救国の戦乙女は幸せになりたい!

秋桜ヒロロ / 桜川ヒロ

― 腹黒王子に狙われています! ―

プロローグ


 丸く切られている天窓から入る月の光と、小さな円卓の上にある燭台の明かりしかない暗闇の中、その女性は暗闇に溶け込みそうなほどの黒い髪を片手で弄びながら、気だるげそうに身体を赤いベルベットのソファーに預けていた。

 彼女の周りには、まるで子供の部屋のように大小様々な人形が所狭しと並んでいて、そのどれもが無事な状態を保ってはいなかった。彼女の鬱憤のはけ口にされた人形達は、腕をもがれ、瞳をくりぬかれ、腹からは綿が飛び出している。

 そんな彼女はまた先日買ったであろう人形を撫でながら、真っ赤な唇を引き上げた。

「ヴィクトル、結婚してきなさい」

 あくまでも優雅に。

 隣国の姫だったことを忘れないその優雅な声は、どこか陰惨とした響きを持っていた。彼女はその光の届かない真っ黒な瞳を細めて、目の前の彼を愛おしそうに眺める。

 その言葉を受けた青年はゆっくりと顔をもち上げた。その髪の毛は、彼女と同じぬばたまのような黒。瞳は深海のような濃い青だ。

「一体、どこの誰と結婚してこいと言うのですか。お母様」

 凜とした響きを持った声に、扉の前で待つ彼の従者が冷や汗を顔の輪郭に滑らした。

 母と呼ばれたその女性は、歳に似つかわぬ可愛らしい声を出して立ち上がる。

「二年前の戦争で活躍したという女騎士ちゃんと、よ」

 その言葉に彼の眉間がぴくりと動く。しかし、その表情の変化は一瞬で、彼はすぐに先ほどまでの無機質な表情へと立ち戻った。

「どうしてですか? 確かに彼女は騎士ですが、身分は確か平民だったはずです。貴女のほしがる〝権力〟とは無縁の存在だ」

 ヴィクトルが突っぱねるような声を出せば、彼女はにたりと笑ってヴィクトルの前までゆっくりと歩いてくる。そして、無邪気な声を出した。

「噂で耳にしたのだけれど、彼女、《神の加護》を持っているそうじゃない! 本来、王族にしか現れない《神の加護》! 貴方の持っていない《神の加護》よ!! 平民だろうがなんだろうが、それだけで結婚する価値はあるわ!」

 興奮したようにそう言って、彼女は息子の頬を慈しむようにゆっくりと撫でた。

「貴方は人一倍優秀よ。もしかしたら、貴方の結婚相手が《神の加護》を持つ者ならば、貴方はまた次期国王としての扱いを受けるかもしれない。少なくとも、あのアルベールと対等に戦えるようになるかもしれないわ!」

「お母様、俺は一度として次期国王の扱いなんて受けたことはありませんよ。次期国王として期待されているのは、今も昔もアルベール兄上だけです」

 淡々と、まるで用意されている台詞を読み上げるようにヴィクトルはそう答える。その答えが気に入らなかったのか、彼女はいきなりヴィクトルの頬を張った。パン、と乾いた音が室内に響く。

「大体! 貴方がちゃんと《神の加護》を持って生まれなかったのが原因なんじゃない!! だから私がこんな扱いを受けるのよ!! 貴方は! 貴方はちゃんとあの人の子供なのにっ!」

「すみません」

「何が『すみません』よ!! 貴方は、いつも、いつも、謝ってばかり!! 本当は申し訳ないなんて、一度も思ったことがないくせに!!」

 髪を振り乱して、今にも食ってかかりそうな勢いの彼女を、側に控えていた数人の騎士が止める。その隙に扉の前で控えていた従者がヴィクトルを部屋の外に連れ出した。

 ヴィクトルが部屋を後にした瞬間、背中の扉は音を立てて閉められ、そして鍵がかけられる。

 そう、彼女は幽閉されていた。ヴィクトルの兄であるアルベールの手によって。

 名目上は『精神疾患の治療をするため』としているが、彼の母がこうなってしまったのは幽閉されてからだった。

 昔の彼女は良くも悪くも誇り高い女性だった。

 奢り高ぶっていたと言われれば、そう見えてしまうような危うさも持っていたけれど。

 自分の息子のことを王位継承者としてしか見なかったけれど。

 それでもこんな風に幽閉されてしまうほどの愚かな人ではなかった。

「ヴィクトル様、大丈夫ですか?」

 ひっくり返ったような声を出す従者にヴィクトルはなんてことない苦笑いで頬を撫でる。

「怒られてしまったな。母はどうやら俺の結婚を望んでいるらしい」

「ど、どうされるおつもりですか? 当然、無視の方向ですよね?」

 野暮ったい眼鏡を押し上げながら、従者は慎重に、引きつるような声でそう聞いた。焦りを隠そうともしないその従者に、ヴィクトルは唇に指を這わせながら「どうしようかな」と意地悪く笑う。

「まぁ、母の意見も一理ある。王太子に立候補するつもりはさらさらないが、《神の加護》を受けた者を味方に付けておけば、何かと優位に働くのも事実だ」

「つ、つまり……?」

「ラビ。至急、彼女の行方を追ってくれ。確か、戦争が終わったと同時に騎士団は辞めていたはずだ」

「本気ですか!? 貴方は一応、この国の第二王子なんですよ!? 戦姫と呼ばれて、もてはやされた過去があるかもしれませんが、彼女は平民! 貴方がそこまで落ちなくても……」

 ラビと呼ばれた彼はひっくり返ったような声を出しながらヴィクトルに詰め寄る。『戦姫』というのはその女騎士についた異名だ。

 そんな彼をさらりとかわしながら、彼は歩き出した。

「落ちるというなら、ここ以上に落ちるところもないだろう? それに、その彼女が俺からの求婚を断る可能性もある」

「あるわけないでしょう! 普通の女性なら、二つ返事どころか三つ返事で承諾しますよ! あぁ、もうどうして、貴方のような高貴な方が……っ!」

 短く切りそろえた茶色い頭を掻きむしりながら、ラビは腹立たしげに地団駄を踏む。

 そんな幼いころから尽くしてくれている忠臣に、ヴィクトルは苦笑いを浮かべた。

「前々から思っていたんだが、お前は俺を買いかぶりすぎだと思うぞ」

「買いかぶりなわけないでしょう! ロザリー様と同じ意見なのはあれですが、貴方ほど王位に相応しい方はいないと、私は思っております!」

 胸元に拳を掲げながら、ラビは力強くそう言う。

「ラビ、滅多なことをここで言うな。お前まで捕まるぞ。お前の場合は幽閉ではなく、国家反逆罪とかで死刑確定だがな」

 からりと笑うヴィクトルに、ラビはすぐさま青い顔になった。あたりを見渡して人がいないことを確認すると、震える声でヴィクトルに縋りついた。その瞳には涙が浮いている。

「おっそろしいこと言わないでくださいよぉ! 心臓が止まりかけたじゃないですか!」

「お前は本当に肝が小さいな」

 ヴィクトルは呆れたような顔で、縋りつくラビに視線を投げた。

 そして、廊下の先の分かれ道に差し掛かると、腕に引っ付いたままの彼を引きはがす。

「それじゃ、彼女のことは頼んだぞ。あと、黒塗りの馬車も用意しておいてくれ。見つけ次第、求婚しに行く」

「本気ですか? 今から考え直されても……」

「側室は何人いても構わないんだ。別に渋る必要はないだろう?」

「それは、そうですが……」

 まだ納得がいってないとばかりにラビは口をもごもごとさせていたが、やがて諦めたように一つ息を吐いた。

「わかりました。すぐに調べます」

「頼む」

 ヴィクトルはそのまま彼に背を向けた。

 そうして誰もいない廊下を一人思案顔で進む。

「それにしても、どこで戦姫の情報が漏れたのか……」

 その呟きは誰にも届くことなく、静まり返った廊下に溶けて消えた。


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