第12話 プロタゴラス

「プロタゴラスは、と呼ばれた超名高いソフィストだったのよ。彼がアテネにやってきているというと、瞬く間に大ニュースとなるくらいにね。そんなカリスマ大先生にアテネの政治家たちはなんとか教えを請おうと殺到し、彼の授業料は飛ぶ鳥を落とす勢いで急上昇。それはそれは高くついたというわ。その点についてだけいえば、教職に就いている身として羨ましいことこの上ないわね。天野君も、そろそろ私に特別授業料を払ってくれても良いのよ?」


 可憐にニッコリと微笑まれて、背中に変な冷や汗が伝る。


 たしかに当初想定していた以上にがっつりと教えを受けてしまっているので、金を請求されても何らおかしくない気がする。むしろ、先生の有する正当な権利のように思えてきて、一体どれだけ高くつくのだろう? とびくびくし始めたところで、


「あら、心外ね。そんな怯えた兎のような顔をしなくても、冗談に決まっているじゃない。私ほどのピュアな教師が、男子高校生から金をふんだくるなんていう野暮なことをするわけがないでしょう?」


 と、けろりとたしなめられてしまった。


 本当にピュアな人間は九十九パーセントしないであろう発言だけれども……とりあえず難を免れられたようなのでほっと胸を撫でおろす。


 田上先生が、注文したブラックコーヒーを口に含む。

 同じタイミングで、先生の真似をして頼んだ同じものを口に流し込んだ。


 不慣れなその味ブラックコーヒーはやっぱり酷く苦くて、思わず顔をしかめそうになる。必死にすました顔をしながら、内心では、変に見栄を張らずにアイスティーにしておけばよかったとめちゃくちゃ後悔する。


 俺が未だに舌に纏わりつくような苦味と闘っている中、もう既にその黒々とした液体をすっかり細い身体の中におさめきってしまった先生は話の続きを語り出した。


「国のことを第一に考えなければならない政治家たちが、中身なんてほとんどないに等しい、聞こえの良いキャッチフレーズだけを声高に叫んでいるという酷いあり様。そんな中で、本来であれば懸命に考えた上で慎重に判断を下すべき市民たちは、真剣に国の向かっていくべき未来について考えている誠実な政治家たちの話よりも、一見分かりやすくて聞き映えの良い安易なフレーズに飛びついてしまったわ。こうしてアテネの民主政治がどんどん腐敗していった中で、この残念な現状にハッキリとNOを突き付けたのがソクラテスだったのよ」


 語りに熱の入ってきた先生が机を小さくバシッと叩く。


 テーブルの細かい振動から、当時のソクラテスのマグマのように熱い思いが伝わってきたように思えて、思わず「おお!」と感嘆を漏らしていた。 


 腐敗しきった国の在り方に疑問を抱いて、一人きりで立ち向かっていくだなんて格好良い……!


「ソクラテスは考えたわ。たしかに、いつどんな時代でも通用する絶対的な真理や客観的な基準を見つけ出すことはすごく難しいし、本当にそんなものがあるのかも分からない。でも、いくら存在しないように思えるからといって、それを求めること自体を放棄してよいわけではない。現に、みんなが納得する共通の真理なんてあるわけないし、どうだって良いじゃんって匙を投げてしまったから、アテネは目も当てられない酷い有様になってしまったじゃないか! とね」


 まるで少年漫画みたいな展開に、ぐいぐいと引き込まれてしまう。


「こうして熱く闘志を燃やしたソクラテスがいかにして真理を追究していったかは、先週に話した通りよ。ソクラテスも、相対主義で武装を固めた知者たちを、正攻法で突破するのは難しいと分かっていた。彼らは、どんな主張をものらりくらりと躱す天才だったからね。だからこそ、ソクラテスは自分の主張を押し通そうとするのではなく、無知を装って質問することにしたのよ。自分の自信のある分野に関して教えてくださいと頼みこまれて、嫌な気がする人はいないでしょう? 知者たちも最初は良い気分で鼻高々に語るのだけれど、ソクラテスにとことん執拗に追求されまくった結果、全員彼にやりこめられてしまったというお話に関してはこの前にした通りよ」


「たしかに、質問だけをし続けている限り、反論されるリスクもないっすね」


「そう! 質問する側は、質問される側よりも常に優位な立場にいるのよ。就活における面接官ってなんだか強大な力を持った脅威的な存在に思えるけれど、彼らは実際に就活生よりも優位な立場に君臨しているのよ。ソクラテスは謂わば、何を答えても徹底的に追及してくる鬼の面接官のようなものね。ああ、天野君はまだ餓鬼だから、就活なんてしたことなかったわね」


「この話の流れからそんな風に貶められるとは思ってもみませんでした……」


 がっくりと肩を落として言うと、先生は「あら」と首を傾げた。


「貶めたつもりは毛頭ないわ。若さは、何にも勝る一つの財産だと言えるもの。時々、この先どんな未来をも選択していくことのできるあなたたち高校生をとても眩しく思うわ」


「……田上先生はそこまでいうほど俺らと変わらないじゃないすか」


 先生は新卒で教師になって、今年で二年目だという噂をどこかで聞いたことがある。高校生の俺からしたら大人だけれども、長い社会人生活の中ではまだまだ新米で、どちらかといえば俺たちに近い存在だ。そう思って唇を尖らせたけれど……、


「私にとっての高校時代は、もう霞みがかっているくらいに遠い昔の話よ。最近では大学時代すらも懐かしいわ。社会人になって、学生時代とは天と地がひっくり返ってしまったほどに違う生活が始まったから余計にそう感じるのかもしれないわね」


 あまり感慨もなさそうにさらりと告げられたその言葉は、さっき飲んだブラックコーヒーのように苦く染み渡った。


 先生はやっぱり、俺からは随分遠く離れたところにいるのだと今更のように思い知らされる。そんなわかりきっていたことに口ごたえしてしまった自分が恥ずかしくなってきて、先生の大きな瞳から逃げるように視線を落とした。


 先生は、俺のわずかな動揺に気づかなかった。いや、もしかすると気づかないふりをしてくれたのかもしれない。「話を元に戻すわね」と前置きしてから、再び語り始めた。


「プラトンという人の著作に『プロタゴラス』というこの哲学者の名を冠した作品があるのだけれども、この本にはプロタゴラスVSソクラテスの手に汗握る議論バトルがおさめられているわ。哲学書というと、前知識なしに読んでも全く理解できないちんぷんかんぷんなものというイメージを持っているかもしれないけれど、プラトンの著作を手に取ったら、少しはその堅苦しいイメージが変わるかもね。ギリシア神話の神々の名前が当たり前のものとしてばんばん登場するから、そのあたりを知っていないと少し読みづらいかもしれないけれど、少なくとも全く何を言いたいのかさっぱり分からないほどではないと思うわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る