第27話 プラトンの辿り着いた愛の結論
これは、夢なのだろうか?
ついには現実逃避までしかけたけれども、繋がれたすべすべの手から伝わってくるほのかな熱に、紛れもなく現実なのだと思い知らされて。
今、俺は、田上先生と手を繋いでいる。
カッと頬が燃え上がりそうなほどに熱くなった。こっちは、心臓が破裂するんじゃないかってくらいドキドキして、気が気じゃないのに。隣を歩く先生はすげえ余裕そうなのがちょっと悔しい。というか、慌てふためく俺を横目で一瞥して、さも楽しそうに唇の端を吊り上げるなんて悪魔だ。この人は、純情な高校男子の紛うことなき敵だ……!
これは、確実におもちゃにされている。
でも、遊ばれているのだと分かっていてすら、悔しい程にこの心臓は嬉しそうな悲鳴をあげるのだ。
はぁ……。
本当に、この人には、一生敵う気がしない。
「天野君。この前の話の続きだけれどもね」
っ!?
たちまち、素っ気なく俺の前から立ち去っていった先生の姿に脳内を占拠されて、胸が苦しいくらいに締め付けられる。
一体、何を言われるのだろうか……と内心びくびく震えながら、ギギギと錆びついたロボットのように、ぎこちなさMAXで隣を歩く先生を見やる。
彼女がそっと苺色の唇を開いた時。
極度の緊張と不安に圧し潰されそうになりながら、ぎゅっと目を瞑って――
「ソクラテスは、アガトンの荘厳な詩を徹底的に貶めた後、アガトンを得意の質問攻めでやりこめながらエロースの核心に迫っていくのよ」
――って、
てっきり、あの宙ぶらりんになってしまった言葉の続きだと思い込んでいたから、酷い肩透かしを喰らった気分だ。
一気に緊張がほどけてゆく俺に対し、どこまでもマイペースな田上先生の大きな瞳にはすっかり理知の焔がゆらめき始めていた。
「『アガトンくん。人は何かを欲する時、当然、自分の所有していないものを欲するね。既に所有しているものは、誰も欲さない。そのことに異論はないね?』とぐいぐい攻めてくるソクラテスに対して、アガトンは『仰る通りでございます』とたじたじになってしまうの。人は、自分に欠けているものを欲しいと思う。例えば、現に強いのに、強くありたいと望む人がいるかしら? どちらかといえば、弱いからこそ、心の底から強さを望むわよね」
道行く人々の視線を総ざらいにしながら、当の先生は全く意に介している様子はない。堂々と俺の手を引いて、ただひたすらにどこかを目指して歩みを進めている。どぎまぎしながらも、先生があまりにもいつも通りだから段々と平常心に戻ってきた。
「普通に考えたら、そうっすね」
「じゃあ、この前提を踏まえた上で、既に強いのに、強くありたいと願う人がいたとするわ。その人は、なんでもう強いはずなのに、強くありたいと願うのかしら。これに対して、プラトンは師の口を借りて、このような回答を導き出しているわ。即ち、『君は、今保持している強さを、将来にわたって永久に所有し続けることを望んでいるのだ』と。たしかに、言われてみればその通りじゃないかしら。私たち人間は、既に幸せであったとしても幸せでありたいと望むわね。今は幸せでも、未来はどうなるか分からないという不安は常につきまとっているもの」
今は幸せでも、未来はどうなるか分からない。
先生の横顔にほんの少しだけ蔭りが差したような気がして、ドキッとしたけれど、それは本当に一瞬の出来事だった。
気のせいだろうか? と逡巡した隙に、彼女は花のような笑みをたたえていた。
「ここから、
美しくて、きらきらと輝いていて、完全なる善。
愛とは、そんな甘やかな綺麗ごとだけで計り知れるものではない。
時に、凶暴で、残酷で、醜いものでもあるのだと、プラトンは言いたかったのではないだろうか。
恋をしてしまったからこそ、強くそう思う。あんな胸が焼け付くような痛みを味わってしまった後では、恋は単純に美しいだけのものだなんて絶対に言えない。
徹底して真理を求めたソクラテスの熱い意志を、強く受け継いだ
先生がすっと小さく息を吸い込んだ時、自然と胸が高鳴った。
「ソクラテスがアガトンを反駁した後、場面は、ソクラテスがディオティマという巫女とエロースの本質について語り合うシーンに移り変わるわ。ソクラテスはディオティマから、エロースの本質を教え授かるのよ」
え……?
ソクラテスが、格好良く決めるんじゃないのか!?
「プラトン作品なら、ソクラテスが格好良く決めるんじゃないの? という顔をしているわね」
「ふぁっ! 先生、哲学だけじゃなくて、読心術まで身につけてたんすか!?」
「そうかもね? さて、ここで、急に降ってわいたような女性が一番おいしいところを掻っ攫っていくところにも、プラトンなりの意図がこめられているといわれているわ。ここからの話は、誰もが納得できるような絶対的な真理というよりも、ある種、観念論的なものになっていくの。理詰めのソクラテスに、こういう直観的な話をさせるのは、プラトン的にいまいち納得がいかなかったのだという説が濃厚よ。そして、このディオティマの語ることにこそ、華々しいプラトン哲学の真髄が生き生きと反映されているの」
「尊敬する師には少したりとも曰くを付けたくないという徹底ぶりも伺えますね」
一瞬、アイドルと徹底して訓練されたファンのような関係性を想像してしまった。これは俺の妄想だけど、どちらにせよ、プラトンの師への心酔ぶりには只ならぬものを感じてならない。
まぁ単に、ディオティマの語ることは、プラトン自身の思想として捉えるべきだという意味もあるのかもな。
それは、さておき。
今度こそついに、プラトンの辿り着いた、エロースの結論が明らかになりそうだ。随分と焦らされた分だけ、胸が、ドキドキと高鳴って仕方ない。
未だにどこに向かっているのかもわからないまま、田上先生は、俺をのぞき込むようにこちらに顔を向けて、幸せそうに微笑んだ。
「プラトン曰く、エロースとは、『善きものを永遠に自分のものにしたいと望む気持ち』なのだそうよ」
胸が、とくんと高鳴った。
善きものを、永久に自分のものにしたいと望む気持ち。
先生の花咲くような微笑が、春の日差しのもとできらきらと輝いていて。
繋いでいる手の柔らかな感触も、艶やかな黒い髪から匂いたつシャンプーの甘い香りも、彼女という存在の全てがこの心臓をたまらなく狂おしくする。
ああ。
このまま、時間が止まってしまえば良いのに。
そうしたら、先生が、永久に俺の隣で微笑んでいてくれるのに。
呆然として先生に見入ることしかできないでいる俺をおいて、彼女は、楽しくて仕方がないという風に生き生きと話を続けていく。
「実は、これまで話してきた『
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