19 放射線症

 国立静大病院の旧病棟は、かつて全国各地に建てられた結核療養所の名残のような、コンクリート平屋建てのカビ臭い病棟だった。放射線症患者を受け入れるため、その一角が急遽無菌病棟に改装されていた。病室にはどんな微粒子でも除去できるエアコンが設けられ、医療スタッフの除染設備も完備していた。

 下血がひどくなって緊急搬送された青井は、亜急性放射線症と診断され、腸管細胞の再生術を施されていた。下血はいったん治まっていたが、造血細胞は骨髄移植を2度試みても十分には再生せず、再生不良性貧血が改善しなかった。闇金で殴られた片頬の肉は再生せずに醜く剥がれ落ち、壊死が進行した左腕の皮膚は人工皮膚の下で一度は再生するかに見えたが、筋肉が萎縮してミイラの腕のようになり、もはや切断するしかなかった。メラニンが作れなくなって褐色だった全身の肌がエリテマトーデス症のようにまだらに白くなり、白内障も深刻な状態だった。輸血量は20リットルを超えていた。

 「島田さん、花崎社長さんがご面会にお見えですよ」看護師の田中千紗都が笑顔で話しかけた。死期がせまり、身寄りのない青井は、死にゆく声帯を必死に絞って花崎に見舞ってほしいと希望した。連絡を受けた柊山が渋川を伴って青井のお別れにやってきたのだ。

 「島田ってだれだ」青井は自分の偽名を忘れていた。救急搬送されたとき、花崎土木の専務の名刺を持っていたせいで、偽名のまま入院していた。偽名を忘れるようではもう詐欺師は引退だった。医療費は中央電力が賠償金として支払うことになっていたので、健康保険証は不要だった。どっちみち保険が適用になるようなありきたりな医療行為ではなかった。

 「俺は青井だよ」

 「島田さん、ご自分のお名前をお忘れですか」

 「だれのことだよ」

 放射線症患者は最後には精神異常をきたすと言われていたので、看護師はそれ以上逆らわなかった。

 柊山と渋川は全身を覆う防護服に着替えさせられた上に除染室に案内された。気休め程度の防護服で放射線を防ぐことはおろか、ウイルスを防ぐことも、ほんとうはできなかった。柊山は医療スタッフの多さに驚いた。入院患者数の20倍はいただろう。

 「入退室時には除染をしていただきますね」

 「じょせんて」

 「無菌病室ですから面会者には除染していただきます。線量計もつけていただきます。患者さんの体から放射線が出ていますから」

 「はあ、そうすか」柊山は気のない返事をした。

 除染が終わると、窓も壁もすべて二重のフィルムで覆い、強力なエアコンの風でうすら寒さすら感じる長い廊下を通って、クラス1000の無菌病室に案内された。室内にもビニールのカーテンがあり、その中に青井が寝ていた。

 「意外と元気そうじゃねえか」白い防護服で頭まですっぽりと包み、防塵マスクを着けた渋川が、ムリに明るい声で青井を見舞った。全身に管やら計器やらをつながれ、仮埋葬されるご遺体と同じような死臭をただよわせ始めている青井を一目見るなり、柊山は吐き気をもよおし、言葉をかけるどころではなかった。ご遺体を洗うのは平気だったのに、死にかけた病人は苦手だった。看護師が一時的に送管を外して簡易な酸素マスクに替えた。

 「渋川、よく来てくれた。俺はもうダメだわ」頬に穴が空いているのかヒューヒューと空気漏れのする声だったものの、青井は正気に帰っていた。

 「放射線症だってな。電力から賠償金は出るのか」

 「出ると思うけどよ、使えねえわ」

 「じゃ、俺が使ってやんよ。だから安心して死にな」

 「まだ死なねえよ。左腕は壊死しててダメになったけど、あとはなんとか。抜けちまった髪もうっすら生えてきたよ」

 「すげーもんだな。さっき医者から説明受けたよ。いったんまともな白血球がゼロになったけど骨随移植で再生したってな。死んだ皮膚は豚の皮膚で再生させたそうじゃねえか。もうちっとで無菌室も出られるとよ」

 「慰めを言うなよ。白血病は治ってねえんだよ。いったん細胞が着いてもすぐ死んじゃうみてえで」

 「正直に言えよ、放射線症ってのは演技なんだろう」

 「そう思うか」

 「大した演技力じゃねえか。映画を見てるみてえだよ」

 「ここだけの話よ、原発入ったときポロニウムを拾った。こいつがあれば誰だって殺せるぜ。塩粒一つ飲ませてやれば、俺と同じに弱って死ぬぜ」

 聞いた瞬間、渋川は妄想だと思った。確かに妄想だった。内部被爆した原因物質がポロニウム210だと医師たちが話しているのを聞き覚えたに過ぎなかった。原発内で作業中に線量計のアラームが鳴った時、小さな鉛の容器を見つけて記念に持ち帰ったのは事実だが、中身は知らなかった。いつの間にかそれがポロニウムになったのだ。

 「殺してえやついんのか」

 「べつにいねえけどな」

 「じゃ、なんでそんなもん拾ったんだよ」

 「俺だって間違うことはあらあ。北(朝鮮)とかには売れんだろうかと思ってよ」

 「向こうだって余ってんだろう。そんなことすっからだよ」

 「へへ、花崎に教えてやろうかと思ってよ、それで呼んだんだよ」

 「なんで」

 「処分場に埋めてあんだよ」

 その時、看護師がドアをノックして入ってきた。

 「タイムリミットみてえだ」

 「渋川、これでおわかれだな」

 「んなことねえよ。何度でも来るよ」

 「花崎はどこだ。来てんのか」

 「そこにいるよ」

 「そっか。ぜんぜん見えねんだ。俺はおめえに最初会った時から気に入ってんだ。おめえみてえに一見寂しそうで不器用なのが、一番詐欺師向きだよ」

 「なんとか、言ってやれよ」渋川にそう促されても、柊山は何も言えなかった。

 看護師に促されて2人は病室を出た。

 「あとどれくらいですか」いつになく神妙な声で渋川が聞いた。「明日まで持つんですか」

 看護師は無言で首を振った。

 翌日、青井は意識不明に陥り、3日後に息を引き取った。亡骸は柊山が引き受け、マルハナ斎儀社の斎場で、柊山、渋川、楢野、神崎の4人だけの告別式を催した。島田清治の戸籍はどこにもなく、埋葬許可(墓地埋葬法5条)は取れなかったが、構わずに身元不明のご遺体として焼いてしまった。医師の勧めで、4人とも遺灰を吸い込まないようにマスクをしていた。まるでこの世に最初から存在しなかったみたいに、遺骨は砕かなくても粉になっていた。医療費の請求書は来なかったかわり、放射線症犠牲者の発表も報道もなかった。青井もまた柊山のように、この世に存在しなかったことになったのだ。

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