第25話 アイスクリームの女の子

 小ぶりな唇からかすかな嗚咽が漏れた瞬間、罪悪感で胸が千切れそうだった。


 でも、もう、こんな狂っている関係を続けることはできない。


 本当は、あの思い出したくもない日曜日から、痛い程に分かっていた。『饗宴シュンポシオン』で最後に下される愛の結論も、聞けずじまいだったというのに。


 それでも、胸を抉られるような熱い痛みが、はっきりと告げてしまったから。


 春の嵐のように苛烈な毒舌と、ひだまりのように優しい春の甘い微笑。


 自分は、あの人田上 小春に、どうしようもなく恋をしているのだ。


 そうと分かっていたのに、三村さんとここ数日間曖昧なつながりを持ってしまったのは、俺の弱さと不甲斐なさだった。自分に好意を寄せてくれている相手を目の前にハッキリと拒絶する勇気を持てなかったのだ。本当に最低だ。


 こんな風に蔑ろにすることしかできないのだと分かっていたなら、もっと早くに、ちゃんと終わらせるべきだった。


「ごめ、ん。……俺はやっぱり、三村さんと付き合うことは、できない」

 

 その細い肩がびくりと揺れて、フレーム越しの大きな瞳が今にも涙をこぼしそうになっているのが視界に入った瞬間、苦しいくらいに喉が締め付けられた。


「どうして……? なんで三村さんは、俺なんかにこだわるの」


 ずっと、疑問に思っていた。


 ライヴを観て格好良いと思ってくれたことは、単純に、とても嬉しい。


 でも、ただそれだけなら、俺よりも派手で格好良くて目立っていた先輩が沢山いたはずだ。


 なんで三村さんは、俺を選んだんだろう。


 その小さな身体の内に秘めている心を覗くように、じっと見つめ返す。

 彼女は大きな瞳をふるふると震わせながら、か細い声でぽつりとつぶやいた。


「…………先輩が、あまりにも優しくて、まぶしかったからっ……。次に付き合うのはこういう人がいいなって思わせたのは……先輩じゃないですかっ」

「えっ」 


 突如、強烈に頬をひっぱたかれたようだった。


 呆然として、何度も瞳をしばたいた。


 嘘、だろ?

 前にも会っていたなんて、そんなはずは……。


 どうしても思い出せなくて、無我夢中で必死に頭の中身をひっくり返し続けていた俺に、三村さんは涙交じりの声で自嘲気味に笑った。


「思い出せなくて、当然です。だって、あえて、分からないようにしたんですもの。あの時の私は……髪も黒かったですし、眼鏡もかけていませんでした」


 その瞬間。


 去年の夏休みに、あのアイスクリーム屋で泣き腫らしていた女の子が、鮮烈にフラッシュバックして。


「……もしかして、あの三段アイスの!!」


 目の前の彼女と記憶の中の彼女がぴたりと重なった瞬間、まるでビデオテープを巻き戻したように、あの夏の日の出来事が次々に蘇る。


 高校一年時の夏休みは、本当にバンド三昧だった。


 秋の文化祭が近かったから、夏休みといってもほぼ毎日のように学校に赴いて、日々練習を重ねていた。ろくに冷房のきいていない蒸し暑い部室の中で、何度も何度も曲を合わせていたっけ。


 そんな、練習漬けのある日のこと。


 束の間の休憩時間中に、咲が突然『アイス食べたい! あの、最近できた人気店のやつ!』と駄々をこね始めたことがあった。その時点で充分嫌な予感はしていたのだけれども、それは漏れなく的中した。あっさりと買い出しじゃんけんに負けた俺は、二人にぱしられて真夏の焼かれるような日差しの下に放り出されることとなった。


 必死で自転車をこがせ、そのアイスクリーム店に着いたころには汗だくだった。


 咲には戦利品アイスを手に入れたらすぐに部室に戻ってこいと言いつけられていたけれども、うだるような暑さにすっかり体力を奪われた俺は、すぐに学校に戻る気になんて到底なれなかった。即座に、涼しい店内のイートインスペースで、アイスを食べながら涼をとることに決めた。


 樹と咲の分のカップアイスの入った袋を片手に、自分の分の抹茶アイスを手にして店内の適当な椅子に腰かけた時、隣にいた女の子の異様な雰囲気に眼を剥いた。


 黒髪ロングの、大きな瞳が愛らしい女の子だった。


 でも、その瞳は泣き腫らしたように真っ赤に充血していて、ぎょっとした。さらには、その華奢な身体のどこに入るのだと驚いてしまうような三段重ねのアイスクリームを一人でもぐもぐと頬張っている姿は、ものすごく悪目立ちしていた。


 もちろん、いくら気になったからといって、初対面の見知らぬ女の子に声をかけられるような俺ではない。でも、無意識のうちに、チラチラと横目でその様子をうかがってしまってはいたのだとは思う。

 

『なんですか。……人のことをジロジロ見て、変態ですか』

『ち、ちがっ! ただ、よく食べるなぁとおもって……ゴ、ゴメン』


 可愛い顔にそぐわぬ辛辣な物言いに、当時はかなりの衝撃を受けたものだ。まぁ、どこかの誰かさんに鍛えられてしまった今の俺ならきっと、同じ台詞を聞いてもかわいいものだと思ってしまうのだろうけれども。


 小柄であどけない顔立ちだけど、薄くメイクをしているところをみると小学生ではなさそうだ。ちょっとませてるけど、たぶん中学生かなとぼんやり考えていた。


『これは…………やけ食いです』

『そ、そうなんだ……』

『…………振られたんですよ。というか、私はアイツにとって、彼女ですらなかったんです』


 ちょっと待て、流石にませすぎじゃねーか? 君、中学生だよね? 


 つっこみたいのはやまやまだったけど、それを機に感情が昂ってしまったらしい君は口を挟む隙すら与えてくれなかった。


『……塾で知り合った高校の先輩だったんですけど……二股、かけられてたんです。というか、アイツ的には私と付き合っているという認識すらなくて……要するに、遊ばれてたんです』


 想像を遥に飛び越えた随分と過激な内容に、咽せざるをえなかった。


 そして、その大きな瞳からぽろぽろと涙が溢れ出した瞬間、死ぬほど憔悴した。


 ろくでもない奴だったのかもしれないけど、本当に彼のことが大好きだったんだろうなぁということが伝わってきて、見ているこっちまで胸を締め付けられるようだった。


『……最悪です。あんなのが初恋で、初彼だなんてっ』


 ぎゅっと唇に歯を立てた君が、怒りと悔しさと哀しさによってぷるぷると震え始めて。手にしていた三段重ねのアイスクリームがピサの斜塔のように傾き始めていたことに気づいてハッとした時には、もう遅かった。


『あぶないっ!』

『へっ!?』


 当時の三村さんが勢いよく振り向いた瞬間、そのアイスはあまりにも鮮やかに、俺のズボンの上に着地を決めた。あまりの冷たさに驚いて、ひっと身が震えた。


 苺とチョコとバニラ色の入り混じった甘くグロテスクな様をぼんやりと見つめながら、あーこれは流石にクリーニング行かなぁと考えたりもしたのだけど、元凶たる彼女が幽霊も真っ青なほどに蒼白になっていることのほうがよっぽど衝撃的だった。


『ご、ごごごごごごめんなさいっ!! あああっ、こ、れ、制服、ですよね? ほ、ほんとに、ほんとにごめんなさいっ』


 先程までの高慢な態度から一変、泣きそうになりながら必死に俺のズボンを拭う君を見ていたら、なんだか、くすくすと笑いが漏れてしまって。


『大丈夫だよ。そんな焦んないで』

『だ、だだだだって……八つ当たり、したうえに、よりにもよってアイスをこぼすなんて……ううう、ほんとに最低じゃないですか……もうもう、馬鹿すぎる……』


 君がびくびくと震えながら大粒の涙をこぼし続けるものだから、制服のズボンに落ちたアイスのことなんて、ホントにどうでもよくなってしまった。とりあえず君を落ち着かせなくてはと、自分の手に持っていたアイスをそっと差し出したんだった。


『全然大したことじゃないよ。俺のことは気にしないでいいから、君はとりあえず、これでも食べて元気を出して』

『え、ええっ!? う、受け取れるわけないじゃないですかっ……』

『ううん、ダメだよ。だって君は、ここにやけ食いをしにきたんでしょ?』


 怯える君に、有無を言わさず抹茶アイスを握らせて、『ほら。まだ口つけてないから、そーゆー心配もいらないし』と茶化すように笑った。


『…………俺は彼女がいたことすらないし、こんなこと言う資格もないかもしれないけど……それって、良いことだったんじゃないかな』


『えっ』


 そろそろ戻らなきゃと思いながらも、なんだか、君が放っておけなくて。


 君に渦巻いている張り裂けんばかりの哀しみを、ほんの少しでも軽くしたいと願ったんだ。


『だって……君はもうこれで、その最低男と関わらなくてすむんだろ? 今は思い出すと哀しくてしかたねーかもしんないけど、落ち着いた頃には、絶対に良かったって思えるよ。君には絶対に、もっと誠実で素敵な人が現れる。少なくとも俺は誰かを好きになったら、その人のことしか目に入らなくなる自信があるし、世の中には、そーゆー男も沢山さんいるんだからさ』

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