49 幽霊は2度死ね
すっかり陽が落ちてから、柊山は麻美を迎えに六本木に戻った。彼女は大人びたイブ・サンローランの純白のイブニングドレスに着替えていた。リムジンに乗り込む麻美を芸能人と思ったのか、すれ違う何人かの男女が振り返った。2人が向かったのは、神田の小さなライブハウス・リトルマンハッタンだった。その夜も地下アイドルを集めたライブが行われていた。柊山は麻美を出場させるつもりで、ここに連れてきたのだ。ギリギリ締め切り前のエントリーだったので、出番は最後だった。これが麻美の日本での初ステージとなるはずだった。ひいきのアイドルのステージが終わるにつれて、客はまばらになっていったが、それでもトリ(ラストステージ)まで30人ほど残っていた。
麻美は初めて日本のギャラリーの前で歌を披露した。発話障害は続いていたが、英語では歌えた。その悲しみに満ちた震えるように滓れた歌声は、それまで自己流で歌っていたアイドルたちとは別格だった。居残っていた客たちは、食べてはいけない禁断の果実を食べてしまったかのように、拍手も忘れて呆然と立ち尽くしていた。3曲歌い終えてステージから降りかけた時、興奮してステージに駆けあがろうとした観客と衝突し、客が手にしていたワイングラスが割れて、麻美のドレスの胸に血のような赤いしみを作った。彼女はじっと胸の赤いしみに見入っていた。
2人はリムジンでホテルに戻った。すべてやり終えた達成感に柊山が服を脱ぎ捨ててベッドに身を投げていると、化粧とも言えない薄化粧を落とし、ナイトガウンに着替えた麻美がやってきて、いつものように隣に寝た。柊山は麻美の肩を抱いた。指が溶け込みそうなくらい柔らかいはずの三角筋が、今夜にかぎって固く震えていた。殺気を感じて柊山は麻美を見た。彼女の右手には眉きりばさみが逆手に握られていた。次の瞬間、ハサミの刃が柊山の胸に力いっぱい振り下ろされた。刃先が肋骨に弾かれて歪んだ。
「お父さんのかたき」初めて麻美が日本語で口を利き、両手でハサミを握り直し、再び柊山の胸に突き立てた。
柊山は胸にハサミが刺さったまま、彼女を両腕で抱き締めた。刃先が心臓に当たる痒みを感じたように思った。
「俺は殺してねえよ」
「お父さんを殺して地下室に隠したの見たよ」麻美はしっかりした発語で言った。
「お兄ちゃんは死んだよ。俺はお兄ちゃんの幽霊だ」
「幽霊は2度死ね」
「わかった、死ぬよ」
柊山は麻美を抱き締めたまま体を入れ替え、再びグイと腕に力を込めた。心臓から血が滲み出し、麻美のシルクのナイトガウンの背中が返り血で真っ赤に染まった。脳裏に2年前の光景が浮かんだ。死んだおふくろの日記を手掛かりに花崎一郎の邸宅を探しあてたとき、祐介と麻美が争っているのが掃き出しの窓越しに見えた。麻美が今と同じようにハサミを握って振りかざし、祐介の返り討ちにあっていた。柊山が邸内に飛び込んだとき、麻美はすでに締め落とされていた。祐介の胸に眉きりばさみが突き刺さっていたが、胸筋が厚いため深手ではあっても心臓に達するほどの致命傷ではなかった。狂乱した祐介はハサミを引き抜き、麻美にとどめをさそうとしていた。そこに柊山が割り込み、挌闘になった。大学の柔道部員とはとはいえ、手負いでは柊山が優勢だった。柊山にも柔道の心得があり、ヤクザから教わった卑怯な足技もあった。勝負はすぐについた。殺すか殺されるか必死の挌闘はそんなものだ。10秒以上は続かない。プロレスやオリンピックの試合とは違う。あの時、邸内に花崎一郎の姿はなかった。今から思えば祐介が花崎一郎を殺し、地下室に隠したんだ。それを麻美に目撃されて争いになったんだろう。祐介が父を殺害し、妹すら殺そうとした理由はわからない。もしかしたらオヤジと妹の不倫関係を知ったためだったのかもしれない。今では柊山には祐介の気持ちがわかっていた。なぜなら彼の幽霊なのだから。ヤクザのやり方で祐介を素巻きに縛ってクローゼットに押し込み、麻美を病院に運ぶための車を探そうと邸宅を出たところで、警察官に返り血を見咎められて職務質問を受けた。逃げに逃げてゴミ山の上ったとき地震がきた。花崎一郎の邸宅に置き去りにしてきた兄妹がどうなったか確かめに戻たっとき、祐介の車から彼の財布を手に入れ、替玉になったのは偶然の成り行きだった。今思えば柊山だった自分が偽物の自分で、花崎になってからの自分が本物の自分に思える。柊山だった自分には何もやりたいことがなく、花崎になった自分にはやりたいことばかりだった。人生はほんとうに不公平だ。女には1割の風俗嬢と9割のブスがいて、男には1割の花崎みたいなやつと9割の俺みたいなやつがいる。だけどどっちにしたって生きてるのが勝ちだ。だから俺の勝ちだ。おふくろみてえに死んじゃなんもならねえ。
「こんなふうに抜くと血が噴き出して、それでもう1度死ねるから」
柊山は麻美から離れ、心臓に突き刺さったハサミを抜き取った。天井を真っ赤に染める激しい血しぶきの中、柊山はあおむけに倒れた。自分の血がまるでベビーメタルを照らす真紅のステージライトのようにきれいだと一瞬思って意識が消えた。
「もう一人のお兄ちゃん、ありがとう」正気に返った麻美の目から涙がこぼれた。彼女だけはすべてわかっていたのだ。
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