第27話 ユーカリでシャープになったその先に


 恵から風間へ連絡があってから、数日後。

 風間は、ついにあの香水ブランドから流出したとされる個人情報の元データを手にしていた。これを手に入れるために名簿業者にかなりな金を払うことになったが、そんなことはどうでもよかった。


 元データを自分のノートパソコンに落とす。元データに入っていた顧客情報は数千人分。あの香水ブランドに会員登録していた人たちのデータだった。

 あの香水は会員限定に販売されたものだ。この会員登録に載る人間のうち、一部の人間があの香水を購入したものと考えられた。


 元データには、会員の名前、住所、電話番号、購入履歴、クレジットカード情報がエクセルファイルの形で載っている。風間は、香奈の周りにいたと考えられる人間の名前をできるかぎりリストアップした。ママ友、亜里沙が通っていた保育園・小学校の保護者や関係者、会社の同期、同じ部署や関連部署の人間……など。風間自身が香奈の行動をすべて把握していたわけではないが、同じ会社に勤めていたのだから人間関係をある程度把握するのはそれほど難しくはなかった。


 その二つのデータをぶつけて、付き合わせる。しかし、重なり合うものは出てこなかった。


(やっぱり……無関係、だったのか……?)


 失望を感じながらも、念のために元データを自分の目で一つ一つ確認してみる。千人分ほど目を通したときだった。


「あれ……? これって……」


 無機質にデータが並ぶエクセル表。その名前が書かれた欄を見ながらスクロールしていた時だった。その中にひとつ、記憶にひっかかる名前を見つける。


 ニカイドウ アヤカ


 その女性は12月の上旬。あの香水を購入していると履歴にはあった。


「これ、たしか。前に秘書課にいた子だよな……」


 名前に覚えがあった。でも、ふと考える。


(なんで僕、この子の名前を知っているんだ……)


 霧島工務店は本社勤務の人間だけで数千人いる。そのすべての人間の名前を憶えているはずなどなく、憶えているのは自分がいた部署と、仕事で関連した人の名くらいなものだ。

 秘書課に、仕事で関わったことはほとんどないし、その程度の関わりで下の名前まで覚えているはずもない。自慢じゃないが、人の名前を覚えることはさほど得意な方ではない。


(……まてよ)


 風間は思い出した。なぜ、その子の名前を知っているのかを。

 彼女と付き合っていた人間が、彼女のことを下の名前で呼んでいたからだ。

 一つの名前が、風間の脳裏に浮かぶ。

 二階堂さんが当時、付き合っていた男の名前。


(……え。ちょっと待てよ。嘘だろ……)


 その名前に行き着いて、風間の心臓が嫌な鼓動を刻み始める。

 胸を強い力で押さえ込まれたように、息が苦しい。

 あの香水はユニセックスなものだ。女性が使っていてもおかしくないが、男性でも使えるものだ。事件があったのはクリスマスの直前。女性がクリスマスプレゼントに香水を付き合ってる男性に贈っていたとしても何らおかしくはない。


(そんな……まさか……。そ、そうだ……)


 風間は勢いよく立ち上がると、自室に戻って机の引き出しの中を探し、一冊のノートを取り出した。

 それは香奈の事件があってから、捜査関係者や周りの人間から聞いたものを記録したもの。

 風間はパラパラとそのノートをめくる。


(あった……これだ)


 あの事件の後、自分も含めて香奈の周りにいた人間は全員取り調べを受けている。その人物も当然、取り調べの対象にはなっていた。しかし、関西に出張していたアリバイが認められ、早々に捜査からはずされている。


(やっぱり、アリバイはある……でも……)


 風間はすぐにダイニングテーブルのノートパソコンのところに戻ると、頭に浮かんだとある香水を探して、ネットで注文した。

 何度も嗅いだことのある、シトラスの香り。

 初めて会ったときから、あいつはあの香りを漂わせていた。ブランド名も知っている。以前、本人に聞いたことがあるから。






 数日後、その香水は風間の元に届いた。

 亜里沙が寝た、夜中。

 リビングのソファに座って、風間はその香水の包みを開けてみる。蓋を開けて、すぐにわかった。この香りだ。あいつが、いつも付けているもの。


 風間は、ローテーブルに置いておいた小さな小瓶を手に取った。ラベルにはユーカリとある。

 それを開けると、つんと湿布のような香りが辺りに漂った。風間が指を鳴らすと香りが大きく膨らむ。目を閉じると、風間はその香りに身をゆだねた。


 頭を明晰にして集中力を高める精油なら、ほかにもローズマリーやレモン、ペパーミントなどいろいろ有名なものはあるのだが、自分にとってはこれが一番相性がよくて頭をすっきりさせてくれる気がしていた。


 ニーナの言葉が思い起こされる。


『シロウ。よくお聞き。人は、一度体験したものは忘れることはないんだ。まして、一度そこまで強く印象に残った香りの記憶が消えてしまうなんてことはありえない。ただ、思い出せなくなっているだけなんだ。大丈夫。お前は、覚えているよ』


「大丈夫。ニーナ。香奈。僕は、まだあの香りを覚えてる」


 頭に蘇った感覚を忘れないように、風間は届いたばかりの香水をもって立ち上がるとリビングを出て自室へ向かう。リビングではユーカリの香りが充満しているので、それの影響をうけるといけないからだ。


 そして自室の机の前に座ると、二つの香水の瓶を並べた。一つは恵から預かったあの香水。もう一つは、自分が購入したシトラスの香りの香水。


 その二つを皿の上に垂らして混ぜ合わせると、ムエットの先端を浸す。ムエットとは白く厚手の細長い紙で、試香紙とも呼ばれる。匂いを試すときに使われるものだ。


 机から香る二つの香水の影響から逃れるため、机から離れると窓際へいき、そのムエットを鼻に近づけた。

 悪い予想通り。

 その香りは、風間が覚えていた香奈の手に残ったあの香りと、寸分たがわず同じものだった。


 思わず身体の力が抜けたように風間はその場に座り込む。

 間違いない。あの香りだ。


「香奈……やっと、見つけたよ。あの香りだ……。君は、あの時、あいつに会っていたんだね」


 香奈の手のひらに残っていた香り。あれは、ただ触れただけでついた匂いじゃない。

 香奈の死因は、絞殺。

 香奈は首を絞めようとする、そいつの手を解こうとして強く握ったに違いない。死にたくないと、生きていたいと、必死だったに違いない。だから、ついた匂いだ。そうやって彼女の手のひらに染みついた香りだ。

 それなのに、そいつは香奈の首を絞め続けた。命が消える、そのときまで。


 やっと犯人の手がかりを見つけたというのに、風間は苦しそうに顔を歪めて胸をつかむ。

 なんで?という純粋な疑問が湧き起こる。そして、その冷静な気持ちを遙かに上回って、吹き上がってくる憎しみ。

 あいつに対する激しい怒りと、裏切られたという絶望、それを見抜けなかった悔しさ。それら負の感情が身体の中を暴れ、焼き尽くすようだった。


 力任せに床を殴る。下の階から苦情が来るかもしれないが、そんなこと構っていられなかった。かたく握ったコブシから血が滲みだす。


「っ……なんで、お前なんだよ。なんでお前がっ。お前は、ずっと僕を騙してたのか!? 味方みたいな、友達みたいな顔して、ずっと僕を裏切ってたのか! どういうことなんだよ! 恭介!」


 シトラスの香水。それは、恭介がいつもつけているものだった。


 ――――――――――――――

【ユーカリ・グロブロス】

 樹高50mほどの常緑高木。

 タスマニアなどに自生しています。


 周囲との関係性や環境の中で閉塞感や圧迫感を感じ、否定的な気持ちでがんじがらめになっているときや、精神的に煮詰まってしまったとき、それらを開放・一掃して、積極的で意欲的な気持ちを取り戻す助けとなってくれる精油です。


 また、そのすっきりとした香りは、頭の働きを明晰にして、集中力を促してくれます。


 さらに殺菌作用が強く、ティートリーと共通の特性を多く持つ精油でもあります。殺菌・抗菌、抗ウィルス作用、消炎作用、鎮痛作用に優れているため、花粉症や風邪による鼻水、痰、せき症状、ノドの痛みなどに有効です。また、筋肉痛や打撲痛の痛みを和らげ、治癒を早める効果もあります。

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