Episode5 ~悠久の誓い~
ゴーン、ゴーン……。
何処からか鳴り響く重音。チクリと頭の端を刺激され、遥か彼方へ彷徨っていたカイは意識を帰還させた。
虚ろに沈む双眸をハッと上げると、糸が切れたように弛緩していく生徒達の様子に、今更先程の鐘が終業を意味していたのだと理解する。
「む、もう時間か……しょうがない。次の授業は中庭で行う。くれぐれも遅れんようにな」
手短に言い残すと、講師は一本に束ねた紫髪を揺らしながら、教室を出ていく。
──どうやら、授業の後半を聞き逃してしまったらしい。
カイは圧倒的に空白が占める、板書用の書物をため息交じりに閉じる。
実技成績が伸び悩む
しかもこの学園は、間に挟む休憩が長く取られている代わりに、授業の一コマが通常より長い。つまり、一つ授業を聞き逃すだけで、かなりの痛手になってしまうのだ。
こうなるから、学園では秘密の事を考えない様にしていたのに──。
落胆したのもつかの間、不意に心の奥深くで嫌な熱が膨張するのを感じ、胸元を掴んで懸命に抑える。
カイは少しだけ目を伏せ逡巡すると、やがて顔を上げて立ち上がる。
授業中とは一変、がやがやと騒がしい生徒達を目もくれず、そそくさと隣に階段へ歩を進めようとした──瞬間。
くいっ。何者かに袖をつままれ、足が止まった。
やはり来たか。カイの眼が再び伏せられる。
「どこ行くの? 一緒に中庭にいこうよ……」
若干落ちる語尾。その声色は、まるで離れるのを拒む子犬のように儚げで……。
それだけでその言葉には深い意味が込められたものだと分かる。
だがカイは、断腸の思いでその想いから目を背けた。
こんな今の自分を見られたくない。少しでも早く彼女の視界から外れたかった。
何故ならノアが求める自分とは、雄々しく頼りになる自分なのだ。
──決して、自らの『誓い』に苛まれてしまうような、脆弱な俺じゃない。
「すまん、ノア。俺は少し遅れるから。先に行っていてくれないか」
今すぐにでも手を突き放して逃げ出したかったが、用意していた言葉を告げて、カイは辛抱強くノアの方から手を離すのを待った。
それが今の自分ができる最大限の気遣いだった。
やがて、分かった──と。ノアが躊躇うように弱々しく手を離すと、カイは脱兎のごとく階段を駆け上り、教室を後にした。
……その背中を見守るノアが、儚げに眉を落としていた。
※ ※ ※
苛立ちを表すような強い足音が、閑散とした白き廊下に響く。
誰よりも早く教室を飛び出したカイは、早足で二組や一組の教室を通り越し、更に奥へ進む。
ふと、ある一線を堺にして──冷たい空気が肌を差した。
広がる光景は何ら変わらないのに、まるで無法地帯を入り歩いているかのような不気味な空気感。
最早慣れてしまった感覚から意識を外し、カイは躊躇いなく横断していくと、やがて巨大な階段に行き着いた。
大階段の踊り場を見上げれば、天日と思しき白光が差しているのが見える。つまり、この上は天井がない屋上なのだ。
生徒の立ち入りを禁じている白亜の塔──東校舎と称されるそこは、地上からの出入り口が存在しない。
東校舎に入る唯一の手段は、本校者から繋がれた空中回廊を通るしかない。その空中回廊に続いているのが、この大階段なのだ。
といっても東校舎はいわば保管庫の役割を担う施設。この階段を利用する者は講師含めて滅多に居ない。
無論、それでも生徒が無断に上ろうとすれば、警報魔術が鳴り響くだろうが、階段下ならば何の問題もない。
カイは視線を下げると、少し回り込んで階段下のスペースに潜り込んだ。一条の光も差さぬ細長い長方形の空間を手触りで進み、適当な場所に腰を落とす。
大理石の壁に背中を預ければ、ひんやりとした感触で僅かながら頭が冷却された気がするが、まだ心の奥深くに
未だに胸奥に渦巻く悪感情に顔を歪ませながら、カイはおもむろに天を仰ぐ。
そして、再び意識が過去を彷徨うのであった。
旧くに設立された由緒正しき魔術専門の学び舎──それこそがグラーテ魔術学園。ゆえにカリキュラムは全て魔術一色。更に専門的な知識や技能が必須になってくる。
元より、魔術士育成所として設立されたものなのだから、当然といえば当然なのだが。
まるで魔術士の実力社会を模したかのようなこの学園では、怠惰な者は容赦なく切り捨てられ、無能者は見限られる。
ゆえに生徒達は皆、学園に見放されぬよう死にものぐるいで魔術に
つまり、この学園で生き残りたいのならば、己が魔術の腕を磨き続けなくてはならないのだ。
学園上層部に目をつけられれば、怠惰者や無能者には容赦なく退学処分が下る。事実カイは、その事例を数名と見てきている。
つまる所、この学園は本来、外部保有である自分が通うには、余りにも危険すぎるのだ。
なのにどうして、カイはわざわざバレる危険性が高いグラーテ魔術学園に入学したのか……それは、ここにしかない独自の就職先にあった。
《空挺軍》──ウーラノス帝国
数多くの名高い魔導士が所属し、主に帝国の治安維持や守護、時には最前線に躍り出たりと、その仕事は実に幅広い。
そんな正義を下す仕事柄、憧れを抱いている者も多く、空挺軍に就職する為に入学した生徒だって、決して少なくないはずだ。
だが、カイが空挺軍を志望する理由は、国の為に尽くしたいだとか、市民を守りたいだとか、正義感溢れる大層なものでは全くない。
──俺の生成術はいずれバレる。魔術の道を志す以上、永久に隠しとすことは不可能だ。
ならば将来的に、もしバレても良いようなるべく大丈夫そうな場所に就職する必要がある。
魔術に触れた以上、カイは一般民とは違う一魔術士だ。魔術の道を下りることはできない。
ならばどうするか……考えあぐねた結果、たどり着いたのが空挺軍だったのである。
過去の厄災により、国の軍事基幹は大打撃を受けた。人民の避難のために軍の面々が命を賭して、戦ったからだ。
その被害は実に、軍事力の約半分を損出するほど甚大なものだったという。
──ならば、今空挺軍が欲しがっているのは、純粋な戦力だ。
たとえそれが、素人同然から成り上がった魔術士見習いだとしても。
そうじゃなければ、わざわざ他エリアに新しく魔術学校を設立するはずがない。
人員を求めている今ならば、弱小な生成術士でも少しは戦力として使ってくれるかも知れない。
そんな淡い願いの元、決めたことなのだが……。
この選択は唯一の救いの道筋であると共に、険しい茨の道でもあるのだ。
そもそも、空挺軍の本部は中央エリアに設置されている。
一番近辺の街とされるグラーテからでも、中央エリアは馬車で二日、三日は掛かる距離だ。
軍に入れば寮生活が始まり、訓練と任務の日々でグラーテに返ってくるのは難しくなるだろう。
だからといって、中央エリアは一般民は立ち入り禁止。相当な大家の重鎮でなければ、グラーテから赴くことは不可能。
つまり何が言いたいかと言うと──必然的に、ノアと疎遠になってしまうのだ。
そうなれば当然、記憶の真実を共に突き止めるという《約束》も、彼女を守り導くという『誓い』も……全て、放棄する事になる。
──これこそ、俺がこれから犯そうとしている最大の罪……。
自ら大口叩いて誓ったにも関わらず、それを有ろうことか自分自身で破り捨てるのだ。
なんて身勝手でドクズの所業だろうか。心底反吐が出る。
当然、ノアと一緒に空挺軍を志す道も考えたが、いつ命を失うか分からない仕事だ。
そもそも優しすぎるノアの性格では、魔導士なんて血なまぐさい仕事が務まるとは思えないし、カイ自身そんな危険な道に極力進ませたくない。
……考えれば考えるほど、出てくるのは打開策ではなく、そんな意味のない空っぽな言い訳だけだった。
そうこんなものは全て建前だ。
本当は自分にノアを守りきれる自身がない……ただ、それだけなのだ。
──俺は無力だ。臆病で脆弱な人間だ。
ノアを守る? 一体どの口が言っているというのか。
お前はそれを為す力を持ち合わせない
──挙句の果てには、この秘密をノアに打ち明ける勇気すらない体たらくっぷりだろうが──ッ‼
ダンッ! カイは背後の壁に向かって思い切り拳を叩きつける。
次第に拳が耐えがたい激痛が刺す。だが、最早そんな事はカイの眼中になかった。
自覚はしているのだ。
こうやって消極的になっていても、後々辛くなるのは誰でもないノアの方だと。
──こんな大事なこと、一刻も速く離すべきだ。
打ち明ければ落ち込むだろう。だが卒業までに想い出を作れば、ノアの心の傷を癒せるかも知れないじゃないか。
分かっている……分かってんだよ。そんな事──ッ!
再び射抜いてくる鈍い激痛は、すぐ脳裏によぎった追想によって塗りつぶされた。
それは、在りし日のとある一風景──。
『──最近、身を削り過ぎじゃない? ずぅっと学園に籠もってさ……そんなに頑張らなくてもいいと思うけどなぁ……。
臆病な私と違って度胸もあって頼りになるし、少し素直じゃない所もあるけど、根はすっごく優しいし。
何より私を救ってくれたもんっ!
本当に私が持ってない物をたくさん持ってるんだよ? カイは……』
それは果たしていつの頃だったか。ノアが不意に呟いた何気ない言葉だった気がする。
──つまり、ノアの中にいる俺とは、そういう存在なのだろう。
本当はそんな事ないのに。
そんな姿は、いつも強がって見せている偽りの姿で……本当のカイ・フェルグラントという人間は、こんなにも弱いのに。
──実を言えば、怖い。本当の自分をさらけ出すことで、ノアの中にある俺の存在が崩れてしまうのが。
それで幻滅され、あの輝かしい笑顔を二度と見せてくれなくなるのではないか……そう考えるだけで、どうしようもなく怖くなる。
カイは右手を持ち上げ、深く沈んだ双眸で
──この手は、なんと小さいのだろう。
大切な人一人すら守れないこの手など、一体何の意味があるというのかッ!
「クソ──ッ!」
さっきより一層強く壁を叩いた。
校舎が震えんほどの轟音が激しく反響するが、ここで幾ら騒音を立てても、廊下にいる生徒に聞こえやしない。
だからこそ、カイはこの場所を選んだのだから。
「くそ……くそッ……クソォ……ッ!」
ただ、無我夢中に拳を痛めつける。強く、より強く、幾度も。
その度、内出血を疑うほどの激痛が両手を貫いてくるが、それでも構わず叩き続ける。
これこそ、カイが時折行っている儀式だ。
自らの過ちに後悔し、恨み、ただ自虐するように己を痛めつける事で制裁を与える。
無論、こんなものはただの気休めに過ぎない。
だから罪の意識が耐えられないほど膨張した時は、いつもここに趣き、懺悔の儀式をしているのである。
だが、幾ら痛めつけても。
胸の中に在残する気持ちは、一向に晴れることはなかった……。
曖昧な意識の中、聴覚は予鈴の重音を微かに拾ってくれた。
脱力したように天を仰いでいた心身を無理やり覚醒させて、カイは壁に手を付けながら立ち上がる。
「そろそろ行かないと……」
辿々しい足取りで階段下のスペースから出ると、廊下は変わらず人っ子一人見えない。
その光景を見ているだけで、妙な寂寥感に襲われるのは気のせいか。
カイはそんな思念を振り捨てると、しんと静まり返った白き廊下を進んでいくのだった。
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