第89話 男は狼なのよ


「最近じゃ、人手不足のあまり魔物まで雇うようになったのか?」


 突然現れた異形の存在を前に小さく肩を竦めて尋ねると、人狼の口元が大きく歪む。

 それは無理に人として振る舞おうとするかのような醜い笑みだった。


「コレは、尊キ御方かラ賜っタ力ダ」


 二足歩行の巨狼。その瞳には獣にはあり得ない喜悦と敵意が混在していた。


「なるほど。たしかに、言っていた通り愉快な同僚がいるみたいだな」


 短く息を吐き出しながら、俺は太刀を八双に構える。


 歪なまでに変形した上半身は、その毛皮の下にどれほどの筋肉が潜んでいるかを物語っていた。

 双方の指先からは湾曲した鈎爪が伸びる。さながら短剣が並んでいるようでさえあり、事実そのように閃くのだろう。


「愚弄ハ許さン」


 衿首あたりがチリつく感覚。

 人狼はこちらへ向ける瞳に憎悪の光を宿らせていた。


 一方、わずかに残った味方の人間からは、人外のモノへ変異を遂げたことに対する畏怖の視線が向けられている。

 だが、人狼となった男は昂揚感にでも包まれているのか、その視線に気付いた様子はない。


 そして、俺自身も狂四郎を構えながらではあるが、目の前で起きた出来事に少なからぬ驚愕を覚えていた。


 知性のある魔物や魔族を知ってはいるが、このようにを俺は知らない。

 不死者アンデッドであれば、死んだ人間の死体や魂がそれぞれの方向で魔物化することはあるし、魔法によって人間を装うことを可能とする魔族とている。

 だが、それ以外でこのように人間が任意で変異を可能とする例など聞いたことがない。


 背後に潜む存在が次第に形を為してくるのがわかる。


「ずいぶんと大きく様変わりしたものだ。だが、ここにきてただの人狼ワーウルフということはあるまいな」


 もしその程度であるなら興醒めもいいところだ。


「当然ダ。《魔獣化》ノ真価ヲ焼き付けテ――――死んでいケ!」


 挑むような言葉と同時に人狼の下半身が撓み、姿


 咄嗟に身体を捻って半身を作ると、身体のすぐそばを暴風が通り過ぎる。

 その際、硬質物同士がぶつかり合う甲高い擦過音を伴う。


 太刀を握る手に残る若干の痺れ。

 正中線を保った太刀の粘りで受けていなければ、弾き飛ばされていたかもしれない衝撃だった。


 ――――ギチギチ。


 手元で太刀の鍔が不快げに鳴る。

 この程度で折れることのない狂四郎から「ちゃんと避けろ」との抗議。

 どの程度のものか様子見をしている段階だというのに、我が相棒には容赦というものが存在しない。


「コレを受けルか……」


 歪んだ声がしたと思えば、ふたたび背後で床材が破壊される音。

 高速で移動する人狼の力に床の木材が耐えきれないのだ。


 背後からの右爪の薙ぎ払いを横に跳んで回避。

 身体ごと反転しながら太刀を旋回させると、人狼の反対側の爪が翻って刃を迎撃。

 虚空に火花を散らす。


 刃の接触を経て、両者の間合いが開く。


「今ので指くらいは持っていけると思ったが」


「フハハ、遅イくらイだナ。そノ程度カ?」


 俺の言葉を受け、人狼は獣の形となった口を器用に歪めて嗤う。


「では、速めるとしよう」


 挑発にしてはつまらない。

 短く告げて俺は一気に間合いを詰める。


 強く踏み込んでからの斬撃は、人狼がこちらの急な速度変化を警戒して咄嗟に身体を引いたことで左腕を掠めるだけに終わる。

 灰色の体毛は刃を弾き返しこそしなかったが、浅く入った一撃は靭性を有した毛皮によって軌跡を強引に変えられれしまい、まともな傷を負わせることさえできない。


 返す刀で鼻先を狙うが、それを追う方へ下がりながら上半身を屈めて回避。


「……今ノは危なカっタ」


 無理矢理言葉を喋っているにも関わらず、鼻につく声の響きだけはしっかりと伝わってくる。

 本当にそう思っているかも怪しいものだ。


 人狼の視線の先では灰色の毛が赤く染まっていたが、すぐにその血の広がりも止まってしまう。

 魔獣化によって肉体の修復能力まで有しているらしい。


「見かけ倒しじゃなくてこちらも楽しい限りだ」


 俺が思っている以上に、向こうはこちらの動きが追えている。

 先ほどから入ったと思う攻撃が不発に終わっているのがその証左だ。

 やはり、魔獣化とやらによって、身体能力のみならず動体視力など全般が向上しているのだ。


 そして、この人狼を相手にするに中で、問題となるのはそれだけに留まらない。

 相手がいかに高速で動き回ろうが、剣を一振りしか持たないのであればそこを凌ぎ切ることで勝機は見い出せる。


 しかし、目の前にいる人狼は違う。

 両手に備わる爪が、二振りの刀剣に引けをとらないだけの役割を果たしていた。


 これでは剣を相手にする戦いと変わらない。

 いや、自在に動く肉体そのものと対峙している分、より柔軟な動きを見せてくる。

 一見して間合いこそ短く感じられるが、それを補って余りあるだけの膂力と速度を有しているのだ。


 これでは先ほど脇差を投擲したことが悔やまれる。

 なにしろ、相手には両腕とさらにもうひとつ、実質三つの攻撃手段がある。

 対してこちらは太刀が一本。


 ……


「剥製にちょうど良さそうだ」


 湧き上がる昂揚感に歪む口唇。

 それを見た人狼は一瞬顔を顰めるが、すぐに虚勢に過ぎないと判断。鉤爪をこちらへ誇示するように両腕を掲げる。


「死ヌ間際ニモそう言っテいらレルか楽しミダな」


 獣の口元が小さく弧を描いたと思った瞬間、身体全体が颶風ぐふうとなって前進。

 真正面から襲いかかる突撃だった。


 鋭い爪が唸りを上げて迫る中、上下から挟み込むような一撃を後方へ引いて一陣目を回避。

 だが、すぐに腕の旋回によって左右から――――いや、上下左右の連撃となってこちらに反撃を許さない。

 高速で繰り出される連撃を太刀を使って弾いていくが、その途中で不意に人狼の上半身が大きく動く。

 

 俺の視線の先で狼の口が人間とは比較にならぬほど大きく開き、鋭い牙の並ぶ肉食獣の口腔が顔を覗かせる。

 これはさすがに喰らえば面倒なことになる。


「ガゥアァッ!!」


 獣の咆吼と共に、俺の喉元を狙って牙の群れが強襲。


 上半身を大きく動かして噛みつきを回避しながら、真下から股間を目がけて前蹴りと繰り出すが獣の反射神経で人狼は後退。一撃が空を切る。


 再び訪れた静寂の中、隙を窺うように睨み合う両者。


「まるで獣だな」


 それは俺が過去に幾度となく言われた言葉だった。

 だが、


「恐ロシいカ」


 問いには答えることなく、短く鼻を鳴らして俺は太刀を静かに鞘へ収める。

 しばらく相手をして、コイツの底は見えた。


 ――――チリン。


 鍔鳴りの音が小さく澄んだ響きを奏でる。

 自分の出番がなくなった狂四郎が、俺の行動の意味を理解して小さく笑ったのだ。


「……ドウいウつモリダ?」


「どうもこうも――――畜生の相手に剣は不要だろう?」


 俺の軽い挑発に、人狼の怒気が大きく膨れ上がる。

 激情に伴い逆立つ体毛は内心に噴き上がる赫怒を表していた。


 対する俺の内側にあった昂揚感だが、今はすっかり霧散していた。

 軽く両腕を掲げるのみで拳は握らず、腕力かいなぢからは込めない。

 獣を相手に殺気は不要。


「キサマ……!」


「御託はいい。かかってこい」


 それが戦いの流れの変わった瞬間だった。

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