第29話「浅井長政と三姉妹」
リビングで兄が書いた本を読んでいると、茶々が息を弾ませ話しかけてくる。
「
「ん、なにを?」
「ゴーが受験する高校を決めたんです!」
「おっ、行きたい学校が見つかったのか」
受験勉強はしていたが、どこの学校にいくかは決まっていなかったのだ。
「友達と同じ学校にいくって言ってました!」
妹が進路を決めてくれたこと、友達もいることが、姉として保護者として嬉しいのだろう。
嬉しいのは僕も同じだ。
友達とはきっと、ネット友達の竜子のことだろう。
「今日は赤飯にしましょうか!」
「はは、それ絶対怒られるよ」
そんなことされたら、江はすねて部屋に戻ってしまうだろう。もしかすると、やっぱ高校いかない、と言い出しかねない。
「入学ってなんか種類いるんだっけ?」
「入学に関する書類と住民票くらいですかね」
父親が不在であることが気になったのだ。
お金は振り込まれてるし、いざとなれば自分がお金を出してもいい。しかし書類のサインは、実の父親のものが欲しいだろう。
「入学のときには、兄が帰ってくるといいんだけど」
「帰ってこなかったら、武人さんにサインしてもらいますかね」
茶々はふふっと笑う。
「同じ名字だけど、住民票でバレるな」
「あ、そうですね。なら、ゴーを養子縁組しちゃいます?」
「はは。子供にしちゃえば、本当に保護者だな」
考えたくはないが、このまま兄と連絡が取れなければ、正式に兄の代理人とならなければならないだろう。
「そういえば知ってます? 名字の意味」
「名字?
「え、ほんとに知らないんですか……?」
冗談で聞いたつもりだったのですが、という顔をしている。
「ごめん……。変な名字だとは思ってたけど」
「そうですね……。読みも難しいですし、珍しい名字ですから……。意味は文字の通りなんです」
「文字の通り?」
そう言われてもピンと来ない。30年この名字を使っているが、この文字から意味を読み取ったことはなかった。
「天目を生きる、です。主家である武田が“
「え? そんなに深い意味だったのか……」
これまで姪っ子たちに武田についていろいろ話を聞いてきた。
武田家は日本最強と謳われたが、信玄が病死し、勝頼が後を継いだあと、信長に長篠の戦いで敗れ、弱体化していってしまうのだ。
「
滅亡。
勝頼は源氏伝来の鎧である
「あれ、待てよ。小山田ってどこかで聞いたような……」
「母の旧姓です……」
「あっ」
今までなぜ気づかなかったのだろう。
祥子さんと駆け落ち同然で家を出て行った兄を、両親はひどく非難した。自分もやむなしと考えていたが、考えてみれば、勘当するほどではないはず。
旧家で歴史に縛られるからこそ、祥子さんとの結婚は許されざる出来事だったのだ。
「小山田は武田にとって敵なのです。生天目家は武田家臣の生き残りとして、外と関わりを持つことなく、身内での結婚を繰り返し、これまで存在してきました。しかし父は禁を破り、敵の娘と逃げてしまったんです」
なんて時代錯誤な話なのだろう。
「ってまさか、兄が帰ってこないのは」
「決死の思いですべてを捨て、母と一緒になったのに、その母を失い……絶望したのだと思います」
「いや、そうなのかもしれないけど……」
兄が絶望する気持ちは分かる。自分も旧家をどれだけ恨んだだろうか。
でも、ここには娘三人がいるではないか。どうして現実から目を背け、仕事に逃げられるのか。
「いいんです。父がいなくても、私たちはなんとかやっていけてますから」
娘にそんなことを言わせるとは、なんと哀しいことか。
「もしかすると父は、運命に立ち向かうため、私たちに浅井三姉妹の名をつけたのかもしれません」
「え?」
「浅井家はもともと北近江の守護・
「ああ、三姉妹の母だな」
長政は臣従をよしとせず、父に逆らい、浅井家を独立させたのだ。そして新進気鋭の織田と手を組み、天下統一に向けて邁進する。
「けれど、結果的には信長を裏切ることになります。信長が朝倉と対立し、浅井は織田につくか、朝倉につくか決めねばなりませんでした。久政が縁の深い朝倉に味方すべきだと強く主張したため、浅井は朝倉についたといいます」
「父の意見を受け入れたのか……」
「理由は分かっていません。明かなのは結果だけで、信長に敗れ、浅井家は滅亡します」
歴史は限られた史料から推測しなければならない。長政が父を拒否できなかった事情があったのではないかと、僕は思ってしまう。
「これで浅井は亡くなりますが、娘たちはその後も歴史の舞台で動き回ります。茶々は秀吉、初は京極
「江は三回も結婚しているのか」
織田、豊臣、徳川の御三家との結婚とはすごいものである。しかし、政略結婚さえられた本人は、とても大変だっただろう。
「最終的には茶々が豊臣、江が徳川を代表することになり、初は間を取り持つ役目を担います」
「どちらに転んでも、一族が残るわけか」
「はい。言い換えれば、どちらに転んでも一人がいなくなります」
豊臣が負け、茶々は自害することになる。
彼女らは浅井長政とお市の間に生まれたことで、天下の行方を左右する立場にあり続けたのである。
「父は運命に逆らって欲しくて、あえてこの名をつけたんだと思います。旧家の宿命から逃れられるように……」
「そういうことか」
三姉妹は不幸な運命を持っていたが、江は将軍・秀忠の母になり、女性最高位と言える身分についている。これは人生を切り開いたとも言えるだろう。
「……でも、三姉妹じゃなかった場合どうするんだ、名前?」
生まれるのは女だと決まっているわけではないのだ。
「ふふ、そのときは
「井頼?」
「長政の隠し子と言われる、謎の多い人物で、大坂の陣で豊臣方として参加して討ち死にしたとされています」
「へえ。なんかロマンあるな」
「長政の嫡男・
運命に抗う名、か。
娘たちの幸せを願い、浅井三姉妹の名をつけた兄は今ごろ何をしているのだろう。そして、僕に何をさせたいのだろうか。
※1 初と京極高次の間に子はなかった。側室の子・
※2 茶々と秀吉の子・秀頼は、江と秀忠の子・千姫と結婚することになる。江と秀忠の子には、現在の天皇の先祖に当たる勝姫がいる。
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