がした。あの男の、時雨の声だ。

 マツリは一瞬逃げてしまおうかと躊躇ったが、首を振り、ドアノブに手をかけてゆっくりと扉を開いた。

「やっぱり」

 室内の明るい光が突然目に刺さり、マツリは一瞬眼目を細めたが、その光の先に彼が微笑んでいるのが見えた。

「マツリさんだったか」

「どうして?」

「話があるんだろうな、と。君が自ら此処に来たのは、それなりの理由があるからだと思ってたからね」

 時雨は書類棚に太いファイルをしまいながら、見透かしたようにそう言った。

「この間も、もっと別に聞きたいことがあるって顔をしてたから」

「…………」

 マツリは黙り込んだ。図星をつかれて、少しばつが悪かったからかもしれない。

「言ってみなさい」

 時雨が執務デスクに腰をかけ、そんなマツリの言葉を手で促した。マツリは部屋の入り口で突っ立ったまま、コクリとつばを飲み込んだ。

「……メグのこと」

 時雨は少し驚いたような顔をした。けれど何も言わず、彼女の小さな声に耳を傾ける。

「メグは、実験としてあの高校に通っていたんですか」

 思い切った質問をした。だって疑っていた。本当なのか知りたかったのだ。

「……そうだね。そうなる」

 ずきっとしたのは、心臓か。マツリは無意識に胸を押さえた。

「ずっと……、これからも、メグは国光の監視下にいなくちゃいけないんですか」

「そりゃね。ブラックカルテだ。ご存知の通り人に危害を加えうる」

 時雨はデスクの上にあった端末に触れ、何かのデータを見ながら目を細めた。

「……メグのお父さんは?」

 時雨は顔を上げてマツリを見つめた。

「お父さんは、メグが……、それでも、良いって言ってるんですか」

「………………」

 長い沈黙があった。室内の白っぽい照明が目に沁みる。くらみそうになる。

「マツリさん」

 その沈黙の後、時雨がため息交じりにマツリの名を呼んだ。

「はい」

「メグの、父の事は?」

「知りません。でもお母さんは、亡くなったって聞きました」

「……そう」

 彼はふっと笑った。

「そうか。君はメグのことを大事に思ってるみたいだね」

「……それなりに」

「あはは……」

 乾いた笑いだった。何故笑うのか分かりかねて、マツリは小さな嫌悪感を抱いた。

「余計な心配だマツリさん」

 そして切り捨てられる。

「父親の承諾は得ているよ」

「……そ……」

 ――そんな。

 声にならなかった。

「今、お父さんは、どこに……」

「メグは父親とは長い間会っていない。あぁ、いや。この間、会いはしたのかな」

「え」

 初耳だ、そんなの。

「メグは父親を憎んでいる」

 時雨は断言した。

「そんなこと、ないと思います」

「どうして……?」

「私も……お母さんを、ずっと憎めなかったから」

「母親を……?」

「どんなこと言われても、されても、心の底からは憎めなかった」

 憎んでないと言えば嘘になる。だけど、一切愛してないわけでもなかった。

「お父さんは、メグを憎んでいるんですか」

「……どうかな」

「同じだと思います」

「同じ?」

「メグと、メグのお父さん」

 マツリの声は震えていた。

「結局、お互いに寄せる思いは、同じなんだと思います」

 きっと彼も、メグを――母親を傷つけてしまったメグを、心の底からは憎めなかったと思う。どれだけ突き放しても。どれだけ冷たい言葉を浴びせても。

「そう思いたいです」

「……そう」

 ゆったりと微笑した時雨は、眼を閉じてため息をついた。

「おかしな子だな。マツリさん」

「そうですか」

「検査結果もさることながら。持っている思想や哲学も独特で、おかしな子だ」

 どきっとした。

 ――検査結果が、なんだって?

「……時雨さんは」

「ん」

「私を、化け物だと思いますか」


 答えは、暗黙の世界の中。



 第14話 終

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