10

「家にパソコンある?」

 大学を出ると、マツリがメグにたずねた。

「あぁ? ねぇのか?」

「……いらないし」

「……はぁ」

 この時代に家にパソコンが無いときた。そういえば携帯デバイスを使っているところすら、ほとんど見たことがない。

「しゃあねぇな、じゃ、俺んで開くか」

「うん」

「……」

 なんの躊躇ためらいもなく男の家に来るというマツリが少し心配になる。まぁ、色々今更ではあるが。

「……襲ってやろうかホントに」

 よく今まで無事で生きてこれたな、と心底思った。危なっかしくて仕方がない。


「…………マツリ。お前。パソコン触れねぇのか?」

「や、できるよ」

「……」

 とか言いながら、彼女はパソコンにしがみつくばかりで起動すらままなっていなかった。

「貸せよ、っとに。ほら、カードよこせ」

「……できるのに」

 ――嘘つけ!

 マツリがしぶしぶカードと席を譲ると、メグは手際よくフォルダを開いていった。

 そして一つのファイルにたどり着く。

「これ……」

「ミュータントのことだな」

 およそ五十枚に及ぶ論文。

「お前、両親がいつ結婚したか知ってるか?」

「二十年くらい年前だよ」

「何歳で?」

「……お母さんは、二十六かな。でもちゃんと知らないや」

「ふーん。この論文の感じでは、まだブラックカルテの発見は、していないみたいだな」

「うん……」

 頭が痛くなりそうなほどの、文字。文字。文字。二人は画面に釘付けになっていた。

「……人体の変異は、DNAの突然異常が原因と考えられるものなら、たくさん症例があるんだね」

「まぁな、六本指があるとか、アルビノだとか、遺伝子で片が付く話ばかりだけどな」

「ひどい変異も、結構あるんだ……」

 論文には画像が多数添付されており、なかにはグロテスクなものも含まれていた。

「見てて、平気か」

「なにが?」

 心配した意味がないほど、マツリは普通に聞きかえした。

「……なんでもねぇ」

 むしろメグのほうは気持ち悪くなっていたのだが。

「感情に反応して発現する気体、または固体。それを体内に持っている……人知を超える変異が、ブラックカルテ」

「……それがどうした?」

「ううん。お父さんの大学って、どこだったんだろ」

「論文のどっかに、載ってるんじゃねぇか?」

「あ、コレかな」

 スクロール、スクロール。

「東京大学……」

「今の首都大のことか?」

「……多分」

「日本一じゃねぇか」

「……多分」

 ――まあ、考えたら、そうですよね。

「行こうかな。明日」

「へぇ?」

「首都大」

「なんでだよ」

「手がかりがあるかも、しれないから」

 マツリが立ち上がってパソコンから離れた。

「明日、夜には国光に行くんだろ」

「そうだよ」

「そんなこと……してていいのかよ」

 何が言いたいのか分からなくって、マツリはメグをじっと見た。

「お前、いづみに会ってないだろ」

「うん」

「会わなくていいのかよ」

「……どうして?」

 マツリの眼は、いつもよりずっと強く見えた。

今生こんじょうの別れじゃないもの。十日後にはまた会える」

「……っ」

 ガタン!

 メグは立ち上がった。

「……どうしたの」

 突然、メグがマツリの髪に荒っぽく触れた。ふわふわしたツインテールをぐしゃりと潰し、そのまま左の頬と顎を柔らかく掴んで顔を引き寄せる。

「……メグ?」

 彼の感情が見えない。マツリはメグの眼を覆う前髪を優しく掻き分けようと手を伸ばした。

「!」

 バシっという音が耳元でして、伸ばした手を痛いほど強く掴まれる。その手もまたメグの方に強く引き寄せられてしまった。

「――メ……っ」

「キスするぞ」

「え?」

 ぐいっとひっぱられ、このままでは彼との距離がぜろになってしまうことが直感的に分かった。

 けれど彼は、それを有言実行しなかった。

「……なに?」

 何故こんなにも落ち着いてるんだろう。と問いたくなるほど、マツリは冷静にメグを見つめた。

 こんなに近くにいるのに、メグは何もしない。心音すら聞こえそうなのに。

「なに、欲情した?」

「おま……ほんとに誰からそういう言葉習ったんだよ」

 呆れた。

「キス、するんじゃないの?」

 まっすぐに問う。

「いいのかよ」

「よかったらするの?」

「…………」

 メグは黙った。なんでそんなに不機嫌そうな顔するのだろう。マツリは小首を傾げた。

「なんで?」

「……っうっとおしいなっ! たくよぉ!」

「え?」

 メグが少し声を荒げたのでマツリはびくりと体を揺らした。

「してぇからすんだよ!」

「…………」

 マツリは少し眼を見開いて驚いた。けれど、目を丸くしたままふっと俯いてしまった。

「……怖い」

「はぁ……?」

 メグが気の抜けた声を出す。

「今、言うかぁ……?」

 マツリが声に出したその言葉は、メグがずっとマツリに言わせようとしてた言葉だった。

 メグはガクっと頭を落として、うなだれた。

「あ、ごめん」

 マツリは肩に落っこちてきた頭にそっと触れた。それはさらさらの髪の毛だった。いとおしいくらいの。

「っとにお前、どうしたらいいんだよ」

 メグは呆れてた。声で分かる。

 こんなに近くにいるのに。心音すら聞こえそうなのに。

「……うん」


 抱きしめられなかった。

 抱きしめたら、壊れそうだったから。その細い肩が。

 言葉すら、伝えられなかった。

 言えなかった。こぼれ落ちてく気持ちすら。

 愛しさすら、伝えられなかった。


「ごめんね」

 その言葉だけが、メグの耳にしみこんでいく。

「百回謝れ」

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