35

 そこは暗い部屋だった。

 地下に作られた牢屋の更に下。

 苔の生えた岩肌に、鉄格子。一見しただけでは牢屋とあまり変わらないがその鉄格子の内部は、牢屋より若干広めに作られていた。

 そこはいわゆる拷問室だった。

 日の光が全く入ってこないその部屋は人の時間感覚を狂わせる。一分が一時間に感じたかと思えば、数時間が数十分に感じてしまう空間だ。数時間も入って責め苦を受ければ、すぐに感覚は狂ってきてしまう。

 その真ん中には石で作られている椅子があり、一人の老人が手足を縛られた状態でぐったりとそこに腰掛けていた。

 彼はリッチモンド公だった。

 長い口ひげにぼろぼろの白髪。茶色い瞳は暗く陰っていて、以前のような勢いはない。着ている服は白い布に頭を通す穴が開いているだけの簡易的な物で、その背の部分は何度も鞭を打たれたことにより激しく破れていた。

「何か吐いたか?」

 その拷問室に入るなり、ヴィクトルは入り口にラビにそう聞いた。責め苦の一部始終を見ていただろうラビは青い顔のまま首を振る。

「いいえ、何も。知らぬ存ぜぬの一点張りです。毒の仕込まれたチョコレートと、入っていた毒が彼の名義で用意されたのは明白ですが、誰に頼まれたかまでは……」

「知らない! 本当に何も知らないんだ!! 私は名前を使われただけで、何も――!!」

 椅子に縛り付けられている彼は白髪を振り乱しながらヴィクトルに向かってそう叫ぶ。ヴィクトルは凍てついた視線で彼を見下ろした。いつもの笑顔はどこにも見て取れない。

「それなら、誰に名前を使われた? それぐらいなら言えるだろう?」

「わからないんだ! 本当に!! 知ってることはなんでも話す!! だから……」

「……吐くまで続けろ」

 拷問係にそう吐き捨てて、ヴィクトルは背を向ける。その冷徹な態度は場の空気さえも凍らせてしまいそうなほどだった。

 拷問室を出て行くヴィクトルにラビは駆け足で付いてくる。地下へと潜る長い階段を上っていると、背後からリッチモンド公の断末魔のような叫び声が聞こえてきた。

「お言葉ですが、ヴィクトル様。本当にリッチモンド公をあのような形にしてよかったのですか? 本当に彼が何も知らなかったら大問題ですよ? それこそ強硬派はますます貴方に敵意を向けてきます。それに国王様にだってなんと言えば……」

 口元を押さえながらラビは今にも吐きそうな顔でそう言う。寄せられた眉からは、ヴィクトルへの心配とおぞましい物を見た嫌悪感が見て取れた。

「問題ないよ。そもそも、リッチモンド公は近々こうなる運命だったからね。彼はこの国では禁止されている奴隷売買をしていたんだ。当然、拷問の末に死刑だ」

 その言葉にラビは痛ましい顔つきになる。

「珍しい人種の子なんかは瞳をくり抜いて売っていたらしいよ。身体はバラバラにして豚のえさにしていたようだった」

「少しでもかわいそうだと思った自分が馬鹿みたいですね」

 ラビは眉間の皺を揉みながらため息をついた。

「やれ戦争だ、やれ支配だ、と騒ぐ癖に他国に自国の国民を売るその根性が気にくわない。本当に自分で身を滅ぼしてくれて清々したよ。……ただ、毒物の件については本当に何も知らないみたいだったね。彼が拷問に耐えうるほどの口の堅さを有しているとは到底思えない」

「そうですね。教えてくださらなくてもいいことは、ぺらぺらとおしゃべりになっていたようですし……」

 リッチモンド公が話した内容を書き残していたラビは、そのメモをヴィクトルに渡す。

「午後まで待って何も吐かないようなら、質問を奴隷売買のことに変えてくれ。それで奴隷売買の方は洗いざらい吐くだろう」

「わかりました」

 そうラビが返事をしたところで地上に出た。太陽はもう真上に来ていて、眩しいぐらいだ。

 立ち止まって目を細めるラビとは対照的に、ヴィクトルは遠くの地面に視線を落としたまま足早に城の方へ戻っていく。

 ラビは慌てて彼を追いかけた。

 ヴィクトルの背後からは千本針のように鋭い雰囲気が漂ってくる。

 ヴィクトルが怒るのは珍しい。いつもどこか達観した様子で、怒りを覚えるようなことがあってもほとんど表には出さないのが彼だ。しかし、今日の彼はいつもと様子が違うように見える。少なくとも、ラビはこんなに機嫌が悪い彼を今まで見たことがない。

「……ご立腹ですね」

「この状況で冷静になれる方がどうかしていると思うよ」

 苦虫を噛みつぶしたような表情を顔に貼り付けたまま彼は足を動かす。

「コレットさんのご様子は?」

「大丈夫そうだった。ラビの対処のおかげだな……」

 そこで初めて表情が緩んだ。

 ラビは幾分か優しくなったヴィクトルの表情に胸をなで下ろしながらも緩く首を振る。

「いえ、早くあの筆跡に気がついていれば、そもそも止められていたことです。コレットさんには私からも謝っておきますよ。……それにしても、コレットさんを狙ってくるとは思いませんでした。確かに《神の加護》を持っていたとしても、術者は生身の人間ですからね。毒や不意打ちには弱い。全てに対処するのは難しいでしょうし……」

 ラビの悩ましげな声色にヴィクトルは視線を遠くに投げたまま「そうだね」とだけ返す。

「……それで、毒物の方はどうだった?」

「あぁ、それならこちらに……」

 ラビが出してきた紙を受け取り、ヴィクトルは目を細めた。それはコレットの吐き出したチョコレートを毒に詳しい医師が調べた結果が記載されてある。

「やはり、チョコレートの中に入っていた毒物は致死量にはほど遠いようですね。……これをどう思いますか?」

「弱らせるだけが目的か……それとも……」

 ヴィクトルは言葉を切り、そのまま黙り込んでしまう。

 どうやら彼は深い思考に入ってしまっているようだった。

 そんなヴィクトルを邪魔しないようにラビは黙ったまま彼の後ろを付いてくる。

 ヴィクトルの執務室に着くと、ラビはようやく口を開いた。

「それで、明日の作戦の件ですが、コレットさんはどうしましょうか? 日にちをずらすというのも一つの手ですし……」

「作戦は予定通り明日行うが、時間だけは前倒しで行う」

「前倒し?」

 その言葉にラビは首を捻った。コレットの体調を鑑みているのであれば後ろに倒す方が良いに決まっている。もっというなら、日取りを一週間ほど先延ばしにする方が賢明だ。

 ヴィクトルは淡々と言葉を吐く。

「コレットはこの作戦に参加させない」

「え?」

「コレットがやるはずだったお姫様の護衛は俺がやるよ。ラビは取り押さえる方の統率を頼む」

 ヴィクトルの言葉にラビは狼狽えた。

 コレットがいるといないとでは危険度があまりにも違いすぎるからだ。

 今の予測では、札を使った時点で相手は《神の加護》を使えるほどの元気はもうないはずである。しかし、それはあくまで予測だ。そうなるとは限らない。

「ですが、コレットさんの力があった方が安全ではないですか? 無論、出来ないとまでは言いませんが……。ここは無理をなさらず一週間ほど待って……」

「その一週間のうちにまたコレットが襲われたらどうする?」

「それは……」

「そんなことになったら、俺は怪しい者を片っ端から色んな理由をつけて処分していくつもりだよ」

 向けられた視線にラビの背筋が震える。

 これは本当にやりかねない人の目である。決して冗談の類いなどではない。

 そんなことをすれば、『第二王子の凄惨なる大粛正』という歴史が、このプロスロク王国に刻まれてしまう。

 ラビは瞬時にそう悟り、背筋を正した。

「わかりました。そのように準備します」

「頼むよ。それと、くれぐれもコレットには……」

「わかっています。コレットさんのことでしょうから、素直に頷いてはくれないでしょうしね」

 ヴィクトルは頷いたまま執務室に消えていく。

 ラビはその背中を見送りながら、明日の長い一日を思い、深くため息をついた。

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