第23話 あなたのそういうところって、

「その通り。ソクラテスは、このアガトンの美しく荘厳な演説を、読んでいるこっちまで冷や冷やしてきてしまうほどにまで徹底的に貶めるわ」

 

 あくまでもプラトンの書いている作品なので、正確には、プラトンから見たソクラテス像ということになるのだろうけれども。


 でも、それほど熱烈にソクラテスの思想に感銘を受けたプラトンのことだ。


 きっと、彼が、敬愛すべき師匠に語らせたことにこそ、彼自身プラトンが強く訴えたかったことが反映されているのだろう。


 さて。


 『饗宴シュンポシオン』でのソクラテスは、今度はどんな華麗な手捌きでもってして、議論相手を凪ぎ倒すのか。


「そのこき下ろし方たるや、毒舌にかけてはそれなりの自負がある私でも痺れてしまう程よ。あまりにも格好良くて、思わずときめいてしまうわ」

「ときめきポイントが明らかにおかしくないっすか!? というか、その毒舌、やっぱり完全に確信犯じゃないっすか……!」


 言われなくても薄々は察していたけど、こうも清々しく開き直られると複雑だ!


 もしや、田上先生の並々ならない辛辣な口の悪さは、ソクラテスに感銘を受けたことに端を発したりしているのだろうか……? だとするなら、この毒舌に散々いたぶられている俺には少なからずこの偉人を恨む権利があるといえよう。


 ジト目でささやかに抵抗を試みるものの、一度哲学の世界に没頭し始めた先生にはもちろん届かない。


「みんながアガトンの作り出した壮麗な世界観に酔いしれて、彼こそがエロース賛美の紛うことなき優勝者であると信じてやまない、謂わばアガトンさんすげえムードの中。ソクラテスは破壊神のように、その称賛ムードをぶち壊すのよ。『ははは、これはびっくりたまげてしまったよ。どうやら、みんなの考える称賛と、私の考える称賛とでは、想像以上に大きな隔たりがあったようだ。私は、何かを賛美するということは、まずは、その称賛すべき対象の本質を明らかにし、その美点を並べてゆく作業だとばかり思っていた。でも、いまみんなの行った賛美の仕方は、私の考えていたような方法からはあまりにもかけ離れているね。たしかに、今聴いたアガトンの詩は感心してしまうほどに素晴らしいものだったし、圧巻の出来だったよ。でも、そこから何か、エロースの本質について明らかになっただろうか?』とね」


 議題は変わっても、いつだってストイックに真理や本質を追い求めてゆくソクラテス像が、ここにも描き出されているということか。


 何物にも惑わさず、ただ自分が正しいと思ったことにのみ同意する姿勢。相対主義と闘い抜いたソクラテスのゆるぎない思想が、ここにも流れている。

 

 これがありのままのソクラテスの姿というわけではないけれども、プラトンは少なくとも師の姿をそのように受け止めていたということだ。


 その、厳しいまでのぶれのなさには、まるで精神的なアスリートのようだ。


「『何かを賛美する正しい方法とは、果たして他を圧倒するような美辞麗句をかき集めて、無暗に並べ立てるというようなことだったのだろうか。たとえそれが嘘であろうとも、それすらも関係がないのか。もしそうなのだとすれば、エロースそのものを賛美しなくても良いということになるな。君たちの今までやってきたことは、いかにして、エロースをかということだった。残念ながら、私はこのようなやり方でエロースを賛美することには賛同しかねる』と、ソクラテスはアガトンを中心にそれまでの人々の主張を、壮絶なまでにばっさりと斬り捨てるのよ。ね、最高にいかしているでしょう?」


「なんつーか、こうまで晒上げにされてしまうとアガトンに同情しちまいますね……」


 個人的には、眼前に清らかで神聖な天上界の情景が浮かんでくるようなアガトンの詩にも、心を震わせられたけれども。


 文学的観点から見たら百二十点くらいあげたくなってしまう感動必至の詩も、脅威的な真理フェチのソクラテス先生に言わせるならばゼロ点だったらしい。


「私も、個人的には、アガトンの詩にも感動したわ。でも、ソクラテスがいうように、そこからエロースの何が分かったのかと問われたら、何も答えられないこともたしかな事実ね」

「まぁ、あの詩から、なにか新たな発見があったわけではないですしね」

「そうなの。そして、ソクラテスは、主張するのよ。アガトンのように壮麗な言葉の数々でエロースを飾り立てることは自分にはできそうもないけれど、その代わりに自分は、どこにでも溢れているような月並みな言葉になろうとも、ただ、その本質を探り当てることだけに邁進してみせるとね!」

「おおお……!」


 ソクラテスク節キター……! と内心でしきりに感嘆の声をあげていたところで、はたと、あることに気がついた。


 『プロタゴラス』に続いて、『饗宴シュンポシオン』の話を聞いていて感じたことだけれど、プラトン作品にはある意味、水戸黄門のような安心感があるのかもしれない。


 ある議題について、最初は、そこそこ口の立つ人物に語らせる。


 その人物の主張は一見もっともらしい説得力に充ち溢れていて、聴いている方としては、ついついその意見に納得し、傾きかけてしまう。ソクラテスの相手は口下手の雑魚ではない。いつも、中々の強敵だ。


 そして、だからこそソクラテスが、議論相手の真実らしく見える主張をばっさりと一刀両断した時、読者は並々ならない爽快感を得るのだろう。


 少年漫画でもゲームでも、この法則は絶対だ。


 誰も、主人公が雑魚を蹴散らしたところで、『はいはい、そうですか』としか思わない。


 主人公が強大な敵と闘って打ち克つところにこそ、大きな感動が生まれる。見守っている側も、初めてエクスタシーを感じるのだ。


 今この世にあふれる様々な物語の王道パターンを、プラトンは二千年も前に描き切っていたのだ。


 いや、むしろ、逆なのか。


 プラトンは、物語の王道を、切り拓いた先駆者といえるのかもしれない。


 そんな途方もない妄想をしていたら、気づけば、田上先生の瞳がジト目気味になっていて、ひやりとした。


「ねえ。天野君なんだかぼうっとしているけれど、私の話をちゃんと聞いていた?」

「もちろんっすよ……! 俺、やっぱり先生が哲学について語るのを聴いてるのが、すっごく好きなんです。落ちこぼれかもしんないけど、誰よりも楽しんで聴いているということにかけては、絶対に誰にも負けません! 今ぼうっとしてたのは、プラトンはもしかしたら、尊敬する師を活躍させたいがあまりに、自然と物語の王道を編み出したのかもなあ、って考えたりしていただけで……うーん、こんなのはただの俺の妄想っすかね?」

「…………天野君って、予測不可能」

「えっ?」


 首を傾げると、田上先生は大きな瞳を迷うように伏せて、ぽつりとつぶやいた。


「ただぼうっとしているだけかと思ったら、いつも、こっちがびっくりしちゃうくらいにちゃんと話を聞いてくれている。それで、さらりと、私には想像もつかないような大胆なことを言ってのけるのよ。……あなたのそういうところって、ホントウに……」


 先生の唇から忽然と漏れ出た、じんわりと熱を孕んだ声。


 かすかに震えている頼りなさげなその眼差しに、狂おしいくらいに、心臓が締め付けられる。


 相手は、先生なのに。

 その先に続く言葉を、どうしようもなく暴きたくなった。


「ホントウに……なんですか?」

「…………ううん。なんでもないわ」


 でも。


 田上先生は、待ち望んでいたなにかを言うことはなかった。

 代わりに、その切迫した感情ごと閉じ込めてしまうように、そっと微笑んだ。


 心臓が、引き絞られるように痛くなった。

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