瑠璃の真理

ギア

瑠璃の真理

 マンションの階段を駆け下りた。部屋にいたくなかった。あんな父さんと2人でいるにはマンションの部屋は狭すぎた。

 母さんがいた頃は良かった。父さんも私もよくしゃべった。でも今はダメだ。慣れない家事をする父さんは静か過ぎる。母さんのことを考えてるんだ。きっとそうだ。今はいない母さんと自分を比べてるんだ。分かってる。

 でもそれをなんで言ってくれないんだろう。溜め込んで、黙り込んで、周囲まで不安にさせてる。

 やっぱりダメだ。今はダメだ。私は足が痛くなるほどにマンションの階段を何段も一気に飛ばして駆け下りていった。


 まだ肌寒い4月の夜だけど、ご丁寧に暖房が入ってるマンション内で1階に着く頃には、私は汗だくになっていた。7階から一気に駆け下りてきたのだから当然だ。目元を伝う汗をTシャツの袖で拭った。目を上げるとオートロックのガラス戸が見える。その向こうは郵便の受けの並ぶ玄関ホールだ。

 オートロックの入り口を押し開けて、玄関ホールへと向かった。小学生の私にとって、オートロックの外へ出るときは、いつも安全地帯から一歩踏み出すような気持ちになった。でも今日は、いつもと違ってそんな心細さと不安を意識せずに済んだ。

 それは、まだ頭の中に渦巻いてる自分でも説明がつかない複雑な気持ちのせいでもあったし、外気に近い玄関ホールの少しひやりとした空気が私の火照った顔に心地よかったからでもあったし、そして、単に1人じゃなかったからでもあった。


 玄関ホールにはこんな時間なのに私より小さな女の子がいた。ここのマンションでは見かけない子だった。白いワンピースと黄色い靴。年のころは3歳か4歳。

 幼稚園に上がる前だけど、もうしゃべることも走ることも出来る年頃。もしかしたら、親が一番手を焼く年頃なのかもしれない。その頃の私の写真を前に、私をひざに乗せた母さんは、その頃いかにして私に困らされたかを嬉しそうによく話してくれた。目の前の女の子は、当時の私に服装まで似ている気がした。

 玄関ホールに向かい合わせに並べられた1人用ソファに沈み込むように座り込んでいる女の子に、私は不安を与えないようにと、少し距離をとったまま話しかけてみた。

「こんばんは」

 不機嫌そうだった女の子は、私の声に顔を上げた。私を見た瞬間、驚いたように目を見開いた。でも、こんばんは、という可愛らしい挨拶がきちんと返ってきた。

「偉いね。ちゃんと挨拶できるんだ。私の名前は、真里まりって言うの。あなたのお名前は?」

 この言葉にまた彼女は驚いた様子を見せた。

「ほんと?」

「嘘じゃないよ。私の名前は真里って言うの」

「あたしの名前はルリです」

 綺麗な響きの名前だな、と思った。妹が出来たら、そんな名前がいいかもしれない。

「いい名前だね」

 そうやって、私は思ったことを素直に声に出してみた。

 言ったあとに、久しぶりだな、と気づいた。私、最近はみんなに気を遣ってしゃべっていたんだ。自分のことなのに知らなかった。

「ありがとうございます」

 ルリと名乗った少女が、ぺこりと頭をさげる。とても可愛い。

「ちゃんとお礼が言えるんだ。偉いね」

「おねえちゃんがそうしろって」

「おねえちゃんがいるんだ」

「うん」

 ちょっと視線を落とす。

 ああ。

 嫌なことを思い出したときの母さんみたいだ。

 私と母さんは本当に似ているな、って父さんが言ってた癖。

「もしかして喧嘩しちゃったの? おねえちゃんと」

 私はしゃがみこんで、ルリと名乗った女の子と同じ目線の高さで問いかけた。

「どうしてわかったの?」

 びっくりしているルリちゃんに得意げに人差し指を上げてみた。

「分かるよ。ルリちゃんよりお姉さんだからね」

 すっかり打ち解けた私は腰を上げると、あらためてルリちゃんと向かい合うソファに腰を下ろした。革張りのソファは短パンから出した素足には少し冷たかった。

「もっと分かるよ。ルリちゃんはお姉ちゃんと仲直りしたいんでしょ?」

「すごい、すごい」

 さっきまでの不機嫌そうな様子はどこへやら。彼女はすっかり笑顔になってしまった。

「どうしてわかるの?」

 理由は言えなかった。話しても分からないのはもちろんだけど、やっぱり口には出せなかった。視線を落とす癖。それは嫌なことを思い出したときで、同時に自分が悪いと分かっているとき。

 私と母さんの似ているところ。

 代わりに、私から質問してみた。

「お姉ちゃんのこと、嫌いなの?」

「ううん」

「きっとお姉ちゃんもルリちゃんと仲直りしたがってると思うな」

 私のそんな喋り方を見ていたルリちゃんが、クスクスと笑いだした。

「どうしたの?」

「だって、おねえちゃんそっくりなんだもん」

「私が?」

「うん。あのね、なまえもそっくりだよ。あ、でもおねえちゃんのほうがずっとせがたかいけど、でもそっくりだよ」

 そうなんだ。本当なのかな。でも、もし本当だとしたらとても嬉しいことだ。まだ少し話をしただけの仲だけど、きっとこの子のお姉さんは、ちゃんと「お姉ちゃん」しているのが分かるから。

「じゃあ」

 次の言葉を押し出すのには少し間が必要だった。

「私もちゃんとお姉さんになれるかな?」

「うん、きっとなれるよ」

 ルリちゃんはそう言うと、笑顔を浮かべて何度も頷いた。私もつられて笑顔を浮かべてしまった。固かった顔と気持ちがほぐれたような心地よさがあった。

 あ、そっか。

 私、最近、笑ってなかったのか。


 ルリちゃんは椅子から床にぴょんと飛び降りた。

「かえる」

「おねえちゃんによろしくね」

「うん」

「またね」

 何とはなしにかけたその最後の言葉に、ルリちゃんは一瞬きょとんとすると、嬉しそうにクスクスと笑って言った。

「うん、またね」

 そして、軽快な足取りでオートロックのドアの前へと走っていく。ルリちゃんは各部屋ごとに暗証番号が設定されている入り口のパネルの前で精一杯の背伸びをして、慣れた様子でボタンを押していた。

 陰になって良く見えなかったけど、うちと同じ階の部屋番号を押していたように見えた。もし年の近い女の子が近くにいたら知っているはずだけど、最近来たのかな。あ、そういえば名字を聞くのを忘れてしまった。

 父さんに調べてもらおう。

 うん。そうしよう。

 父さんと話そう。

 私はまた前を向いて、さっきまでルリちゃんが座っていた椅子を見た。そして、彼女のおねえちゃんのことを考えた。

 少し眠たくなってきた。揺れてぼやけ始めた視界と裏腹に、心のもやもやが晴れたことに私は気づいた。どうすればいいのか、何となく分かってきた。


「真里! 出かけるぞ!」


 私は肩を揺さぶられた。

 勢いよく弾んだその声は、父さんだった。

 ここは?

 玄関ホールだ。

 私はソファで眠ってしまっていたらしい。眠気を振り払うようにまばたきする私を待ちきれない様子で、父さんは先にマンションの入り口へと急いでいた。

「生まれるぞ! 病院から連絡があった!」

 私は急いで後を追った。

「本当?」

「本当だ! 母さんに会いに行くぞ!」

 駐車場にある車に乗り込む。助手席に座り込んだ私のシートベルトをつけてくれる父さんは、嬉しそうだったけど、まだどこか不安の色を残していた。


 車が走り出した。

 そして、しばらく私たちは無言だった。


 交差点を3つほど過ぎて、初めて赤信号につかまったところで、父さんがぽつりと呟いた。

「真里もついにお姉ちゃんだな」

 そして一気に続けた。

「あのな。父さんと母さん、もしかしたらな、赤ちゃんのほうばかり可愛がるかも、いや、そう見えるかもしれないけど、そんなことないからな。真理のことはもちろん大切だ。だけど、いや、真理もお姉ちゃんになるんだし大丈夫だよな。いや、押し付けちゃいけないな。うん」

 あれ。

 なんだ。

 これが父さんの不安だったんだ。

「名前なんだけど、まだ言ってなかったな」

 それは私が聞こうとしなかったからだ。父さんが言おうとするたびに、部屋に戻ってしまって。

 そして父さんも、生まれてくる妹の話をするのを止めてしまった。

 私と話すのも止めてしまった。

「お前が真里だろ? だから瑠璃るりにしようと思うんだ」

 一瞬、真っ白になる。

 ゆっくりと染み込む。

 その少しの間を空けてから、私は冷たく返した。

「父さん、それ、理由になってないよ」

「そうか」

 小さな声で呟いた父さんの様子に、私は、でもね、と明るく続けた。

「とってもいい名前だと思うよ」


 信号が青に変わった。


「そうか!」

 父さんが思い切りアクセルを踏み込む。

 車は勢い良く走り出し、私は柔らかい背もたれにキュッと押し付けられた。

「父さん」

「なんだ?」

「私、妹には、ちゃんと挨拶できる子になってもらうんだ」

 最後に、またね、と言ってくれたルリちゃんのことを思い出しながら、私はそう宣言したのだった。

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