とうどうさん~005

 その日から幸は引き籠った。

 東山は幸の傍でじっとその様子を見ていた。

 泣く事は少なくなったが、それでも突然泣き、泣き止んだら風呂場でリスカを繰り返し。

 気を失う時もあったが、その時は東山がやはり救出した。

 幸の携帯には何度もコールがあったが、それをすべて無視してベッドに潜った。

 外に出る時もある。コンビニやスーパーだ。適当に食料を買って家に帰る。一応身なりは整えて外に出ていたが、憔悴し切った表情とやつれた顔で何かあったと気付かれるのは充分だった。

 しかし、誰もなにも訊ねない。東山の事故死が関係している事は薄々気づいていたから。

 よっておかしな陰口を叩く輩もいた。

「東山さんの、ほら、颯介君、仲良かったじゃない?それじゃない?」

「あの子、嘘つきでしょ?あんないい子、なんて言って騙したのかしら……」

「手首の包帯見た?後追いよ後追い。あんな子の為に後追い自殺をしようとするなんてねえ……」

 この様に、近所のババァのいい話の種になるのは明白だった。あいつ等はゴシップが生き甲斐のようなもんだからそうなる。

 つうか近所では仲が良かったとの認識だったのかと少し驚いた。あと、幸のリスカは俺がくたばる前からだババァ。

 まあ、兎も角、幸は一応食べる気はあったと言う事だ。言っておくが、幸は料理が出来る。というか家事全般出来る。母親の関係でそうなったと言うべきか。

 それなのに、買ったのは食糧だ。食材じゃない。料理をする気が全く無くなったと言う事だ。

 ただいまも言わずに家に入る幸。家の中の掃除の全くしていなかったので、妙に埃っぽくなっていた。

「……おかえり」

 台所に入った幸に声をかけたのは、幸の母親。気怠そうに、イライラしながら。なるべく顔に出さないようにしていたようだが、バレバレだった。

「……何で帰って来たの?」

 買った食料をテーブルに置いて、自分はコップに水を入れる。

「……アンタ、学校に行ってないんだって?担任から電話が来たよ、私に」

 髪を掻きならが。イライラをどうにか誤魔化そうとしてる。

「……そうね」

「隣の颯介君が死んでから行ってないんだって?アンタってあの事そんなに仲良い訳じゃ無かったでしょ?なんで?」

 シンクで黙って聞いていた幸の拳が握られた。

「家も掃除してないし。久し振りにシャワー浴びようとして風呂に行ったらアレだしで、なにあれ?自殺しようとしているの?あれじゃ死なないよ。死にたいんなら首括った方が早い」

 リスカの跡を見ても動じなかったのかと驚いた。

「というか丁度いいから死んでよ?あの人、子供嫌いだからって一緒になってくれないのよ。アンタが死ねば私も幸せになれるんだけど」

 耳を疑った。幸に、娘に死ねと言ったのか!?

「…………何度目よ?」

「あん?」

「何度目なのよ!子供がいるから結婚は無理だって断られたの、何度目だって聞いてんのよ!今の男だけじゃないだろ!いい加減気付けよ!枕営業なんかしているからそうなるんだよ!!」

 怒り其の儘の形相で母親にそう叫んだ幸。見た事がない表情だった。流石にビビった。見た事がない迫力だったから。

 無言で立った母親。幸の所まで歩いて、ぶん殴った。グーで。

「……枕でもなんでもいいんだ。アンタのご飯はそうやって稼いたお金なんだ。それを感謝もしないで罵るとかさぁ……隣の嘘つきにどれだけ毒されたの?」

 ぶん殴られた頬を押されて睨み付けた幸。ゾッとする程の憎悪の瞳で。

「颯介は関係ない!!そうやって稼いだ!?自分が気持ち良くなる為だろ!!ふざけんな!!!」

 心臓が跳ね上がるかと思った。いや、もう死んでいる方跳ねあがる事は無いけど、そう思った。

 自分が気持ち良くなるため……

 それはまさしく、東山の嘘そのものじゃないか?

「趣味と実益を兼ねてと言って欲しいね。大体さ、毎日お金上げているでしょ。そのお金も今の彼から貰ったもんなのよ?一応ながらアンタのこと気にかけているんだからねあの人は?」

「気にかけている人が子供を理由に結婚を断ると思ってんの!?お金を寄越しているのも下手に餓死されたら困るからでしょ!!アンタがそいつに夢中になったおかげで自分におかしなとばっちりが来ないようにする為でしょ!!そもそもなんで帰ってくる!?それはその彼に言われたからでしょ!!このお金を持って様子見てくれって!!」

 頷く母親。

「その通り。ほら、優しいじゃない?」

「遠回しに家に帰れって言われているんだよ!!気付けよ!!それも何人目なんだよ!!」

 幸の母親に彼氏がいた事は知っているが、何人からもそんな事されていたのかと愕然とした。

「……ギャンギャン騒ぐのはいいけどさ、近所の手前、学校には行ってよね。嫌なら山で首吊るとか、湖に飛び込むとかさ」

 そう言って財布から千円出してテーブルに叩き付けた。

「できれば後追いの設定が良いね。私のせいで自殺したとかの遺書は残さないでね」

 一切目を合わせずに、捨て台詞を吐きながら出て行った。幸はその場で崩れ落ちた。

 幸は泣かなかった。ボーっとしていた訳でもない。悔しい。そんな表情だった。

 無理もないと思った。あんな母親から良いように言われてムカつかない筈がない。

 しかし違った。それは幸の独り言で解った。

「……颯介……何で死んじゃったの?高校卒業したらもう一度告白してって言ったじゃない……親を当てにしなくてもいい年齢になったら……」

 顔を伏せた。そしてぐすぐす泣いた。

 そうか。幸は逃げたかったんだ。この家から出て行きたかったんだ。俺以上に母親を諦めていたから。

 好きとの感情も、ひょっとしたら同じ環境だったからの好意かもしれないが、自分に付いてくるつもりだったんだ。

 だったらやっぱりくたばっている場合じゃねえ。幸と一緒にこんな町から出て行って、一緒に幸せにならなくちゃいけない。

 そう決意して幸の家から飛び出した。あの使者とやらを捜す為に――


「ん?それってこう言う事?東山君を利用して一緒に渓谷、あるいは親から逃げようとしたって事?」

 遥香が話の腰を折って訊ねた。東山、一瞬険しい顔になる。

「そんな事じ「はい、その通りです」……そうだってさ……」

 庇おうとした東山に被せて肯定した藤咲さんだった。

「ふ~ん……東山君の方はそれでも良かったんだ?」

「……ああ。幸が好きだって感情が先にあるからな。幸が望むなら何だってする」

「でも、それって毛嫌いしていたお母さんと同じ事しているよね?」

「そんな事じ「その通りです。私も結局あの女と同じだって事です」…………そうなんだってさ……」

 また被せられて肯定した。東山は流石にガックリとテーブルに伏した。

「まあ、話の腰を折って悪かったよ、続きをお願い」

「え?あ、ああ、うん……」

 何か東山が俺に咎めるような目を向けるが、文句は直接言ってくれ。俺は言えないから。

 

 ともあれ、この日から使者探しをした。そうは言ってもどこに居るのか見当もつかない。

 闇雲に町内を駆けたり、宙に浮いて見下ろしたり。

 時間の概念が薄かったって言い訳を此処でも使わせて貰う。

 結果、東山は使者に会えた。だが、それは葬儀後四十九日の事だった。

 迎えに来たぞ。もう心残りは無いだろう。あっても連れて行くが。使者は唐突に東山の目の前に現れてそう言った。

 はあ?と思った。だって使者を探す為に何もしなかったんだから。

 食って掛かった。お前が出て来ねえから時間だけが経過したじゃねえかと。

 それはあの娘に対する心残りか?そう訊ねられて、ああ!!と胸を張って言い切った。

 ならば最後の別れを告げに行くといい。そう言ってまた姿を消した。

 最後も何も、生き返らせる方法を教えろって言ってんだ!!そう叫んだが、何もなかった。

 と言うか普通に幸が気になった。あれから糞使者を探す為に幸から離れてしまっていたのだから。

 なので幸の家に向かった。

 そこで呆然とした。

 最後の幸の家に入った時はいつだったか記憶がないが、その時よりも遙かに酷いありさまだったのだから。

 壁には物をぶつけた跡がいくつもあり、例のリスカの血であろう跡も無数に飛んでいた。

 茫然としながらも台所に行くと、これまた掃除した形跡がない。カップめんがスープが入った放置してあったり、ペットボトルも飲み掛けがゴロゴロ置いてあったり……

 母親の自室は、ベッドの上の布団が切り刻まれて羽毛が散らばっていた。箪笥なんか全部ひっくり返して中身を散乱させていた。

 風呂場もそうだ。あの時よりも更に血の色が濃くなった浴槽。壁のタイルもあの時よりも多く血が飛び散っていた。

 こんな状態なら、幸は……

 酷く胸騒ぎを覚えて二階に向かう。

 そして幸の部屋に入った途端、驚愕が更に増した。

 ゴミ屋敷と言われても違和感が全く無い。ベッドしかスペースが無い。

 そのベットには、虚ろな目をして仰向けに寝ている幸の姿……

 かなりやつれた。頬がくぼんで骨が浮き出ていた。

 手首の傷も、あの時の比じゃない、

 その手首を切るための剃刀もそこら辺に放置されている。

 あれから一体何があった!?

 今更ながら後悔した東山。なんで使者なんか探しに行ったんだと。幸の傍に付いているべきだっただろうと。

 その時、背後に使者が現れた。特に何の感情も示していない顔で。

 使者が感情を現さずに言う。

 心残りが増えたようだが、聞かぬ。と。

 東山はあらん限りの声で吠えた。

 ふざけんなぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!戻せ!!俺を戻せ!!!

 やはり感情の無い声で答える。

 大体は先祖が迎えに来る事になるが、お前には自分が迎えに来た。この意味が解るか?

 解る訳がない。大声を張ったあとなので、肩で息をしながら(死んでいるので息はしていないが)殺す勢いで睨みつけるのみ。

 意外と居るのだ。身内の縁が薄い人間は。そう言った人間には加護が薄い。よって殆ど短命になる、お前も漏れずにそうだと言う事だ。

 だから何だ?俺は戻せと言った筈だ!

 やはり声を張って言った。荒げて。

 加護が薄いと言う事は、現世に留まる可能性も高いと言う事に繋がる。それはつまり、悪霊になると言う事だ。聞いた事があるだろう?彷徨う悪霊との表現を。

 彷徨う事を望んでいるんじゃない!!俺は戻せと言ったんだ!!

 悪霊になれば地獄に堕ちる事になる。自分の役目は迎えに行く事だが、頑なに拒否する者にはその役目を放棄する事も許されている。後は勝手に彷徨う事だ。

 そう言って早々に消えた。面倒を見るのは此処まで。後は知らぬ。堕ちる事は止めはしない。

 使者はあくまでも迎えの為の使者。受け入れた者には慈悲で連れて行くが、拒んだ者には慈悲は無い。これは見限られた事にも繋がる。

 

 目を覚ました。

 周りを見ると、間違いなく自分の部屋。

 訳が解らす起き上がって部屋内をウロウロする。

 自分は死んだ筈じゃないのか?なんで生きている?あれは全部夢なのか?

 全く脳内で整理がつかない。現状の方が夢だと言われた方がしっくりくるくらいだった。

 軽く頭を振った特、壁に掛かっていた時計が目に入った。

 朝6時?早い……って訳じゃない、身体を鍛え始めた頃、この時間に起きて軽く運動した事もあるのだから。

 何の気なしにスマホを見る。

 ………1月28日?死んだのは春だったから、やっぱり夢なのかあれは?

 釈然としないながらものそのそと着替える。

 その時頭、いや、脳が痛んで顔を顰めた。

 なんだ一体?そう思った時に、脳内に映像が流れた。迎えに来たと言う使者の姿だった。

 やはり訳が解らずに、脳内の映像を注視する。

 使者の口が動いた。しかし聞こえない。しかし何を言ったのかが解った。

 お前の希望は戻す事だったな。希望どおりに戻してやったぞ、お前の心残りまでな。

 やっぱり夢じゃない?じゃあ自分は生き返ったのか?

 違う、生きながらに地獄に堕ちただけだ。その地獄は無限地獄と言う。お前はこの先何度死んでもそこに戻る事になる。永遠とも言える時間をただ歩き続ける事になる……

 言い終えたと同時に消えた。脳の中の痛みも無くなった。それとほぼ同時に呼吸が荒くなり、汗が尋常じゃないくらい流れ出た。


「……此処で話の腰を折って悪いが、俺はさっきも言ったように一回しか死んじゃいない。幸もそうだ。この無限地獄って一体なんだ?」

 それは深刻そうに。解らんから不安だって事だな。

「多分、この先お前が死んだとしたら、また1月28日の朝6時に戻る。何回死んでも同じ所に戻る事になる」

「……やっぱそうなのか……」

 困った感じで溜息を付いた。しかしだ。

「お前の望みどおりだろ。寧ろ望みを叶えてもらってありがとうだろ。後悔すんじゃねえよ」

 それは結構ドスの利いた声で。

「……お前は何回も死んだとか言ったよな?どうやって抜け出したんだ、その地獄から」

「俺とお前じゃ経緯が違う。お前は望んで堕ちた。俺のは不可抗力のようなもんだ。だから多分、俺より辛い思いをする事になるだろう」

 天界で修行して来たから解る。望んで堕ちた者に慈悲はない。あったとしても、それは本当に死んで地獄で受刑する程度の物だ。永遠とも言える時間の中でな。

「……俺が戻って来なかったら、幸は……」

「藤咲さんも堕ちたんでしょ、無間地獄に。いいじゃん、好き合っている者同士、ずっと一緒に居られる地獄なら」

 嫌味と言う訳じゃない。本心って訳でもないが。

「しかし、俺だけなら「その通りです。私も颯介も望んで堕ちました。今更まともな人生を歩めるとは思っていません」……そういうこった……」

 げんなりする東山。対して覚悟を決めているっぽい藤咲さん。違和感バリバリだな……

「……どっちか解んねーが、一回しか死んでいないってのは嘘だろ?」

 は?ってな顔の東山と、凛とした藤咲さん。うん。見切ったわ。遥香に目を向けると、頷いた。遥香も見切ったって事だ。

「藤咲さん、何回死んだの?」

 遥香の問いに目を剥いて藤咲さんを見た東山。やはり藤咲さんは凛として表情一つ変えず。

「さ、幸?流石にそれは嘘だろ?こいつ等の嘘に乗っかる必要なん「流石ですね、お二人共。よく解りましたね」ホントに!?」

 超ビックリしていた。今の今まで気が付かなかったって事だ。それだけ藤咲さんの『スキル』がスゲーって事なんだろう。

「まあ、いずれ颯介にもばれるかな?とは思っていましたが、最後の最後にあの女を殺せましたんで、それ以降の繰り返しは無いですね」

「湖の遺体?」

「はい。その前に緒方君に質問します。緒方君の繰り返しはいつでしたか?」

「俺の場合は高校入学の日だな」

「私はあの女に殺される日からです」

 つまり、殺されて戻って直ぐ殺されてって事か?

「記憶にあるだけでいい、何回繰り返した?」

「恐らく100くらいは」

 東山は真っ青になった。予期せぬ事実を突きつけられたら、そんな顔色にもなる。

「だけど、それって藤咲さんの責任じゃないよね。東山君から受けた呪いみたいな物でしょ?」

 更に蒼白になった東山。助けるために戻って来た筈が、実はそれが地獄に叩き落としたって事だ。麻美と同じだ。だからそれに関しては責めはしない。藤咲さんも責めたりしていないだろ?だったら俺達が責めるのはお門違いだ。

「颯介も理解が及んでいないようなので、その話もしたいと思います。じゃあ颯介、続きを」

「え!?今お前が話すとか言わなかった!?」

 藤咲さん、深く溜息をつく。

「私が戻るのはあの女に殺される日。そう言ったでしょう?だったらその前は颯介が話して然るべきじゃない?トーゴー君の事とかもあるし」

 俺の拳が握られた。それを察した東山。

「言っとくが、トーゴーは強いぞ。俺達の中でも一番だ」

「ふーん。それが何だ?俺は敵が強い弱いで喧嘩した事はねーんだが」

 やり合う事になったら普通にやる。ただそれだけだ。

「……的場とも戦ったんだから、そりゃそうか。だけどトーゴーは……」

「いいから続きだ」

 やる事になるか回避するのかは今の話じゃない。今はお前が堕ちた話。藤咲さんを堕とした話だ。

「そうだな。それもその通り。だけどその前に飲み物追加していいか?」

 見るとアイスコーヒーが空になっている。俺のもそうだ。

 つうかドリンクバーじゃねーんだからそんなにがぶがぶ飲めないんだが……単純にお金の問題で。

 だけど、こればかりは仕方がない。マスターを呼んで追加しよう。

 注文の品が揃うまで休憩にした。俺もそうだが、東山も繰り返しの話をする時は疲れるようだ。

 しかし、ただボケーっと待っているのもなんだと言う事で話題を振る。

「とうどうさんって何人いるんだ?」

「まあ、その話は出て来るよ、幸が死ぬまでを語るんなら」

 追々だって事だな。まあ、それもいい。

「槙原さんは繰り返しをしていないようですが、堕ちた、と言えるんですか?」

「うん。尤も、死後の話らしいけど」

「死後、と言われましても。まだ生きていますよね?」

「ああ、なんか世界が違うみたい。よく解んないけどさ。堕ちた私は50歳まで生きて死んだらしいんだけど、まだその魂は地獄に居て受刑中みたい。今の私は並行世界の私の一人って感じ?」

 向こうでも話をし出したな。遥香が言うには無間地獄から引っ張り出されたようだが、藤咲さんにはその事を言わないのか?

「並行世界、ですか。何度も死んで戻ってくるとのロジックは理解があまりできませんでしたが、成程、違う世界に逃げて来たと言うのなら納得かもですね」

「逃げて来た……成程、そう言う考えもあるのか……」

「違うんですか?私の場合はあの女から逃げたと思っていたのですが。颯介も現状から逃げたい意志の表れでそうなったと」

「うん……私の場合はもっと一緒に居たい、ずっと居たいって感情で誰の話も聞かなかったから堕ちた。と思っていたんだけど、逃げて来たであの現状から目を背けていたから堕ちたのかな、って今思ったよ」

 なんか核心部分に触れるトークだな……何かやっぱり遥香と藤咲さんは相性が良いのかもしれない。堕ちたと言う共同の事柄もあるし、話しやすいのかも。


 追加の飲み物が来て再開。

 生き返った東山だが、半信半疑は当然の事で。

 何となくそろりと一階に向かうと、母親が既に朝食の準備に取りかかっていた。

 東山を一瞥し、作業に戻る母親。おはようも何もない、以前と全く同じ。

 本当に生き返ったのか……?そう疑問に思うも、なんで1月28日か解らない。

 ボーっと見ているように感じたのだろう、母親が苛立ちを露わにして言う。

「アンタ、走らなくていいの?そこに居られちゃ邪魔なんだけど」

 くたばる前の母親そのものの物言い。以前は全く腹も立たなかったが、今回は違う。色々整理が追い付かないので無視する事も出来なかった。

「なんだその言い草は?邪魔だって言うならなんで産んだ?お前が俺を邪魔にしているのは今に始まった事じゃねえだろうが。少なくとも、物心ついた時から邪魔にしていたよな?」

 いつもは何を言っても逆らわない、というか返事すらしない東山に多少面食らった様子だったが、直ぐに怒りに変わる。

「私だってアンタなんか産みたくなかったわよ。あいつがちゃんとしてくれたら……」

「親父は一応ながら働いて家に金を入れてくれてんだろ。お前の育児放棄と同じ事を家庭にしているだけだ」

 生意気に意見したと思ったのか、はたまた育児放棄の図星に気分を害したのか、母親が東山に詰め寄って来た。平手打ちをしようと振りかぶりながら。

 いつもならこんな事はしない。少なくとも戻ってくる前はしなかった。しかし今は苛立ちが勝っていた。

 なので逆に平手打ちをかました。自己流ながら身体を鍛えていた東山の平手打ちは、母親をぶっ飛ばすのに充分な破壊力だった。

 ヤバいと自分でも思った。咄嗟も手伝って母親によって抱き起した。

「おい!!大丈夫か!?」

 顔を顰めたかと思ったら、頭を振って目を開ける。

「……母親に手を上げるなんて、どこまで外道なんだ!!」

 外道はお前だろと思ったが、咄嗟、しかし、そうだったら良かったとの強い気持ちで口から出た嘘。

「何言ってんだ?勝手に倒れたんだろ。ビックリして助けた俺にそんな事言うのか?」

 しまったと思っても後の祭り。酷い逆ギレでビンタの嵐を食うかもな。と思った。逆ギレじゃないような気もするが。

「あれ?そうだっけ…………そう……か、そうだった。アンタにお礼言いたくないけど、まあ、ありがと」

 母親は一人納得して立ち上がった。そして再び台所に立つ。

 何が起こったのか自分でも全く理解できなかった。なのでやはりボーっとして母親を見ていた。

「何してんの?走りに行かなくていいの?」

「え?あ、お、おう………」

 やはり呆けながらも外に出る。

 ビンタしたのは間違いない。咄嗟に嘘を付いたのもいつも通り。

 なのに、それが無かった事になった?

 全く理解できなかったが、取り敢えず走る。

 その前に、幸の家の前で脚が止まった。

 いや、意識は勿論していた。だが、脚を止めるに足る理由がそこにあった。

 ミドルクラスのセダン。幸の家にその車は無い。

 ならば客と言う事になるが、じゃあ誰だ?言っちゃなんだが幸も親戚付き合いは無い筈。この街に越してきた時に殆ど縁が切れた筈。

 気になってこっそりと庭の方に向かって覗き見をする。

 椅子に座っているのは幸。その向かいに母親と知らない男。

 何か話しているが……窓を締め切っているおかげでよく聞こえない。カーテンもハンパに開いている状態なので、いつバレてもおかしくない。

 そういや、なんで1月28日なんだ?と思ったが……

 今日、この日に幸のリスカが始まったからか?もしくはこれが切っ掛けで始まるのか?

 何となく確信し、しかしこれ以上の接近はマズイと、静かにその場を離れる。

 そして車に回り、何となくスマホにナンバーを控えた。

 ランニングを再開し、何となく考える。

 あの男が母親の彼氏だとして、幸はこう思っていた筈。『良かったね』と。他ならぬ本人がそう言ったんだから間違いない。

 だけど、アンタがいるから結婚できないとか言われていなかったか?じゃあなんで朝っぱらから家に来た?

 ひょっとすると、夜から来ていたのかもしれないが、幸的に彼氏の存在は気にしない、構わないだった筈、事実間が空いているとは言え彼氏はちょくちょくできている。中には結婚話まで行った男もいただろう。こっちも幸がそれとなく言っていた。

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