第21話 祇園小唄

 チリン、と鈴の音が鳴って、小さな店内に響いていく。

 今日の店内は静かだ。今日も、と言うべきか。

 春のシーズンが終わり、夏に差し掛かると、この店は静かな喫茶店に戻る。常連客もこの時期はゆったりしたペースの来店になり、毎日顔を覗かせるのは、近くで働くお馴染みさんだけになるのだ。

 店の片隅で、少し活気を取り戻した頭頂部を撫でながら、アイスコーヒーを飲んでいるサラリーマンが電話の呼び出しに立ち上がり、お代を置いて出て行った。

 クーラーの効いた店内から眩しい太陽を眺めていると、外に出る気も失せてくる。

 カウンターに隠れる様に、小鳥が内側で何やらしているのをマスターがバースツールの脇に立って上から見ている。

 気配に気が付いて、小鳥が彼を見上げる。

「…」

「いや、別にいいねんで。俺はかまへん」

 マスターは頬杖をついて言った。

 口いっぱいにアイスクリームを頬張って、小鳥が立ち上がる。

「お客さんが差し入れに下さったので、溶けないうちにって思って…」

「ええんやで」

 マスターは言いながら、振り返ってドアの外を見た。

「ちょっと出てくるわ。留守番頼むわな」

「はい」

 マスターは全然似合わないデニム地のエプロンをはずして小鳥に渡すと、そのままドアを開けて出て行った。

 チリン、と鈴が鳴る。

 もっとゆっくり食べたらよかった、と小鳥は口元をぬぐいながら考える。

 しかし。

 小鳥はマスターの出て行ったドアを見つめる。

 この頃、なんだか変だ。

 何が、というわけではないのだが、マスターの様子が上の空、という感じがするのだ。何を言っても、何をやっていても熱が伝わってこない。本当にそこにいるのかも怪しくなってくる。

 そう言えば。

 小鳥はカウンターの裏に回って、マスターが落書きしていた店のノートを開いてみた。念のため、マスターが帰って来ても何をしているかわからないようにかがんでいる。

「なに、これ」

 几帳面な字で書かれていたのは、詩のようだった。

 月はおぼろに東山

 霞む夜ごとのかがり火に

 夢もいざよう紅桜

 マスターの考えた詩ではないのはわかる。

「祇園小唄やな」

「なんですか、それ」

 またしても頭上からの声に、小鳥は質問で返す。

「あ」

 チリン、と鈴は鳴らなかったはずだ。

 立ち上がると、目の前にいたのは恭一だった。

「祇園小唄っていうのは、昭和の初めに出た歌や。映画の主題歌か何かじゃなかったかな。俺も詳しくは知らんねんけどな。京都の舞妓さんやら京都の風物詩を情緒豊かに歌っている歌詞やったはずやわ」

「へえ」

 恭一はカウンター席に座って、小鳥の手からノートを受け取る。

「濃いの、ちょうだい」

「はい」

 小鳥はエスプレッソマシンに電源を入れて、粉々の豆をセットする。

「なんで、その舞妓さんの歌がマスターのノートに?」

「うーん。推測するに、アヤメちゃんが舞妓やってたからか?他にあいつの関係者で祇園らしい人はおらんしな」

「え?アヤメさん、古美術商で働いているんじゃ?」

 小鳥はうなりを上げるエスプレッソマシーンから恭一を見た。

「まあ、そうやねんけどな。知らんかった?アヤメちゃん、芸妓引退して大検取って、今大学生やねん。あ、もう卒業すんのかな?」

 恭一は小鳥の淹れたエスプレッソをずずっとすすって、お代をカウンターに置いた。

「んじゃ、またね」

 そう言って、今度は鈴をちゃんと鳴らして出て行った。

 恭一は何しに来たのか。

 小鳥はデミタスカップに残ったエスプレッソの濃い輪っかの跡を洗い流して、ほう、と息をついた。

「アヤメさんの事で悩んでるのかな」

 小鳥はマスターがどこへ行ったのか気になりつつ、自分の将来のことを考えてみた。

 こうして兄のお店で世話になって、結婚もできず、ズルズルと歳を取る。

 それでいいのか。

 小鳥は外へ出て見た。

 熱い風が肌を撫でる。

 眩しい太陽の向こうに京都タワーが見える。その背後には京都駅がそびえ立つ。

「君、何してんねん?暑いから、はよ中に入りよし」

 マスターが生成り色のエコバッグ片手に後ろに立っていた。

「お兄ちゃん、どこ行ってたの」

 迷子の少女のように小鳥が言うものだから、彼は頭をかいて、エコバッグから果物の缶詰と練乳を出して見せる。

「かき氷、作ろうや。白玉は冷凍してあるし、あんこもあるし、練乳ぶっかけて、白熊ちゃんにしよ」

 小鳥が京都に来た頃、京都の暑さに参っていると、彼はよく白熊ちゃんと言ってかき氷に練乳とフルーツたっぷり乗せたかき氷を作ってくれた。それを思い出して、彼女はぱっと明るい笑顔になった。

「お兄ちゃんは、どこにも行かないよね?」

「え?」

 マスターは戸惑って、小鳥のあどけない顔を見つめる。

「私、ここが大好き。だから、失くしたくないんだよ」

 いつもこんな素直なことは言わない彼女が言った言葉に、マスターは安心させるように微笑み、しっかりと頷いた。

「言ったやろ。君の事は俺が守ったるって」

「だって、お兄ちゃんがアヤメさんと結婚したら、出て行かないといけないと思って」

「おいおい」

 マスターは苦笑して、彼女を促して店の中へ戻った。

 小気味のいい鈴の音が小さな店内に響き渡った。













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