相口さんの大食い
黒崎葦雀
第1話 Days ーデイズー
濃い闇の中、屋台が掲げる提灯の灯りが淡く浮かび上がる。
屋台の主人は齢50半ばといったところか。仕込みの動作一つ一つが熟練の動きである。
「匠」 その一言こそがふさわしい。
彼の創造物は、湯気のベールに覆われ、夕日にも似た裸電球の光を受けて輝いている。さながら海に浮かぶ財宝のようである。
その芸術品を挟んで客が二人。
一人は男である。箸を構えたまま皿に鎮座した豆腐を見下ろしている。焼き豆腐が多い中、この屋台では木綿豆腐をそのまま使っている。そこにも主人のこだわりが垣間見える。
もう一人は女である。小口にした大根を、黙々と口に運んでいる。
その神聖なる場で、長い沈黙を破り、客の男がポツリとつぶやいた。
「豆腐は、一体どこに分類されるのだろうか」
その声に主人も女も反応しない。
「無論主菜たりえない。しかし副菜と言えるのか?」
厚揚げや揚げ出し豆腐なんかは十分副菜と言えそうですが、と女が口を挟む。今度はジャガイモを頬張っている。
「なるほど。確かにそうだ。しかし私が着目しているのは豆腐そのもの、即ち冷奴と呼称される存在なのだ。常に食卓に上るも白米と同時に食すことも叶わない。ともすれば料理が完成するまでの繋ぎとなってしまう。厚揚げともなれば話は別だ。あの重厚な一品は白米とともに我が舌を堪能せしめる。副菜は勿論だが、主菜となって否定する者も多くは無いはずだ。」
少なくとも私は否定したいです、とさらりと言って女は竹輪をくわえる。
「結局、豆腐が豆腐として食卓に上がるには、“おかず”という概念を捨て去らなければならない」
男の頬を涙が下った。そして搾り出すような声が漏れる。
「人は、忘れてしまったのだろうか。豆腐が加工食品であるという事実を……」
男は溜息を一つ吐いた。
「ところで話は変わるが僕と結婚してく……」
私大豆製品だめなんです、と即答して女はコンニャクを平らげ、ごちそうさまでした、と言い残して去っていった。無論代金は払っていない。
男は去っていく姿を見つめていたが、やがて、
「おやじさん、つくねを頼む」
と、平然を装った声で注文した。豆腐はまだ残っていたが、注文せずにはいられなかった。
しかし男は差し出された具材を見ると、奇跡を眼にしたような眼差しで、屋台の主人を仰ぎ見た。
「がんもにしなよ。がんもに」
「おやじさん……」
その時の男にとって、おでん屋の姿が眩しかったのは、明かりを反射した頭のせいだけではなかったという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます