36 釜山
韓国に出国した柊山と花崎麻美は、そのまま釜山に滞在していた。この街には日本から逃亡してきた犯罪者をかくまう特別な組織が存在した。ただし金さえあればだが。入国後、偽名パスポートのとおり、柊山は名前を杉田義一に、麻美は福本真央に変え、駆け落ちしてきた恋人を装ってアパートを借りていた。柊山は大宮でナラシをしているころ、韓国人の売春婦たちからハングルを教えてもらっていたので、韓国滞在にはなんの不自由もなかった。豪華なホテルが立ち並ぶ観光地の釜山だが、日本人がいる可能性が高いカジノがある高級ホテルには用心して近づかなかった。
逃亡1か月後、マルハナ斎儀社の代理人だと名乗る弁護士の坂口歩が、海沿いのカフェで1人ビールを飲んでいる柊山に声をかけてきた。花沢正一が属する在日韓国人のネットワークを使えば、偽名パスポートによる出国者の潜伏先を調べることくらいたやすかったのかもしれない。それに若いカップルの海路からの出国者は印象に残りやすかった。逃亡先を韓国にしたのは最善の選択ではなったことになる。
「花崎さんですね。HANASAKAの株式を譲ってほしくて、お伺いしました」
「どうしてここがわかった? 誰に聞いた?」柊山はサングラスを外して、坂口を睨みつけた。
「そこは私にもわかりません」
「もう会社はリメイドに譲ったよ」
「譲られたのは処分場の権利だけで、会社はまだ花崎さんのものです。厳密には妹さんとお2人の」
「そうなのか。だけど、もう金はもらっちゃったし」
「いくらですか。騙されたとは思わないんですか」
「そう言われりゃ1千万円ぽっちで終わりってのはおかしいな」
「会社に未練がないなら、私どもにお2人がお持ちの株を改めて15億円でお譲りください」
「あの会社、なんでそんなに価値があるんだ」
「20万トンの処分場の相場としてはそれくらいでございます」
「よくわかんないけど、それってさ、二重売買にはなんないの。もう楢野に売っちゃったでしょう」
「リメイドが買ったのは搬入の権利、私どもが買うのは会社ですから、二重譲渡ではありません」
「マルハナに売ってもリメイドの権利はあるの」
「なくなりますね」
「なるほどね」
「どうなさいますか」
「キャッシュで15億くれるならいいよ」
「ありがとうございます。賢明なご判断と思います。ドル、円、ウォン、お好きな通貨を選んでください。間違いなくキャッシュでご用意いたします。タックスヘブンやスイスの匿名口座をご用意してもよろしいですよ。ちなみに要らぬお世話ですが、ここはもう危ないですから、お取引後はどこか他所に移られたほうがいいでしょう」
「どこがいい」
「言わぬが花ですよ、誰にもね」
「なるほど、それが賢いな」
柊山は麻美の分も含めてHANASAKAの株式持分66%をマルハナ斎儀社に15億円で譲渡した。これで2人は完全にHANASAKAと縁が切れた。15億円はケイマン諸島に柊山成也の本名でドル建ての口座を作っておき、スイスの銀行を経由して全額を移動した。誰にも言ってないのに実在する本名のほうがかえって安全だと思った。1日と経たないうちに、投資コンサルなるスミスという男が、どうやって調べたのか電話してきた。英語がわからないので黙っていると、韓国語ができるリーという男に代わった。柊山は韓国語でムヨン(無用)と答えた。その後も、懲りない利殖話の電話が相次いだ。ケイマン諸島の口座は税金がかからないかわり利息もつかない。ヘッジファンドのトレーダーたちは、10%、20%、さらに30%の利回りを約束した。
柊山は本名の柊山成也で偽名パスポートを買い直し、麻美の偽名は山口萌美に変え、2人でニュージーランドに移ることにした。坂口弁護士のアドバイスに従って行き先は誰にも話さなかった。もう日本には帰るまいと思っていたので、麻美と暮らすための家を買った。プライベートビーチを望み、ベッドルームが3つ、バスルームが2つ、プールもある豪邸だった。柊山は言葉が戻らない麻美をアジアからの短期留学生が通う英会話スクールに通わせた。治療の一貫として刺激を与えるのだと説明し、レッスン料を1年分まとめて払うと、校長は快く引き受けてくれた。さらに歌唱スクールにも通わせた。すると見学だけでいいと頼んでいたのに歌もダンスもたちまちプロ並みに上達した。地元のクラブで気の向くままに歌うと、哀愁を帯びた歌声が聞く人の心に染み入り、会話ができない天才歌手として評判になった。子供っぽく思っていたのに、彼女は19歳になっていた。2人はどこに居ても本当の恋人のように振る舞い、実際もう恋人同士と言ってよかった。しかしその実、柊山はただ病んだ心に逆らわないようにしているだけだった。柊山の心を占めているのは妹ではなかったし、麻美の心を占めているのも偽の兄ではなかった。
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