107,784円の命

λμ

プロローグ

 十万と七七八四円。税込み。

 つまり、元の値段は九万九千八百円。


「それがお前の値段なんだと」


 揺れる蛍光灯の下で、帽子を目深に被った男が、苦笑していた。


「例えば、俺がお前の腎臓を売ろうとするだろ?」

「腎臓」

「そうだ」

 

 帽子の男は指で自分の胸を指さし、淡々と説明し始めた。

 

「お前の鳩尾みぞおちから、ちょうど五センチくらい外側だな。骨で言えば、表側にあって指でさわれる一番下の肋骨のあたり。そこの背中側にある臓器だ」

「臓器」

「そうだ。左右にひとつづつあって、ひとつ取っても死ななくて、糖尿病だらけの現代では最も需要のある臓器だ。需要があるから高値もつく。だいたい……一個で二千万円くらいになるな」

「二千万円」


「そうだよな?」と帽子の男が肩越しに背後を見やった。顔に傷のある男と、長い爪楊枝を咥えた男が、顔を見合わせ、ほとんど同時に小さく頷き返す。

 帽子の男はスーツの内ポケットから煙草を取り出し口に挟んだ。


「ただまぁ、臓器の売買は中々難しくてな。売り手を見つけるのに金がかかって、お前さんから取り出すのに金がかかって、移植するのにも金がかかるんだよ」

「金が、かかる」

「そうだ。まぁ、お前さんはまだ若いから、もう少しくらい値段を乗せられるかもしれない。だが、お前さんが受け取れる金となると……まぁ十万くらいになるんだよ」

「そんなに、安いんですか」

「いや、いや、いや」

 

 帽子の男はオイルライターの蓋を開け、火を灯した。手の平で火を隠して、咥えた煙草の先に移していく。吸い込み、ぷ、と煙を短く吐き出す。

 ぷ、ぷ、と何度か煙を吐いては吸い込んで、ライターを素早く振った。硬質な金属音を立てて蓋が閉まった。ぐぅ、と煙を吸い込むと、火玉が色鮮やかに灯った。

 帽子の男は器用にも唇の動きだけで煙草を端に移動させ、煙を吐いた。

 

「全然、安くはないんだよ。これでも、かなり高く見積もってるんだ。ほら、お前さんは日本人だし、若いし、健康だからな。ただ、代わりに経費……手数料もかかるんだな」

「手数料、ですか」

「そうなんだ。さっき言った二千万円ってのは消費者が払う金額でな? そこから医者への給料に口止め料、場所を貸してくれる奴への給料と口止め料、手配師の給料に口止め料、保険として警察への口止め料も用意しておいて、そこから、ようやく俺たちの給料になるんだよ」

「口止め料? がいっぱいですね」


 帽子の男は煙を吐きながらしゃがみ込んだ。口元が歪んでいる。おそらく、笑っているのだ。


「そうなんだよ。いっぱい、口止め料がいるんだよ」

「……それじゃあ、さっきの、九万九千八百円って言うのは?」

「そりゃ、お前さん。お前さんが受け取れる、お前さんの命の値段だよ」


 言われた夕凪浩一ゆうなぎこういちは、想像の及ばない言葉に、得体の知れない可笑しさを感じた。

 夕凪の想像できる金額はお年玉でもらえる三千円が限界で、叔父さんと、叔母さんと、それにお婆ちゃんの三人で、父と母は二人でひとつのポチ袋だから、一万と二千円が理解できる最高額だった。


「それって、高いんですか? 安いんですか?」


 だから、夕凪は素直に尋ねた。

 帽子の男は、笑って答えた。


「いま、悩んでるところなんだよ」

「どっちか、分からない?」

「正しく言うなら、どっちにすべきか分からない、だな」


 帽子の男は煙草を指でつまんで、夕凪に咥えさせた。


「どっちにする?」


 真似して深く吸い込んだ夕凪は、激しくむせた。

 口元から零れた煙草が、ひび割れた緑色のタイルの上で弾んで、火の粉を散らす。


「よく分かんないけど、長生きしたい」

「だよな。分かるよ」

「できる?」

「俺は、それもいいかもしれないと思い始めてる」

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