Episode20 ~約束は二度交わされる~
喫茶店を後にしたカイは、人通りが極端に少ない路地を抜けて、大街路に入る。
やがて歩を進めていると、グラーテの中心部──噴水広場へと到着した。
十字に伸びる大街路を西に進めば、もう帰路に付く。
噴水の
十メルト先で、視界に割って入ってきた人影が遭った。
ふわさ、と。微風に乗って、流水の様にたなびく藍色の艶髪。
だが今だけは、その背中が酷く
「……ッ」
口を開き、言葉を発しようと試みるが、上手く声となって出ない。
乾き切った喉を唾で潤して、カイは再び眼前の背中を見る。
──もう逃げないと、誓ったじゃないか。そうだ。もう一度、改めて向き合うんだ!
深い深呼吸を挟み、確かなる決意を固める。
そして再び──その名を呼んだ。
「ノアッ!」
びくりっ。呼びかけられたノアの肩が大きく跳ねた。
足を止め、僅かな間を置いて、おずおずとこちらを振り返る。
「あ、ああ。カイも丁度帰りだったんだね……あはは」
そう言って、いつも見たく花の様な微笑みを浮かべ、あくまで気丈に振る舞うノア。
ああ、確かに──と、カイは物思う。
今こうして改めて見れば、一年前のノアと全然違う。
よく見れば立ち振る舞いに
ずっと一緒に居たカイだからこそ分かる、些細な変化だが。
いつもこの笑顔の裏で、ノアが心を痛めていたと思うと──。
どうしようもなく胸が苦しくなり、カイは顔を歪ませる。
だからこそ、次の受け答えは早かった。
「ああ、丁度終わってな。そっちも終わったのか? 確か授業で分かりづらい部分を、復習してきたんだろ?」
「えっ、うん。そりゃあ、もうバッチリ!」
「……そうか」
他愛のない会話だけでも、受け答えに違和感しかないノアと共に、カイは帰路に入った。
何となく気まずい沈黙が二人を包み、石畳を踏む音だけが響く。
早朝だと人の波で大分時間を食ってしまうが、今は夕暮れ時ということもあってか、人通りは極端に少ない。
ゆえに、カイ達は何の
程なくして。
自宅のある路地が、もう目の前に迫っている中。
大街路の人通りは更に減少し、遂には辺りを歩く者は、カイとノア以外に居なくなっていた。
あと二分ほど歩けば、自宅の路地に着いてしまう。
不意に、カイの歩足が止まった。
──それじゃ駄目だ。
自宅に返ってしまえば、そこからはもうノアは必要最低限の時いがい、自室から出なくなってしまう。
つまり、話す機会を完全に失ってしまうのだ。
実はかの事件から一週間──カイはずっと、そうして距離を置かれていた。
下校時は決まって授業の復習がしたいからと、一時間は学園に居残り。カイの眼を見計らって帰宅。
そして、逃げるように自室へと飛び込む。
こんな日々が続いていたのだ。
それでは駄目だ、と。
──どうせこんな
アンリの助言を受けて、決意に満ちた今だからこそ、何としても明かさねば。
「あれ、どうしたの?」
ふと何の取り
カイは大きく深呼吸をして、その澄んだ
「ノア、話がある」
普段ならば決して相見れないであろう、真剣過ぎる表情に、ノアの顔も自ずと引き締まる。
一体何が告げられるのか。戦々恐々とする彼女にカイは──。
「俺は、生成術士だ」
至極端的に、事実を口走った。
瞬間。藍色の前髪が微かに揺れた気がする……が、それだけだ。
──やはり、ノアが本当に知りたいのは。本当に話して欲しいのは、そこじゃないのか。
それが分からぬ程、浅い関係ではない。
「だから俺は同時に、
それより……今まで黙っていて、本当に済まなかった」
深く、深く、今まで蓄積された罪悪感を表すかの様に。
誠意のまま、カイは
「俺は、ノアが思っている様に強い人間じゃない。こんな大切な事を言えない程にな。
今まで見せていたのは、俺が必死に強くあろうとした姿なんだ。
本当の俺は……弱くて、勇気もなくて、実に無力だ。
──結果、俺は自分自身の為だけに、孤独の道を
ノアを裏切ろうとした。大切な約束も……破ろうとした。
以前、将来の話を持ちかけられた時に、思わず誤っちまったのも、その所為だ。あの場で嘘を吐けるほど、俺の心は強くなかったんだ。
その情けない弱さが、ノアを余計に苦しませてしまった……」
石畳を見つめるカイの表情が、苦しそうに歪む。
「俺にもっと勇気があれば。覚悟があれば。
速くこの事を打ち明けて、ノアを余計に苦しませる事もなかったのに……。
でも、言えなかった……っ!
ノアの中にある『俺』が崩れてしまったら、俺がこんな弱い奴だなんて知られたら、俺の見る目が変わってしまう気がして、怖かったッ!
俺の罪は計り知れない──許してくれ、なんて言えない。
ただ、もしノアが許す余地をくれるなら。俺はどんな事をしてでも、この罪を
一方、ノアは一向に口を開かず、押し黙るのみ。
当然カイからはその表情が見えない。
それが余計に、焦燥を極めた。
心臓が破裂せんと鼓動する。
冷や汗がシャツを湿らせ、今にも押し潰されそうな罪悪感が、カイを不安の渦中へ陥らせていた。
そして。
たっぷり一分間……沈黙を突き通していたノアの口から、遂に言葉を発せんと、息遣いが聞こえたのだ。
刹那。カイは思わず身体を強張らせる。
どんな罵倒も、承知の上だ。
拒絶されるかも知れない、幻滅されるかも知れない。
もしかしたら、心にこれ以上にない傷を負うかも知れない。
しかし、それこそが自らの罪に対する罰なのだろう。
それが唯一の
鋭く息を吸い込んで、カイは発せられる言葉に備えた。
「カイは、昔、約束してくれたでしょ? 私を導いて、守ってくれるって。
あの時の私には、勿体ないくらいの言葉だった……カイの誓いで救われたんだ」
ノアから発せられたのは、
まるで、カイと同じ様に本心を
「私はそれだけでも、カイにすっっごく感謝してるんだから。これ以上、望むものなんてないよ。……だから、顔を上げて」
「……ッ⁉」
言われるがまま顔を上げるや、カイは息を詰まらせていた。
そこには──ノアが胸の上に両手を重ねて、とびきり満点の笑顔を浮かべていた。
別に、見た目が変わったわけではない。雰囲気が変化したわけでもない。
だが、眼前に佇む彼女は──、
今までのノアと明らかに違っていた。
──いつからだったか。いつの間にこの笑顔を失ってしまったのは。
少なくともここ一年間、ずっと心の奥底に沈んでいた、カイが懸命に追い求めていたいつも通りの笑顔が、そこにあった。
ノアは
「──それに、私はカイがどんな人でも気にしないよ。たとえカイが多少他の人と違っても。
世界中の嫌われ者になったとしても、私だけは何時までもカイの味方だから……。
だってあの日、共に生きようって《約束》して、私を守るって誓ってくれた様に──私も、カイに誓ったから」
まるで
それまで
「私を救ってくれたカイを支えること。
それが、私の使命。私が生きる……たった一つの意味。
……だからそんな事で、カイを見る目が変わったりなんかしないよ」
「ノアっ……」
果たしてそれは歓喜からなのか。
それとも単純に
ただ、形容しがたい暖かい感情が、今にも溢れてしまいそうだった。
頬を伝う熱いものを拭って、カイはこの世で一番《大切な人》に歩み寄る。
「……ノアは、これからどうしたい?」
胸中を充満する感情を抑えて、真剣な面持ちで問いかける。
一度は、自分が不甲斐ないばかりに返答を拒絶し、挙句の果てに逃げ出してしまった──その『問い』を。
それをノアは、確固たる意思をもって、答えた。
「わ、たしは……やっぱり、カイと一緒に空挺軍の道に進みたいっ!
だって……嫌、嫌だよぉ……私はまたカイと一緒に居たいっ! 一緒に生きていたいもん──ッ!
駄目、かな? やっぱり私なんかじゃ、頼りない……かな?」
辿々しく紡がれた言葉は、揺るぎない決意を
その目尻には、珠玉の瞳が
……以前までの自分ならば、断っていたに違いない。
空挺軍なんて危険な道を、ノアに歩ませる訳には行かないと。
だが、今は違う。
それは覚悟もなく、何も観ようとせず、ただ嫌われる事を恐れていた、
──ノアは、守ると誓った《大切な人》は、こんな弱い俺を受け入れてくれた。
ならば、俺も受け入れてやらねば。そう手を取り合って生きると、決めたのだから。
一歩、また一歩と。カイが歩み寄り、二人の距離が徐々に近くなっていく。
「駄目なもんか。ノアが決めた道なら、俺はその選択を信じる」
ノアが信じた道を進む。ただそれだけだ。
それが、カイ・フェルグラントとしての使命なのだから。
自分がここに居る意味。生きる証であり──。
何もかもから見放された
「それがどんなに危険で、困難を極める道だったとしても。今度こそ俺が、絶対にノアを守ってみせる」
ふと、カイはノアの目の前で立ち止まり、その場で片膝を付いた。
その白くて華奢な両手を、優しく包み込む。
途端、ノアが驚いた様に手を強張らせたが、すぐに力を抜いて委ねてくる。
紅潮した頬が可憐に化粧された顔を見上げて、カイが告げた。
「それに、ノアは頼りなくなんか無い。事実、俺はずっとノアに救われてきた。
あいつが学校から追放される時も、事件の時も、今までだって──ずっと、ノアに助けられてきたんだ」
「そっ、そんな事──ッ⁉」
だがカイは構いもせず、何処までも真剣にノアの瞳を覗き込んで──告げた。
「だから、俺から頼みたい。
ノア。記憶の真実を知るため──いや、あの日の約束を果たすために、俺と同じ道を歩んでくれるか……?」
その瞬間。
周辺の景色が、まるで別世界に移転したかのように一変した。
家群の間から溢れんばかりの夕焼けが差し込んだのだ。
ノアの青髪に少し朱色が覆いかかる。
視界に紅の花弁が舞い散っているのは、果たして
すると、耐えきれなくなったのだろう。
再び告げられた
「うんっ……!」
限りなく愛おしい、華の様な笑顔を浮かべて、ノアは大きく頷いた。
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