第21話 文才溢れる芸術家肌な哲学者
プラトンが、それだけの熱意をもってしてソクラテスの教えを必死に伝え広めようとしたのは、きっとそれだけ彼の教えに感銘を受けたからなのだろう。
先生は、ソクラテスが無知の知に至った経緯について説明していた時、怒涛の質問攻め攻撃ばかり繰り出していたソクラテスは当時のアテネの人々から嫌われてしまったと言っていたけれど、中には熱心にソクラテスの教えに深く心揺さぶられた人もいたのだ。
「数多くの著作を遺しているプラトンだけれども、その作品は文学的な観点から見ても華々しい評価を得ているわ。彼は哲学者の中でも、相当の芸術家肌ね。前に紹介した『プロタゴラス』のように、ソクラテスが圧倒的な知性で討論相手を華麗になぎ倒していく作風も爽快なのだけど、プラトンの最大の武器でもある芳醇な文学的香りの漂う筆致を心ゆくまで味わいたいのなら、『
『
タイトルの響きからもどことなく優美な空気は感じ取れるけれども、正確にはどういう意味なのだろうか。首を傾げていると、先生は俺の頭の上に浮かんだクエスチョンマークを見て取ったように、すらすらと応えてくれた。
「
きらきらと輝きを増していくその瞳は、いつ見てもハッと息を呑んでしまうほどに綺麗で、軽やかな口調で語られるその言葉には続きを知りたくなる魔法がかけられているようだ。
「想像をめぐらしてみて! 大きな邸宅に集まった青年たちが、ワインの注がれた盃を片手に、口々に【エロース神】を褒めたたえているなんて、とってもきらびやかでしょう?」
うんうん………………って、エロース神!?
想像をめぐらせるよりも前に、先生の柔らかそうな唇から飛び出した【エロース神】という、どことなくふしだらな妖しい響きに狼狽し、固まってしまった。
「エ、エロ……?」
先生は、古代ギリシャの邸宅に思いを馳せるようににうっとりと瞳を細めながらも、口ではしっかりと頬を赤くする俺をいたぶることを忘れない。
「そう。エロの二文字に咄嗟に飛びつく天野君のようなドスケベのことをエロ男と呼ぶけれど、そのエロは、元はといえばこの【エロース】が語源になっているのよ。古代ギリシアの愛の神、ローマ神話ではクピドと呼ばれているわ。俗に言うキューピッドのことよ」
言い返したいのはやまやまだったけど、今回に限ってはあながち完全なる言いがかりでもなかったので、悔しいながらに口をはさむことはできなかった。
「キューピッドというと、その携える金の矢で心を射抜かれると、たちまち恋に落ちてしまうという伝承で有名ね」
「俺でも知ってるくらい有名な話ですね。いかにも女子の好みそうな迷信っす」
先ほど受けた思いもよらぬ屈辱によって心がささくれ立ち、いつも以上に雑に返答すると、田上先生はその瑞々しい唇を尖らせて、新雪の頬を少しふくっと膨らませた。
「天野君。神話をどうせ嘘っぱちばっかりの与太話だって軽視するのは、あまりにもナンセンスよ。当時の人々は、神話こそがこの世の成り立ちの経緯そのものであり、世界で起きるあらゆる現象の根拠であると本気で信じていたわ。これはつまり、逆を返せば、神話には当時の人々が抱いていた世界観が色濃く反映されているということ。神話を学ぶことによって、当時の人々がどのように世界を捉えていたかということを知ることができるのよ。そう考えたら、神話を学ぶ価値は大いにあるのだと分かって、もう迂闊に神話をないがしろにする発言はできなくなるわ。分かったら、土下座なさい」
「うっ……軽率な発言をしてすみませんでした」
流石は田上先生だ。
普通の女の子なら、『天野君、ロマンがなさすぎ! 女心を全く分かってないな~』とため息を吐かれそうなところで、先生は間髪入れずに隙のない正論を繰り出してくる。おかげで素直に納得させられてしまったどころか、感心までさせられてしまった。感心したからといって、土下座まではしないけど。
「神っていうと欠点の一つもないような完全無欠の超越した存在を思い描いてしまうかもしれないけれど、ギリシャ話に登場する神々は、むしろ欠点ばっかりって感じで驚いてしまうほどに人間臭いわ。ギリシャ神話はプラトンの著作を読むならば絶対に知っておいて損はないし、単純に読み物としても面白いからお勧めよ」
「へええ……人間臭い神々なんて、全然、想像つかないっす」
「数多くの神々の中でも頂点に君臨している大神ゼウスは、信じられない程の浮気者で強烈よ。惚れっぽい上にすぐに事に及んでしまう様はかなり衝撃的だけど、彼の正妻であるヘラの執念深さも中々のものなの。そのゼウスの愛人たちに対する残忍な嫌がらせは、ヘラの嫉妬列伝としてまとめあげることができるほどに多岐にわたっているの。少し話が逸れてしまったけれども、このやんちゃな神々が織りなすギリシャ神話の中で、エロースは人間の恋愛と密接に結びついている愛の神様よ。エロース神こそ、人が恋に落ちる原因であると考えられていたの。この神が数多の神々の中でも、比較的初期の段階で登場するところから見ても、当時のギリシアの人々が愛に大きな価値を見出していたことが分かるのよ。『饗宴』は、そんな偉大な愛の神であるエロースをみんなで褒め称えようという提案から始まっていくのよ。エロースは愛の神様だから、話題の中心は、自然と愛についてになるわね」
愛とは。
ついに話題が確信に移り始めた時、胸が自然と高鳴った。
「エロースについて、皆口々に褒め称えては、この神がどうして賞賛に値するかを解き明かしていくわ。賞賛者の一人目であるパイドロスは、人は愛する人の前でこそ、勇敢になれるのだと主張しているわ。愛する人の前でこそ、人は最も格好良く美しくありたいと願う。愛する人に自分の格好良いところを見せたいと願う時は、どんな臆病者にでも並々ならない勇気がわいてくる。そんな風に人々を善き方向に導き高めてくれるからこそエロースは称賛に値する神であるという主張は現代の私たちにも通ずるところのある感覚だから分からなくもない気がしてしまうわね。でも、そんな風に手放しにエロースを称賛するパイドロスを、二人目のパウサニアスはばっさりと否定するのよ。彼は、愛であれば全てが美しいわけではなく、愛し方こそが最重要視すべき問題であると言うわ。つまり、良い恋愛もあれば、悪い恋愛もあるってこと。そして、善き愛とは、その相手から受ける善い影響によって、自らに備わる徳をも高めてくれるようなものなのだと主張するのよ」
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