恋と呼ぶには遅すぎた
母親が張り切ってアイロンをかけた制服のワイシャツは、パリパリしていて、少し落ち着かない。
特別科は第二棟の一階に教室がまとまっていて、トイレ一箇所だけらしい。男子トイレは俺以外の人が使わない割には、掃除が行き届いていたが、なんとなく人に使われていない感じが充満していた。鏡にうつる自分の顔は少し疲れていて、後ろに立つ喪服のような制服の女は、ニヤついた顔で俺の背中を見つめていた。
「トイレまでついてくるなよ」
「いいでしょ。減るもんじゃないし」
「減るに決まってるだろ。」
石鹸は残り少ないのか、何度か強く押さないとでてこず、声がやたらに反響する狭い空間に、空振りしたプッシュ音が響いていた。
まずいな。横の女子トイレとか、廊下とかに俺の声が聞こえていて、独り言のやばいやつだと、思われたかもしれない。
まあ、もうやばいやつという認識は、第一印象は、全校に知れ渡ってしまっているだろうけど。
トイレから出ると、廊下をせわしなく歩く女子たちが、何人か俺の方を振り返ってみて、去っていく。
こんなところまでトイレを利用しにきた普通科の生徒と思われているのか、それとももう他学年にも知れ渡っているのかはわからないが、想像したよりも女子の目はきつい。
首を緩いリボンかなんかで、ぎゅうぎゅうと締め付けられているようだった。
「あの!城鐘くん!」
「へ」
男子トイレの横に出待ちするように、立っていた女の子には見覚えがあった。
ふわふわとした茶色の長い髪の毛に、埋もれそうになりそうな花の飾りのついたヘアピン。
制服スカートは廊下を行きあう女子たちの誰よりも長くて、みえる肌の面積が驚くほど少ないが、色は陽に当たっていないように白かった。
俺を見上げる体は小さくて、震えているようにもみえた。見覚えのある少女。
さっきも怯えた目で、俺をみながら決してそらさなかった彼女。
「校門でパンチしてきた…」
「そ、その説はすいません…!同じクラスだったんですね」
怯えたように、俺を見つめる色素の薄い黄色がかかった瞳。そういえばさっき教壇の上で、見渡した時も彼女は怯えたように、俺を見つめていた。俺が怖いのか、なにかを恐れているのか、そこまでは読み取ることができなかったが、なんだかこんなに怯えている子が俺に話しかけているのが、まずおかしくて少し違和感を感じる。
「俺に何か用?」
「あ!トイレに行くのかなあ〜って思ったんですけど、場所わかるかなあ〜とか。そもそも、校内のことなんてわからないよなあとかいろいろ考えたら、追いかけてきちゃってました…迷惑ですよね」
しおしおと、小さい体がさらに小さくなっていくような、そんな感覚を覚える。
花のヘアピンが廊下の薄暗い照明の光をうけて、鈍く光っている。
その反射が眩しいのと、少女の言葉がなんだかじんわりと、胸に染みていくような感じがして、俺は一度ゆっくり目を閉じて、また開く。
さきほどまでいたセーラー服の女は、もうそこにはいなかった。
「えーと…何って名前なの」
「あ、え!?名前…名前はその…うぅ…小花…小指」
「こはな、こゆび?」
小花さんが小さく指を立ててみせる。
小花、小指。芸名のような名前だがなんとなく彼女に似合っていた。小さい爪の小指が照れ臭そうに立っている。彼女なりに笑わせようとしているんだろうが、彼女の顔が真っ赤な方が面白くてなんともいえない。
「小指、可愛い名前だな」
「えっ!!!!!!!!!!あ、え!?ありがとうございま…す?」
「俺は城鐘…あー、城鐘です…よろしく、小指」
真っ赤な彼女の顔から伝わってきたような熱が、まとわりつく。小指はまだ恥ずかしそうに、モジモジとこちらを見つめている。
どちらから次の話を切り出そうか、悩んでいるようなお互いが言葉が出てこないような、なんともいえない雰囲気に包まれている。
「なんで指ちゃんが変態と話してるの!?」
小指の右腕がぐいっと強く引っ張られてて、小さい体がゆれる。とっさに左腕を掴むと、瞳が大きく見開かれて目が合う。まだ熱を帯びた瞳に俺がうつって、引っ張られた小指の体がはじかれたように一度よろけてまた元に戻る。
小指の右側にはこちらを睨みつけている少女が、立っていた。
少し、ツリ目気味の瞳はこちらを明らかに強い意志で、睨みつけていた。
「なんで転校生と話してるの!?指ちゃん!」
「ええ!?それは校内を案内しようと思って…」
「案内!?案内なんて指ちゃんじゃなくてもいいでしょ!」
きっちりと着こなされた制服は、つけこむ隙のなさを感じさせる。少し緑がかった黒髪は、肩までの長さが落ち着きのないように、サラサラと風に揺れている。こちらを見つめる瞳は、責め立てるような強さを孕んでいて、横に並ぶ小指の敵意のない瞳と合わせると、異様な雰囲気だ。
「小指…さん。こちらのお人は」
「…佐藤環ですけど、何か!?」
佐藤、砂糖。そういう甘さは全く感じさせない瞳と声色。向けられた敵意の矢印が俺にだけ刺さるように向けられていて、正直息がつまるが、なんとなく想定というか予想通りだ。
「たまきさん。俺今からこちらにみえます小指さんに校舎を案内してもらおうと思ってますけど、いいですか」
「いいよね?たまきちゃん!」
「よくないでしょ!?なんで小指ちゃんがしないといけないのかいまいちわかんないけど?」
「小指が優しいからだろ」
たまきの目が大きく見開かれて、それからまた眩しいものをみるみたいに細められていく。もうすぐ休憩時間が終わるからだろうか、廊下にいる人たちも、まばらになっている。
「指ちゃんが優しいのは認めるけど、あんたみたいな男子に興味をしめしてそういうのやりたそうなのは他にいると思う。そっちのが適任でしょ。いこ、指ちゃん」
吐き捨てるように、誰かに言い聞かせるように、そう環は言って、俺の横にいた小指の手を引っ張って、教室に帰っていく。
小指は一度俺の方をみて、静かに笑って、そのまま2人で、教室に吸い込まれていく。
その数秒後、チャイムが一度鳴る。
閉ざされた扉を開けるのは勇気がいる気した。女子だけの空間に入り込むのかと思うと、息がつまりそうだった。
【改ページ】
「入らないと遅刻になるよ」
「え?」
顎のラインで切りそろえられた黒髪と、色の白い肌に、やけに鮮やかに色づいた目元。何も守ることができなさそうなスカート丈に、着崩された制服。力強い黒い瞳。
「あ!しろがみくんだっけ〜?遅刻だよお〜?うちらと同じだね」
わざとだしたような甘ったるい声の主は、色素の薄い栗色の髪の毛を低い位置で二つに縛り、華やかに色づいた唇を楽しそうに綻ばせている。上を向いたまつ毛が瞳を縁取って、俺を値踏みするように写している。
「しろがみくんの自己紹介さあ〜掴みは微妙だったけど、あとでじわじわくるよね〜うち気に入ったよ〜」
「城鐘ですけど、どうも」
「城鐘くんだって。ヒメ間違えてるよ。私は七瀬、こっちの子はヒメ。よろしくね」
艶のある黒髪を耳にかけながら、七瀬という少女が微笑む。外気にさらされた耳には小さな石がキラリと光っていた。
短いスカート丈に、計算されたような仕草。彼女たちは自分の魅せ方をわかっていて、それは特に異性に向けての魅せ方だ。
「ごめん!ごめん!がねくんだね!よろしく〜とりあえず教室に入ろ?どーせ後は明日の予定とか言われるだけだし、サボるほうがめんどくさいよ〜」
「そうだな。お先にどうぞ」
扉の前を通り過ぎていく彼女たちからは、甘くまとわりつくような匂いがする。
先ほどまでいた少女たちからは、しなかった捕食者のような匂いだ。
席につこうとすると、環と目があった。『そっちのが適任でしょ』そういった環の言葉の意味が、嫌という程わかった気がする。
女だけのクラスというのは、部外者から見ても、圧倒的に支配的なランクづけがある。
さっきの2人みたいな上の方で下を見下しているやつと、小指とかみたいに上の方の機嫌を伺ってその監視の目がない隙間を見つけてしか、やりたいことに手を伸ばすことができない人たち。
そういうのが嫌という程目に見えてしまった。この数分だけで、ただの授業と授業の隙間だけで、この閉ざされた世界のあり方というものが、わかりきってしまった。
ここにいたあいつも、その世界に無抵抗に馴染むような女だったのだろうか。
黒髪のセーラー服の女はさっきずっと姿を消している。教室にはブレザーの少女たちが、スーパーの荒らされた陳列棚のように並んでいるだけだ。そこに異分子は俺しかいない。
「おい、授業始めるぞ〜というか、ホームルームを始めるぞ〜」
あそう、といったか生きる気力のなさそうな男が入ってくる。
教員とはここまで不潔感というか生活臭が抜けなくても務まるのかと心配になる程、ルーズな男だ。
それから、その横には付き添うように日に焼けた女性がいる。
彼女がゆかり先生という人だったか、きっちりと切りそろえられた黒髪と地味な眼鏡。
「しろがね〜どうした〜早速食われたか〜」
「ちょっと〜麻生ちゃん!変なこと言わないでよー!」
ヒメと名乗った少女の声が、教室に響いて全員のやけに大げさな笑い声が響く。狭い空間。春の気だるい空気に飽和されていく見分けのつかない少女たちの声。
空気を吸って、吐く。
それぐらいしかこの空間で俺に許されていることはそのくらいのことしかない気がした。
【改ページ】
「し、城鐘くん」
放棄するように閉じていた目をゆっくりと開くと、安心したように、俺を見る小指と、導火線に火がついて爆発寸前という感じの環がたっていた。
「授業終わったよ?」
「何も聞いていなかったけど、終わってよかった」
「…明日は短縮授業だから弁当いらないって」
「ありがとうたまき」
「あぁん!?」
「ありがとうございます、たまきさん」
たまきの導火線に火がついたが、なんとか生き延びた俺は、たまきの横に立つ小指をみる。小指はどうして、今見つめられているのかわからないという風に俺をみて、首を傾げている。
「校内案内してくれるんだっけ?」
「う、うん!お昼持ってきてなかったから購買か食堂で食べるかでどう?」
小指の目はうかがうようで、どこか初めてのイベントにわくわくしたように、きらきらと輝いているようにも、見えた。
横のたまきは諦めたように、おれの言葉がどっちの選択肢を選ぶのかをためしているように、おれを見つめていた。
食堂が気になるかな。今日なら短縮授業だからそんなに混んでなさそうだし、と考えをまとめて、納得して小指に話しかけようとした時だった。
「がーねーくん!うちらがあんないしてあげようかあ」
後ろから急に予想しなかった声が聞こえる。
振り向かなくてもわかる声の主の登場に、小指は少し目を見開いた。
たまきは諦めたようにおれを見つめている。たまきのさっきの表情は、俺の選択を待っていたのではなくて、こいつらが登場するのを待っていたものだとその顔が物語っていて、俺はまた知りたくなかった何かを、思い知る。
重い空気に肌がぴりついて、目を伏せる。
「もしかして小花さん達と約束してた?」
「え?そうなの」
切りそろえられた光沢のある黒髪を耳にかけながら、七瀬が試すようにたまきをみつめる。
たまきの方も早く応えをだせという目で、おれのほうをみつめている。
俺も目の前にいた小指を少しだけ、どかすようにして空気を切り裂きながら、俺の目の前に姫が現れる。小指がたじろぐように半歩下がって俺と小指の間に空間ができる。
姫は相変わらず自身に満ち溢れたまぶしい光を放っていて、彼女の性格を物語っていた。
力強い薄い桃色の瞳が小指を見つめて、小指がたじろいでいるのがわかる。
ここで小指を選べば姫から反感を買ってこの狭い世界での生きづらさを、強くしてしまうことはこの数時間で痛いほどわかっていた。
分かっていたけど、
わかっていたのに、どうしてだか俺は弱く震えている少女が、勇気を出して声をかけてくれた時の顔を忘れることができない。
あの弱々しく光っていた彼女から、発せられた温かい光が視界の隅に、ちらついていた。
机の横にかけてあった鞄に今日配られた紙を乱雑にしまって勢いに任せて立ち上がって、姫をまっすぐにみつめる。
「姫さん、でしたっけ。お気づかいありがとう。」
「え?」
「俺は小指に案内してもらう。いこ、小指」
教室の中が一瞬どよめいて、何人かが驚いたように息を吐いている音が聞こえる。小指の手をむりに引っ張って、春の空気が閉じ込められているような教室から出る。
小指は決して、手を握り返すことはなかったことはなかったが、決して振りほどくことはなかった。
そして、逃げるように去っていった俺たちに対して強者の二人は何も言わなかった。
「あんた本当に空気読めないのね!!!!」
「ついてきてくれるとは思わなかった」
「あんたが指ちゃんを誘拐したからでしょ!!!!」
たまきが背中を強く二発ほど、たたいてくる。痛い。痛いけど、たまきの正論の方が刺さって違う意味でまたいたい。小指はまだ驚いているという感じで、ぼーっとした顔で、俺とたまきのやり取りを見つめていた。
「だいたいあんたみたいなのが急にクラスに来ただけでこっちはいっぱいいっぱいだってのに…さらに問題を起こすなんて…あああもう!よりによって姫~ていうか、まあ姫川が男に反応しないわけないけど…ああでも…」
「なんかごめんなさいという思いとちょっとほっとしてきた」
「ああ!?なんでおちついてんの!?」
「いや、俺がずっと悩んでいたことをたまき…さんがすべて代わりに行ってくれたからほんわかしてしまった」
たまきの身体がまた小刻みに怒りをかみしめるように、ふるえて、それから、目の前の俺をまた睨みつける。小指はようやく我に返ったのか、まだ赤い頬を抑えながら、俺の方を見つめる。
二人から意味合いの違う視線の矢印を向けられて、息が詰まるが、さっきの姫という少女に比べたら幾分かマシな気がしてしまう。
「あの!案内するね!一生懸命するね!」
小指が腕を上下に、パタパタと羽のように動かして、嬉しそうに俺をまっすぐに見つめる。
「ありがとう小指。とりあえず職員室とか売店とか…そういうのだけでいいから」
「うん!とりあえずそういうとこだね。移動教室とかはのちのち覚えてけばいいもんね」
その後は普通にまず職員室とか教材室、裁縫の授業で行くらしい裁縫室とか、調理室を順番に見ていくことになった。特別科のある第三棟に、特別科の使う教室は固まっているのがありがたかった。
渡り廊下でつながっている第一棟のほうは、職員室とか食堂とかが固まっているらしかった。二棟にいる普通科の男子の方が、学校の設備を使いやすいことに、たまきと小指は文句を言っていたが、あの女子空間に入り込むのはあらゆるトラップを仕掛けられたダンジョンぐらい男子には、ハードルが高いと思うので、そこら辺には創業者の気遣いを感じる。
「じゃあ次は第一棟のほうを案内するね!第一棟の一階に購買とか食堂とかがあって、
私たちも使うような職員室とかは第一棟の二階にあるんだよ」
「とりあえず食堂に向かう途中に購買があるからパンでも買っていい?私そんなにお腹すいてないからパンでいいや」
「そうだね!城鐘君もそれでいい?」
「ああ、大丈夫。俺も購買で校章買わないとだし」
「あれ案外するのよね~」
たまきの言葉に俺は内心、まじか…と思いながら、二人の小さい歩幅に合わせて購買へと向かった。
購買は学生で埋め尽くされていて、女子よりも男子の方が明らかに比率が多く、広い肩幅がぎゅうぎゅうとあいた空間を取り合っている。
その中でも、小指とたまきが歩き出すと、不思議と群衆は狭い空間を余裕がない中に作り上げて、肩がふれるかどうかの広さの道を作り上げている。
俺はその二人に便乗して、左側の壁側に設置してある備品を打っている店の方に、足を速める。
左側の壁側は食品を取り扱っているらしく、木製の長いテーブルには学生が群がっていて、それを体格の良いおばさんが、列をつくるように声かけをしていた。それにくらべ、俺の並んでいる方は、少しやせた上品そうなおばさんがにこにこと、俺を見つめているだけだった。
「あの校章を一つください」
「はあい、700円になります」
700円という値段には、似合わない軽い品物に少し肩を落としながら、金額をちょうど渡す。机から離れ、たまき達を探すと、たまきはまだパンを買うのに苦戦しているようだった。
「えっ!校章ないんですか」
人のいない先ほど俺が離れた左側の店の店員さんに1人の女の子が詰め寄っているのが、見える。綺麗な黒髪を高い位置で、きっちりと縛った黒縁メガネの少女。肌の色は透けるように白く、頬はほのかに桃色に色づいている。化粧気のない少女だが、その頬を動揺が染め上げているように見えた。
「ええ。校章は今売り切れちゃって。今日は集会があったでしょ?だから、朝から普通科の男の子がたくさん買いに来て…」
「そうですか…そうなんですね。わかりました」
「俺の校章ゆずりましょうか?」
「は?あなた…!」
眼鏡の奥の黒い瞳が見開かれて、俺をみる。それもそうだ。上履きのラインが緑色ということは同級生、俺の自己紹介をきいてドン引きしていた一人だと思う。そのドン引きさせていた相手が、突然現れて、校章を譲るなんて、言いやがっているわけだから、驚くのも無理はない。
「今買ったやつですよね?それを譲るんですか?」
すこしにらみつけるよう、俺を見つめる瞳には、敵意の色がにじんでいて落ち着かない。
「俺はまあ、なくても何日かの猶予はありそうだし、大丈夫。ないと
怒られるんだろ。式典とかの時に」
「本当にいいの?じゃあありがたくもらいます」
長机の上に積み重ねられるように、おかれたのは7枚の百円玉。これを受け取ったら、この上にはやく品物を置けといわんばかりの視線に、一瞬たじろぐが、七百円をありがたく頂戴して、ポケットから真新しい品物をだす。俺の手が校章から離れた瞬間に、少女はそれを攫うように奪い、俺に背を向けて俺たちが入ってきた入口とは別の方向へと歩いていく。
どうやら、この購買は中庭にも通じているらしく、逆の入り口からは、直接外に出ることができるようだった。
「感じわる…」
今までの一連の出来事に対する感想をまとめるのに、最大に適した言葉を、なるべく誰にも聞こえないように呟く。購買の優しげなおばさんは困ったように笑っていた。
「城鐘くん?買い物終わった?」
俺の子にはいつの間にか、先ほどまでの殺意と敵意に満ちた空気とは違い、ほんわかとした空気の小指が立っている。先ほどの少女が俺にむけてきたものとは、違う温かさをにじませたような視線に、少しほっとしている。
小指の手の中にはパンが二つほど抱きしめられている。ハムか何かが挟まれたパンと、生クリームのはいったコッペパンと、チョコチップが埋め込まれた堅そうなパンを持っている。
小さい体のわりにはたくさんと食べるんだなあと思って眺めていると、小指が恥ずかしそうに後ろにパンを隠す。
「た、たくさん食べ過ぎかな」
「成長期だからいいの!」
小指の後ろからひょっこりと顔を出すたまきは、また少し怒ったような顔をしている。ただ、さきほどの少女の視線というか態度を体験してからだと、たまきの威嚇のような視線と態度は、絵文字の怒りマークのようなものくらいのかわいさに感じた。
「な、なによ」
俺の何かを値踏みするような視線に、違和感を感じたのか、たまきが少し不思議そうに俺を見つめている。
「いや…たまきはやさしいなあと」
「はあ?あんた頭イカレてんの?どうせあの子になんか虫けらみたいな扱いされたんじゃないの」
たまきの瞳が少し細められる。それは心配しているようにも見える仕草だった。小指は何かわからないのか、手持無沙汰そうにパンを胸元に持ち直していた。
「あの子ってさっきのポニーテールの」
「ああ、白雪さんでしょ。白雪かえで。クラスで一番の真面目ちゃん」
「ああ!かえでちゃん!色が白いよね~」
二人は互いに思い出したようにそれぞれの評価を述べている。たまきは思い出したくもないような苦い顔だが、小指は笑顔で話している。
白雪かえでという少女はまじめで、クラスからは少し浮いているような存在なのかとも感じさせた。
「さっきなんかすごいあせって校章を買ってったよ」
「ああ、今日集会あったでしょ?その時校章のチェックがあって忘れたやつ沢山いたんだけど、そこには白雪はいってなかったわよ。まあ、真面目だから思い込みで持ってるってなったのかもね」
たまきの推測に対して小指が感心したようにうなずいている。
なるほどなあと思う半面、どうして終わった後にわざわざ買うことにしたのかは、いまいちよく分からなかった。
さきほどの白雪さんの表情は、俺に譲ってもらうことに対する心の揺らぎが、見え隠れしていたような気もしていたが、あの揺れた水面のような表情は、どこか何かと葛藤していたのかもしれない。罪悪感とかそういうものが。
あの一瞬のやりとりと、ふたりから下された評価から先ほどの少女の像、少し見えてきたような気がした。
「まあ、あの真面目のかたまりの話はやめて…私も指ちゃんも買ったし、食堂に行きましょ」
たまきが手を一回ぱんと叩いて、扉の方向に歩き出す。小指はとことことそこについていく。なんだかその姿はアヒルの親子みたいでほほえましかった。
食堂は二階にあるらしく、小指たちは軽やかに階段を跳ねるように登っていく。
階段の右端を歩く俺たちとは別に、左端に男子たちが、固まったように歩いている。その男子たちはどこか俺の前を歩くふたりを珍しそうに、見つめている。その集団が通り過ぎた後に、春の暖かな色合いには似合わない黒い制服が通り過ぎたような気がした。
慌てて、振り向くがそこにはだれもいなかった。安心したような気がして、口から一つ息を一回吐き出してまた肺を無理やりに広げる。
「ああ、今いくよ」
もう一度振り返ってもあの喪服はない。それは当たり前のことだった。
「食堂にようこそ~」
小指が嬉しそうに、手を広げて案内するのは、白を基調とした広々とした室内だった。
食券を買う機械には、今日が短縮授業ということもあって、そこまで人は並ばずに、クロを基調とした飲食スペースはどこか、がらんとしている。
「今日はあんまりいないけど、普段は男子がたむろってるよ。だから、特別科の子は暗黙の了解で窓辺のほうの席にかたまるようになってる」
「そうか。おすすめは?」
「私はいつもパスタたべるけど、指ちゃんはから揚げ定食とか食べているよね」
「結構ボリュームはあるよ!味もおいしいよ。私のお勧めは日がわり定食かなあ。300円!」
券売機の横には手書きの看板があり、日替わり定食300円と大きな文字で書かれている。
確かに売出し中のようだし、いろいろつくから男子も満足する内容なのだろう。
「じゃあ俺これにしよう」
300円入れて券を取り出し、カウンターにいる女の人に渡す。慣れた手つきで、用意された日替わり定食には、数種類のフライが盛り付けられている。素直においしそうだった。
二人はもう日当たりのよい桜が舞って、入ってきそうな席に座っている。小指が誘うように、こちらに笑みをむけている。
「ごちそうさまでした」
「城鐘くん、おいしかった?」
「おいしかった。沢山食べておなかいっぱいになった」
小指もパンを三個食べて終わっていて、たまきはサンドイッチとサラダを買ったらしく、今最後のサンドイッチを食べていた。
ずいぶん上品に食べるものだと、感心しているとこちらを見るなと視線で訴えられた。
「よっっ!未来のハーレム王!」
ぐいっと、無理やり後ろからワイシャツの襟袖を引っ張られる。ゲッという感じに、目の前にいたたまきの目が見開かれる。
振り向くと、目に痛いほどに光を集めた金髪の少年がいた。ワイシャツの前のボタンは二つほど空いていて、シルバーのアクセサリーが見える。目は俺を映してきらきらと輝いてる。
「え?誰?」
「城鐘くん~いくよ」
たまきが慌てたように立ち上がる。俺も続いたほうがいいのは、たまきのつくりだす空気的にわかるのだが、金髪のやたらキラキラちゃらちゃらとした擬音が、うるさめの男がまとわりついてきて立ち上がることができない。
「冷たいね~カチューシャちゃんは。ハーレム王はもう彼女できたの?」
「あの…誰かを教えて」
金髪の目をまっすぐに見つめると、思いついたように笑顔で返してくる。窓の外から差し込む太陽の光が、髪の毛に吸い込まれていく。
「俺?俺は周防晶!あきらきゅんってよんでくれよ」
「あ~俺は城鐘です。よろしく。あと、ハーレムってのはいったい」
「がねちゃんね。見れば見るほどイケメンだね~こりゃもてる」
「はあ…それはどうもありがとうございます。そろそろ離れてもらっても」
「お!わりいわりい、とりあえず俺ももういかないとだわ!また話そうな~」
金髪の周防という少年は嵐のように去っていった。たまきは大きなため息をついて、説明がほしいことが顔に出ているであろう俺の顔をみつめているが、説明をする気はないように小さく首を横に振った。
「みたまんまの男よ。ね、ゆびちゃん」
「う、うん。周防君は明るい子だよ」
なるほど。二人の評価は俺が感じたものとおおむね、同じ評価だったようで、周防という少年の明るさが与える印象というものが痛いほどに、伝わってきた。
「普通科でも中心人物って感じだよな」
「本当よ。あんなのばっかりよ」
それは違うと思うけどと、口に出そうとして、口をつぐんだ。先ほど会談ですれちがった少年たちの群れを思い出して、なぜだかその通りだとか、それは違うともどちらともいえなかった。
ただ俺はまぎれもなく後者の方だと思った。
小指とたまきと別れたころには、すっかり夕方になっていて春の温かい日差しはすっかりと陰り、冬の冷たい風を思わせる空気が、周りを包んでいた。
小指とたまきは寮生ではないらしく、日用品の買い物をしたい俺を近くの駅まで送ってくれ、その後別々の方向へと歩いて行った。
駅の方には他校の高校生が多くあふれていた。
日用品を買うなら、駅の中に入っているビルがポイントがたまっていいといった小指の言葉通り、たくさん買い込んだからか、次回の買い物ではかなりの値引きが期待できそうだった。こうやってみんなうまいこと買い物しているのだなあと、新婚の女の人のような気持になりながら、重たい袋を抱えて、学校へと向かう電車の出る駅へと向かう。
今日の朝見つけた裏通りを通ると、人通りは少ないが、信号も少ないので、早く駅へと向かうことができる。
先ほどまでいた高校生の群れは少なく、街灯の少ない道はどこか薄暗い。
「やめてよ!はなしてってたら!!」
薄暗い人通りの少ない道に、幼さを少し残す声が響く。まるで映画のような状況に荷物を持つ右手に、力が入る。
足が引き返そうと、後ろに引っ張られていく感じがする。後ろから黒い物に引っ張られていくような感じがする。
いつもの俺だったら、いつも通りの俺だったら引き返している。それは当たり前のことだ。
これまでしてきた選択肢に何回もカーソルを合わせる。簡単で見やすい選択肢。
「そうやっていつも逃げるの」
「逃げてきてここまできたのね」
振り返らなくてもわかる鈴のような声が、耳元で響いている。黒い制服の少女がそこにいるのは、きっとこの場で俺しか気づいていない。
「わかってるよ。わかってる」
足にまとわりついていたものが消えて、重たい足が少しずつ軽くなっているような感じがする。冬の冷たい空気に後ろを押されたような気がした。
背中を刺すような冷たさがふれた気がした。
「だから!やめてってば!」
「き、きみだっておかね、うけとったじゃないかあ!!」
少女の姿は男の体に隠れて、俺からは見えることはない。男の肩に手を引き、思いきり引くと男の驚いたような声が聞こえたが、無我夢中でその先にあるか細い腕をつかむ。
力いっぱいに引っ張ると、はじかれたように体がこちらになだれ込んでくる。
そのまま、大通りの方に向かって走る。頬を摩る風が冷たくて、口から吐き出される息だけが、ただただ熱い。女の方は一度、驚いたように止まったがすぐに走り出した。
街灯の少ない通りから光の多くともった通りへとでる。どこまで走ればいいのかわからないままに走っていたが、後ろにいた少女が止まろうとしたのか、派手な音がして倒れこんだのがわかった。
「あ、大丈夫か」
「いった~…」
色素の薄いゆるくまかれた髪の毛を下の方に結んだその少女。短いスカートから除く白い膝からは赤い色が垂れてアスファルトに、模様をつくっていく。
「あ、れ、姫川さ、ん」
「痛いってもう!!本当に…」
助けたというか無理やり引っ張ってきた少女は、クラスメイトの姫川だった。まさかの知り合いに、何かほかに言葉をかけたかったが、肺が軋ん、息を吸って吐くことだけしかできず、言葉をうまく呟くことができない。
「なにしてたのあそこで」
ようやく言葉を話すことができたが、その内容は尋問のようなものになってしまって、失敗したと感じる。
「なにしてたのって…なに…」
姫川の目が一度大きく開かれて、そのあとじんわりと薄い透明の膜が作られていく。そして、長い睫毛に水滴がついてゆっくりと頬を伝っていく。
「ご、ごめんなさい」
俺の尋問のような言葉かけに対しての反応が、これかと思って思わず謝ったが、姫川は気にせずにただただ、泣いていた。
「ほんとについてない…意味わかんない…!なんなのよ…」
姫川が悔しそうに、短いスカートの裾をぎゅうぎゅうに握っている。その手は寒さとは違う何かに、震えているように見えて、俺は何も言えずに来ていたブレザーの上着を彼女に、羽織らせることしかできなかった。
大通りにしゃがみ込んでいる俺たちを大人たちは邪魔者を見るように見つめて、何も言わずに去っていった。
「姫川大丈夫か?」
「だいたいあんたもなんなのよ!!」
姫川の震える方に添えようとした手を力、強くふり払われる。
かんしゃくを起こした子供のような反応に少し驚いたが、彼女の震える体と、力強さを、まだかすかに宿して揺れる瞳に見つめられていると、何も言ってはいけないような気持になった。
吐き出そうとした言葉を飲み込んで姫川の隣にしゃがみ込む。
「膝痛い…こんな怪我したの小学校以来なんだけど」
「ああ、痛そう。ばんそうこうあったかな」
「私は持ってない…てか、アンタが持っててもキモい」
「ごめん。もってた」
姫川の膝は痛々しく、持っていたペットボトルの水をかけ泥を落とす。
姫川は痛みに耐えるように、またスカートの裾を、ギュッと力強く握っている。
ばんそうこうを張り終えたのと、姫川が息を大きく吸って吐いたのは全く同じタイミングだった。
「本当に今日は最悪なんだけど…!学校案内してあげるって言ってんのにあんた、なんでか陰キャラの方選ぶし!!だいたいなんで小指のやつなんかに、うちが、負けたみたいになってんの!!本当に最悪!!!」
「…」
俺の行動が、ここまで人の感情を揺さぶって、怒りの方に傾けたのかと思うと、正直ぞっとする。ただ、目の前の姫川からは、誰かに対する怒りだけではない何かがあるような気がした。
「その後、みんなやってるバイトしただけなのに!!何であんな怖いことになるの!?おはなしするだけでいいて言うから、やったのに!!はなしと全然違う!!あんなの…!!あんなの無理だよお」
姫川は、息をしばらく忘れていたのを今、思い出したように、今息の必要性に気づいたように苦しそうに肩で息をしながら、涙でコンクリートに模様をつくっていく。
姫川の言うバイトの内容が、人に許されたものではないことも、姫川の思い描いていたものとも大きく違っていたのだ、彼女の荒い息の音を聞きながら、そんな無粋なことを推測していた。
「無理でいいよ。あんなこと一生しなくていい」
「…あんたは小指の味方だから言うこと聞かない」
姫川の瞳に映る俺は、思ったよりも優しい目をしていた。俺を映す姫川も思ったよりも、ずっとやさしく、怯えた目をしていた。
「小指はとろいくせに、変なとこで皆から守られてて、嫌い。でも一番嫌いなのは、かわいい名前してるくせに自信なさそうなとこ。あんたの気に入らないところは、いろいろあるけど、助けてくれたのだけは感謝しなくちゃいけないし、こんなことされたら一生嫌いになれないからむかつく。」
「名前?」
「そう、名前。うちはかわいくなれるように努力してるし、あいつは全然してない。でもそんなことはどうでもよくて、うちがむかつくのはどんなに頑張ったって、うちの名前は最悪なのにあいつの名前はかわいいっていうの、変わんないのがむかつく。そんなことで、いつまでもイライラしてるのにもむかつく」
姫川の膝と俺の膝が触れ合って、そこからじんわりと姫川の温かさが伝わってくる。妙なくすぐったさと心地よさで身動きがとれない。
「うちの名前さ、どおせいつかばれるからいうけど」
姫川は下を向いている。その瞳に俺を映すことはないまま、言葉を一つ一つ吐いて繋ぐように語る。
「のぶこっていうの。ありえないでしょ」
「まあ、お前にはあってないな」
「でも」
姫川の視線が俺の方に向く。俺が何をいうかなんて、興味がなさそうなのに、それでも言葉を待っているようだった。
「いい名前だ。推測だけど、信じる子って書いて信子なんだろ。意味がいい。あんたがそんな女の子に育ってくれますようにってきっとそう願ってつけたんだ」
「うん」
「それにいつかばれるから言うけど、俺の名前もなかなか最悪だからな」
「え?」
「愛ってかいて、ラブって読むんだ」
姫川がこらえきれないというばかりに大声で大声で笑って、そのままちからつきたように、おれの胸に倒れこんでくる。甘い匂いと微かな重みで一瞬、頭が真っ白になる。
「はあ~意味わかんないくらいわらった。それは意外すぎる。なんで名前言わないのかな~とか考えてたけど、そういうことか。なるほど。でも」
姫川が俺をもう一度見上げる。
「いい名前じゃん。うちは好きだよ」
姫川の瞳に映る俺は自分でも驚くほどに優しい瞳をしていた。
姫川を駅まで送った後、自分の乗るべき電車までの時間をどうつなぎあわせようかと考えていたときだった。
両手に持った荷物はさっきまでは重さを感じなかったのに、一人になると急に重く感じる。体もじっとりと汗ばんでいて、疲労感が肩にのしかかっているような気がした。
色々なことがありすぎだ。ふつうにやり過ごして、眠りにつくはずだったのに。
1日で得た情報が多すぎる。そして、自分から言い出した情報も多すぎた気がする。いうはずのないことを言ってしまった。あのクラスの女に優しくするつもりなんてなかったのに、どうしてあんなことを言ったのだろう。
矛先が鈍っている気がする。
しっかりと定めないと、もってかれそうだった。信念とか、そういうあの日に固めたものを。
「こんばんは、愛くん。さっきぶりだね」
朝あった男と同じ人物のはずなのに、少し印象が違う。服装は一緒だが、貼り付けられた表情だけでこんなにも印象が違うものなのだろうか。夕暮れの中で俺を見るその男からは、興味とかそういう浮ついただけの感情ではないなにかが透けて見えている。
「俺は明智。知ってるよね。もちろん、さっきあったからというのじゃなくて」
「…俺のこと思い出したんですか?」
明智という男を俺は忘れたことはない。彼は自宅の前にいる記者の一人だったけど、いつまでもしつこく俺たちの生活の隅に住み着いていた。この記者が一番、あの事件に食らいついていたからだ。
彼にとっては、俺の不幸は世間の目を集めるだけの餌でしかなかった。
「もちろん思い出したよ。印象が違ったから、全く思い出せなかったけど。それに、会うのは冬ぶりだからね。」
明智という男の中の俺はどんな印象なのだろう。それはきっと、俺も知らないことだった。俺という人間を彼はどう分析していたのだろう。
「城鐘愛くん。中学まではふつうのどこにでもいる少年だったが、星ヶ丘高校の入試に受かったものの、何故か登校できなくなる。そして、自宅から少し離れたコンビニでバイトをしていた。コンビニの店長さんは、君のことをフリーターだと思っていたよ。あと、ハンドメイドの服とか小物をネットで販売していたね」
俺の頭の中を見透かすように、明智はつらつらと俺の上っ面をなぞるように、俺が今まで歩んできた道を簡単にまとめるように、そう告げる。
「ここで立ち話も疲れるだろう。そこのカフェでお茶でもどう?」
彼にはきっと今も昔も俺はそこらへんに散らばる餌の一つなのだろう。一度、振り返って確認する。そこに喪服のような服を身にまとったような少女はいない。
「いいですよ」
入った店で男明智は慣れたように注文して、俺も流されるように同じ品を頼む。今から何を胃に入れるかとか、何で喉を潤すのかとか、そんなことはどうでもよかった。彼はきっと俺から何もかもを聞き出すつもりなのだろう。だとしたら、俺は先手を打たないといけない。
「…灰村百合子を殺した犯人の名前は萩尾 景。22歳の大学生四年生の男。隣町で小学生の子供を殺して、悪魔を蘇らせる儀式とかそういうのをしようとした男。今まで三人殺して、バラバラにして、その一部をホルマリンに漬けて、逮捕のその瞬間まで眺めていたような男だった。その男が母校である高校に何を思ったのか12月3日に侵入して、灰村百合子をバラバラにして、その死体を教室に飾った。
その数日後、男は隣町でもう一人殺そうとして、失敗する。そして、逮捕される。あんたたち週刊誌は、最初灰村百合子の殺人は生徒の犯行だと騒ぎ立てたけど、結局萩尾が自供したことで、灰村百合子の死からは興味がなくなって、次は最後に殺そうとした少女と、萩尾の大学生活を調べ始めている。それは今もたまに、記事になる」
同年代から少し上の世代のウエイトレスが声を出そうとして、俺が話してる様子をみて黙って注文の品をおく。おれは一気に話した内容を頭の中で反芻しながら、明智の顔をみる。明智は驚いたような顔をわざとらしくして、それからまた微笑む。
「被害者の灰村百合子は美しい少女だった。それこそ、ニュースで報道され、その顔が出た時、多くの人間が騒ぎ立てて、その死体に興味を持つように。美しい高校生の少女を襲った異常な男の手口。それは俺たちにとっては、いい餌だった。テレビでやるには衝撃的過ぎて、でも、げせわな興味を惹くには最高の題材だ。」
何も入っていない黒い液体に男が口をつける。使わなかった備え付けのミルクと砂糖を俺の手の届く範囲に移動させて、ゆっくりと飲み込む。そして、また息を吐く。
「灰村百合子はクラスでも浮いた少女だった。だからこそ、俺たちは最初いじめだと思っていた。灰村百合子をバラバラにした犯人が校内にいたらと思ってた。まあ、萩尾はすぐに捕まって自供したから、記事にする暇もなかったけれど」
萩尾景というどこにでもいる男の顔をうまく俺は思い描くことができない。
萩尾は、そのくらい印象の薄い男だった。きっと誰も覚えていないような背景だった。彼はその人生をどう思っていたのだろうか。彼の心情は誰も知らない。ただ、彼はその人生を自分の行いで変えてしまった。
「君は…灰村百合子の弟。小学2年の時に母親が再婚した相手の子供が百合子。事件のあと、君たち親子は名字を母親の旧姓に戻した。隠れ蓑を作った。君の青春を守るために。でも、君は百合子が死んだ後も自宅と、コンビニの往復の毎日だったはずだ。灰村という名字の名札をつけたまま、俺たち記者の問いには一つも答えてくれなかった。それが今更どうして?」
「それを知りたいなら、俺にももっと情報をください」
「え?」
コーヒーの中に砂糖を何個も入れて、マドラーで乱暴に混ぜる。ジャリジャリと音を立てる液体がやがて、飽和して静かになる。俺という存在もあの少女たちの中にこうやって、飽和されていけばいい。そうじゃなきゃ、俺は動くことができない。
「明智さん俺はね、百合子を殺したのは俺だと思ってます。でも、百合子を殺した犯人はきっと俺以外にもいると思うんです」
「それはどういう…」
「俺は共犯者を探してるんです。百合子を殺した俺以外の人間を探しているんです。俺があの学校にいるのは、そのためです。ほら、これがあんたの知りたがってことです。あんたが知ってることは何ですか?」
コーヒーの水面が揺れる。揺らいで歪んだそこに映る俺の顔はきっと、誰もみたことのない酷い顔だった。明智が俺に差し出したのは、ノートだった。それを俺は着慣れない制服のポケットにいれて、二枚の札をおいて出て行く。
明智は呆然したように俺を見つめる。
「愛くん、俺が知ってるのはそこに書いてある内容だけだ。ただ君はあの事件を忘れて、生きて行くこともできる。これは記者としてではなく、大人としての意見だ。ご両親がそうしたように、君は隠れて生きていけばいい。高校生活を普通に楽しんだらいい」
「そうですね、それなら楽しそうだ。でも、俺こう見えて楽しいんですよ」
それは誰かに言い聞かせるような言葉だった。目の前にいる大人に対してでも、俺に対してでもなく、俺にしか見えない誰かに向けたものだった。
明智と別れた後のことを、よく覚えていない。寮に行こうと思っていた足を後ろに引いてあのノートの存在を確かめながら自宅に帰り、いつも通りコンビニ弁当を食べて、何の家具もない部屋に一つだけ残されたソファの上で、休息を取ったことは覚えている。
登校一日目。自分が想像したよりもずっと体は疲れていたのだろう。自然と下がってくる瞼を受け入れて、暗い世界に意識を落としていく。
そのときふと昔よく聞いた女の声が、耳に直接響いたような感じがした。
「きょうはたのしかった?」
セーラー服の少女がそこにいることは、目を開けなくてもわかるような気がした。
楽しかったよと呟いたつもりだったが、だんだんと眠りに落ちていく意識の中、声を発することができたのかはわからない。
「わたしもひさしぶりにあなたがわらっているのをみたきがする。」
ああ、そうかもしれない。おれも久しぶりに笑った気がする。百合子、君が俺の知る君でなくなってから俺は…
「わたしはなんだかつまんなかった」
そう聞こえたような気がしたけど、なぜか俺はもう何も考えることができなかった。
起きた時にはもう登校時間ぎりぎりで、なんとか疲れた体に鞭を打ち、走り回ったおかげか、チャイムが鳴る前には扉の前につくことができた。
昨日はあんなに重たく、俺と違う世界の間にある仕切りのように感じた扉だったが、今はなぜかそんな風には感じなくなっていた。
「おはよう」
黒髪に頼りない細い足と、重たそうなカーディガンに身を包んだ七瀬がいた。いつも一緒だという風の姫川はさすがに朝は一緒ではないのか、だるそうに立っている七瀬のそばには誰もいなかった。
「城鐘君も寝坊?あたしもいつも起こしてくれるのがサボったせいで、寝坊」
「そうなんだ。あ、お先にどうぞ」
昨日と同じように扉を開けて道を譲ると、七瀬は少し嬉しそうに頬を緩ませる。
「ありがとね」
「いや、別に」
「いろいろありがと」
そう俺の目を見てまっすぐに告げる七瀬の言葉からは、何か違う意味も感じた。もしかしたらこの女の子は、昨日の姫川のことも知っているのかもしれない。もしかしたら、何もかも知っていて俺にそのことを言っているのかもしれない。
「別に大したことしてないよ」
「そう」
七瀬が面白そうに、俺の目をまっすぐに見つめたまま、何か言いたそうに、薄く色づいた唇を動かす。何か言いたい言葉を飲み込んで、俺の前を横切っていく。
七瀬からは、どこか懐かしいよく嗅いだことのあるような匂いがした。
「ねえ、城鐘くん」
「なに」
七瀬とまた目が合って、その色づいた唇がゆっくりと開かれて、時が止まったかのようにかんじるほどゆっくりと、その言葉が俺に届く。
「愛くんってさ、灰村百合子、あの性悪女の彼氏なの?」
そういったのは、七瀬なのだろう。そのはずなのに、なぜか七瀬だけの言葉のように聞こえなかった。俺の効き間違いなのか、それとも扉の先にいる少女のうちの誰かなのか、それとも全員から、向けられたナイフのような言葉なのか。
わからないまま、扉は重たい音を立てて閉まる。
鼓動が早くなって、心臓が悲鳴を上げるみたいに、ぎゅうぎゅうと、なにかに締め付けられているような気がした。
また、閉ざされてしまった扉を俺は一生開けることができない気がした。
「どうしたの」
この高校の女子の制服はブレザーだ。喪服のように黒いセーラー服なんかではない。
最後に見た百合子もそのブレザーに、そでを通していた。分かっていることのはずなのに、俺はここにいる少女たちと同じ制服に身を包むあいつの姿を、うまく思い描くことができない。中学までのあいつならうまく自分の思うがままに描くことができるのに、どうしてだろう。俺は俺に優しかった百合子しか、思い出せない。
確かに存在した彼女の高校生活を、俺は語ることも、想像することも、できない。だから、彼女は今でも変わらないセーラー服を着て俺を責めている。
「どうしてはいらないの?」
それは扉の奥にいる少女たちの輪にただのクラスメイトとして、混ざればいいのにどうしてわざわざ、彼女たちを疑いながら過ごす日々を過ごすのかと責めているような気もした。
「俺は馬鹿だから、お前がいつまでも見えるのかもしれないし、お前が俺だけに見えるのは、俺が特別だからだと思い込んでたいのかもしれない。たとえ、お前が俺にしか見えない虚像でもいい。」
「何を言っているの?愛?」
「お前が俺を恨んでくれて、俺を殺すために何も知らない顔で、俺の前に現れた幽霊だって、思ってないと、俺はあの場所から、前に進めなかったから」
扉を開ける。その扉は軽々と開いて、俺を何かがたくさん混ざり合った女の子の香りで満ちた教室の中へと招き入れる。
少女たちの目線が、一点に俺に集められる。その目には好奇とか恐怖とか軽蔑とかいろいろなものが確かな像となって映り込んでいた。
そして彼女たちを見渡す俺の目にも、疑いという実像が映り込んでいるのだろう。
灰村百合子の幽霊という虚像をたまに見ては、都合のいい妄想に浸る俺の肩ごしに、彼女たちのうちの何人かは、あるいは、全員が灰村百合子の姿を見ているのならそれでいい。
その方が俺も、誰かを疑いやすくて、憎むのに躊躇しなくていい。優しい世界だ。
「おはよう」
もう百合子の姿は見えない。
かつて百合子と呼ばれるのを嫌がって、俺がふざけてよんだリリィという名前を気に入った少女は、俺の前からとっくに消えてしまって、もういない。最後に俺の前にいたリリィは俺のことを、殺したいほど嫌いだったのだろう。それでも、俺を殺さなかった優しい、優しい少女だ。
きっとここにいる少女たちの中にも、俺のしるリリィはいないし、ここにいる少女たちが知っている性悪女で
ある冬の日教室の真ん中で
生首だけが白いユリに囲まれた状態で
死んだクラスメイトの灰村百合子を、俺は、知らない。
知らないからこそ、俺はそれを、知っていけばいい。知るためにここに来たのだから。ここにいるであろう人殺しを見つけて、あの首だけの死体に着せることのできなかった約束のドレスを、リリィに着せる。
俺はそのためにここにいるのだから。
「おはよう」
教室は、春の重たい空気に満ちている。俺があけた扉から入ってくる冷たさがそこに混ざって、昨日までの教室よりも息がしやすい気がした。
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