第13話 ネロリで心の安定を


 スーツの青年がマンションの最上階の廊下にたたずみ、柵の外へ顔を覗かせて階下を見ていた。ここは8階。

 足下がすくむほどの高さだ。


 彼はここの住人ではない。このマンションとは縁もゆかりもない人間だった。

 1階の入り口はオートロックになっていたが、住人が出入りするときに自分もここに住んでいる人間ですというような顔をして一緒について入れば、オートロックを突破するのは訳もなかった。


 ここを選んだのは、特に深い理由もない。

 ただ、目についたから。それだけだった。

 飛び降りられそうな場所なら、どこでも良かった。


 どれだけの時間、そうやっていただろう。5分くらいだったかもしれないし、1時間だったかもしれない。

 飛び降りなきゃと気持ちは焦るのに、下を見ると身体が硬直してしまって動けない。やっぱりやめようかと迷うものの、いやいや帰ってどうするんだ、これからもあの日々を続けるのか?と自問する。


 何度めかの意を決して彼は目をぎゅっと閉じると、柵に両手をついて乗り越えようと腕に力を入れた。あと少し、身を乗り出すだけで全てが終わる。あと少し。そう思ったとき。


「こっから飛び降りたら、痛そうですよね」


 突然、場違いなほど静かでのんびりとした声をかけられ、青年は驚いて目を開けてしまう。声のした方に視線を向けると、2mくらい離れたところに見知らぬ中年男性が柵にもたれて階下を見ていた。


 青年は少しムッとして廊下にとんと足をつく。

 せっかく決心がついたのに、男に話しかけられたことで機を逸してしまった。それに、勝手に他人のマンションに入ってきて飛び降りようとしていることを咎められた気がしてバツの悪さもあった。


「な、なんですか。あんた」


 ぶっきらぼうに青年は中年男へ言葉を投げた。しかし男は彼の質問には答えず、青年の方に視線を向けて、こんなことを言ってくる。


「迷ってたんでしょ? 貴方、もう小一時間もそこでそうやってますよね」


「……」


 見られていたことへの気まずさと、邪魔されたことへの苛立ちで青年は握った手を震わせて声を荒げた。


「仕方ないんだ! だって……だって、もう、こうするしか!」


「スーツを着てるということは、会社勤めですか。そして、この昼間にこんなところにいるところをみると、営業か何かで外に出て会社に戻らなければいけないけど戻れない……そんな風に見えたんですが」


「……!」


 大体当たっていた。青年は悔しそうに唇を噛む。


「……そうですよ。そんなところです。……俺の会社は、典型的なブラックで。深夜までの残業、休日出勤ばかりで休みなんかほとんどないのに、給料安くて。そのうえパワハラも酷いし。俺、昔から要領悪くて……成績も悪いし、ノルマも果たせないから……。それなのに、せっかく家に帰ってもまた次の日出社することを思うと、嫌で嫌で溜まらなくて眠れなくて……」


「辞めればいいじゃないですか。そんな会社」


 男の無責任ともいえる言葉に、青年は反発する。


「無理ですよ! あそこで上手くいかないのに……俺、こんなんじゃ、どこにいっても上手くいくはずないし……。何のスキルもないのに、中途で雇ってくれるとこなんて……それに、辞めたら俺が抜けた分、会社が損害を被るから損害賠償を請求するとか言われて」


 初めは大きかった声も、段々尻すぼみになっていく。自分がもっと頑張れれば、もっと有能なら、こんな不甲斐ない思いしないですむのにという自責の念が、このごに及んでも心をいぶす。


 そんなとき。俯いた青年の耳に、パチンという軽い音が響いた。なんだろうと顔をあげた瞬間、ふわりと花のような甘く、それでいてどこか柑橘類のような苦みもある優しい香りが鼻孔をくすぐったような気がした。


「それ、思いっきり労働法違反なうえに、脅迫罪とかそのあたりにも引っかかりそうですけどね……それに」


 男は小さく笑う。


「逃げることも、人生には大事なことですよ」


 なぜか、その言葉はすとんと青年の心に入ってきた。さっきかいだ不思議な甘い香りがまだ鼻の奥に残っているような不思議な感覚。


貴方あんたも、なんかから逃げてるんですか?」


「そうですね……。たとえば、死ぬことからもね。私も貴方あなたと同じように身を投げようかと思ったこともあったけれど、できませんでした。そんな勇気は持てなかった。だって、もし死んでも今の苦しみが消えなかったとしたら。もう死んだあとで後悔しても、後戻りはできないじゃないですか」


 言われてみればそうだ。なんとなく、死ねば全てが楽になれると思い込んでいた。でも、そんな保証があるわけでもない。死んだことのある人間なんていないんだから、死んだらどうなるのかなんて誰にもわからない。


「人間のキャパって、そんなに大きいものじゃないんですよね。特に、哀しみや辛さに対しては。だから、自分が壊れそうなほど大きすぎるものを抱えてしまったときは、自分を守るために捨てたり逃げたり、閉じこもったりすることも、大事なことなんだと今は思います」


「じゃ、じゃあ……俺はどうすればいいんですかっ」


 どうやったらこの苦しみの毎日から抜け出せるっていうんだ、と彼は中年男に詰め寄る。男は静かに笑った。


「まずは、その会社から逃げてみたらいいんじゃないですか? 自分の命捨ててまで、居続ける義理はないでしょ? というか、自殺者の7割はうつ病を抱えているとも言われています。一度、お医者さんに診て貰った方がいいんじゃないかな」


「お、俺はそんなとか……」


「……貴方、最近疲れてても眠れないって言ってたじゃないですか。それ典型的な症状の一つですよ。どっちにしろ、何かしら理由をつけて会社休んで、その間に次に何をするかゆっくり探せばいいんじゃないですかね。私は転職をお薦めしますけどね」


 男は身をかがめると傍らに置いてあったビジネスバックから一枚の紙を取り出して、青年に渡した。

 見ると、労働基準監督署が出している労働相談のちらしだった。


「ほかにも、自治体も労務相談やってますし。あ、あとこれも」


 追加で手渡されたものは、茶色い小瓶。なんだろう?と思って蓋を開けると、ふわりと良い香りが漂う。さっき嗅いだ気がした香りは、これだったのか。


「貴方みたいな人を時々みかけます。その時のために持ち歩いてるんですよ、そのチラシ。そのままにしておくと、


 じゃあ、と男は言うと廊下を歩いて去って行った。その後ろ姿を見送りながら、青年はもう一度小瓶を鼻に近づけて漂う香りを吸い込む。心の奥底にあるどこか堅く閉じて凝り固まっていたところが、ほぐれるような、そんな心地だった。


「俺も、頑張って逃げてみようかな」


 小瓶をスーツのポケットに仕舞うと、青年も歩き出す。柵を乗り越えたいという衝動はひとまず消えていた。


 ――――――――――――――

【ネロリ】

 オレンジビターの花から抽出して作られる精油。その過程で生まれる芳香蒸留水はオレンジフラワーウォーターと呼ばれます。


 心が乱れ、辛い感情が溢れる日や、ストレスが溜まって身体に不調がでているとき、日々を過ごすことに精一杯で気力がついていかず精神的に追い詰められている人に向いている精油です。


 心を静めて、リラックスさせ、精神的なショックを和らげてくれる効果があります。


 また自律神経のバランスを整えるため、ストレスからくる胃腸の不調や便秘、下痢、不眠を改善してくれます。


 皮膚の新陳代謝をよくする作用があるため、しみやそばかす、色素沈着、妊娠線の予防にも役立ちます。


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