とうどうさん~004
「おまえ………これ………」
取った手を力いっぱい振り解く幸。力がない幸に振り解かれるほど、力無くなっていた。
「………ちょっと料理で」
袖で包帯を隠しながら言うが、それは当然嘘だと見破る。
「嘘言ってんじゃねえよ!!料理でどうやったら手首切る羽目になるって言うんだ!!」
「嘘つき颯介に嘘つき呼ばわりさせるとは……」
オーバーリアクションの如く、両ひざと両腕を地に付いて嘆いた。
「それも嘘だろ、煙に巻こうとすんな。お前も知っている通り、俺は嘘つきなんだぜ?」
暫く考えて立ち上がった幸。手と膝に付いた埃を払う。
「それもそうか。嘘つきに嘘は通じる筈がないか」
「納得した所で、言え。何があった?お前も知っているように、俺は身体を鍛えてんだ。誰かに脅されたとか、虐められているとかだったら報復できるぞ。つうかするから言え」
「……言ったところでどうにもできないよ」
力無く笑いながら。
だが、そうか。脅しとか虐めじゃないのか。もしもそうだったら言う筈だ。少なくとも、此処だけの話にしてって前提で。
そこまで深い仲ではないと言われそうだが、そうじゃない、幸なら言う。事『関係ない奴』に関しては。
だったら、言わない、言えないのなら『関係ある奴』だから言えないのだ。だったら今度は東山に関係あるのか、自分に関係あるのかになる。
前者なら心当たりは全く無い。そもそも、親でさえも『関係ある』とは思っていない。
ならば一択になる。
「お前の母ちゃんか?」
「……………」
無言。つまり肯定だ。嘘を見破れるのなら、転じて真実も見る事が出来る。今気付いた事だが。
「そう言えば、お前の母ちゃんってこの頃見ないな?」
「……忙しいからね。仕事で……」
これは本当の事。保険のセールスレディはお客に呼ばれたら出向く。休みなんてあってないようなものだ。
だが、全部じゃない。
「仕事の他は?」
「……………新しい男とか」
ちょっと固まってしまった。新しい男!?彼氏出来たって事か!?
「へ、へー。だ、だけど、それは別に?じゃねえの?」
「それはね。母さんに彼氏が出来ようが何だろうがどうでもいい。父さんと別れて何年も一人だったし、私に手が掛からなくなったから余裕で来たんだなって喜ぶ事だしね」
頷く。というか、幸の母さんは彼氏の類は間隔が開くが、居る時もある。付き合っては別れ、他の男を見付けては付き合っては別れを繰り返している。
小学の頃、彼氏と約束があるとかで、遠足の弁当がコンビニだった時もある。まあ、東山も弁当に関してはあまり変わらなかったが。
しかし、それが手首の傷と何か関係あるのか?良かったねと思うくらいだから反対していないんじゃないか?
「じゃあそれはどういう意味?」
素直に手首に指差して問うた。幸はやっぱり手首をしきりに気にしながら触って、しかし俯いた。
「言わないのか?」
「……颯介には関係ないからね」
そう言われちゃ返す言葉がない。家がお隣だから関係あるとは思えないし。
仕方がない。言いたくなかったし、信じて貰えないだろうが言うしかない。
「俺は実はお前の事「ホント、嘘ばっかり」おおおおおい!!」
決死の告白をしようとしたが、出鼻を挫かれた。ついびょんと跳んで突っ込んでしまった。
「嘘じゃねえよ!ホントだよ!お前が隣に越して来てからすぐに好きになったんだよ!」
なんか中腰になってわちゃわちゃと腕を動かした。傍から見れば滑稽なジェスチャーだろう。
「だって颯介嘘ばっかりだし。あ、いや、冗談だったっけ?」
「これは冗談じゃねえから!!信じてよホントに!!」
「いや……本気で告って来たんだったら、それはそれで気持ち悪いって言うか……」
「なんで!?ちょ、マジで身を捩って嫌そうな顔すんなよ!!」
「だって、本当だとして、それに応えたとして、付き合ったとして……他の人達になんて言えばいいの?私って颯介と付き合ったんだよって言うの?」
「言っちゃ駄目なの!?」
「言ったら正気を疑われるよ。なんであんな奴を選んだんだ?って。1年の時告白してきた三島山とか、二年の時に告白してきた高校生の方が絶対に顔も良いし性格も良いよって」
え?意外と告白されてんのな……つうか三島山って幸を好きだったの!?高校生って、どこの高校!?初めて知った意外な事実に、心が付いていかない東山だった。
幸が笑う、嬉しそうに、クスクスと。
「ま、颯介の気持ちは有り難いよ。その気持ち、本当なら高校卒業まで返事は待って」
「な、なんで高校卒業?」
「卒業したらお互い親に干渉させないから気が楽でしょ?」
されない、じゃなく、させないか……しかし、しかしだ。
「俺は親なんか関係ないんだけど……」
「颯介の両親が颯介を諦めたのは知っているけど、なんだなんか言って高校までは親のお金で暮らさなきゃいけないでしょ」
本当に関係なくなるのは自立してから、と言いたいようだ。
「じゃあ高校に行かないで就職したら?」
「最低限高校は行った方がいいよ。出来れば大学って言いたいけど、颯介の頭じゃねぇ……」
「本気で嘆息するなよ!!つうかその弁じゃ、お前は俺の告白受ける気があるって事じゃねえか?」
「だって、隣に越した時から好きだったし」
……………………………………………………………………………………………
時が止まった。今何と言った!?
「え?ま、マジで……?」
「颯介じゃないんだから嘘は言わないよ。越して来た時、不安だったとき、颯介はいつも笑わせてくれたじゃない。嘘ついて。それだけじゃない、クラスになかなか馴染めなかった私に、俺を責めればクラスの仲間に入れるよって言ってくれたじゃない。そこから、かな?」
意図して行った事がちゃんと感謝となっていたのも驚きだが、好きとまで好感度があったとは、と軽く感動した。
しかし、なんか有耶無耶にされて幸はそのまま家に入った。理由は至極単純。暗くなったから。
その理由なら引き止る訳にもいかず。ニヤニヤしながら自室に入った。
そしてボスンとベッドにダイブ。
実は両想いだったとニヤニヤが治まらないので、布団でニヤニヤを隠そうとしていたのだ。
「そうか~。幸もなぁ~。いや、うん、幸もな~」
もうずっとこればっかであった。もっと大事な事があった筈なのに。
その大事な事なんかすっかり頭から抜け、眠りに付くまでずっとニヤニヤしていた。
そして朝。
やはりニヤニヤを隠しきれずに、既に仕事に出た両親が申し訳程度に用意した朝食を取り、ウキウキ気分で学校に向かう。
そしてクラスにテンション高めに入った。
「おはようお前等!!」
全員キョトンとした。話す相手がいない東山がおはようなんて言う事はまず無い。なので咄嗟に返してしまったクラスメイトもいた。
「お、おう、おはよう……」
「お、おはよう……」
ざわざわしているクラスを余所に、鼻歌を歌って席に着く。廊下側の一番後ろの席だ。
なんだか幸と早く話したい。違うクラスだから次の準備時間まで待たなきゃいけないなぁ、とか思いながら授業を受けた。
先生もいつもと様子が違う東山に戸惑っていた。
休み時間、隣のクラスに突入……とは流石に行かず。
自分は嫌われているんだから、話掛けられたら幸に迷惑が掛かると我に返り、悶々と授業を受け続けていた。
そして帰宅時間。
校門にダッシュする東山だったが、ハタと気が付く。
一緒に帰ると言っても、自分は嫌われていたんだった。そんな自分と一緒に帰ったら幸がハブられる。
項垂れて一人寂しく帰路に付いた。ま、まあ、隣の家だし、話すチャンスはいくつもある訳だし。
そんな訳で、今日も前と同じく、幸の帰りを待つ事にした。
待って、待って、待って、待って……
薄暗くなるまで待って……そこで漸く気が付いた。
「前も遅かったじゃねえか……つうか、手首の傷の事、すっかり忘れていた……」
自分に情けなく、顔を覆ってしゃがみこんだ。
事実は両想いだと知って浮かれすぎていて忘れていた。幸に何かが起こったと言う事に。
しかし、いつまでもこんな姿勢を続ける訳にはいかない。
立ち上がって幸の携帯にコールする。
「………………………出ねえ!!」
何十回もコールしたが、出ない。こうなれは不安も増す。
まさに居ても立ってもいられずに、東山は真っ暗になった町を駆けた。心当たりも手掛かりも全く無いが、幸を探す為に。
どん
鈍い音と共に身体に激しい痛みを感じた。
なんだ?と思って顔を上げた。眩しくて顔を顰めた。
「おい!!大丈夫か!?おい!!!」
光が人影によって遮られた。あの光は車のヘッドライトの光だった。人影は運転手だった。
暗くなって闇雲に走った結果、信号無視をして車に撥ねられたのか。
大丈夫です、ご迷惑をおかけしました。
そう言おうと思ったが、呼吸が出来なくて喋る事ができない。
マジか!?あの程度の接触事故で此処までダメージを負うもんか!?
身体を起こそうと両腕を突っ張った。
ガクンと身体が崩れて転がった。
その時目に入った。アスファルトに溜まった血だまりを。
その時解った。不幸にもブロックのような落下物に頭を打った事を。
うわ、こりゃ痛い筈だ。呼吸できない筈だ。身体起こせない筈だ。
まるで他人事のように状況を整理した。その途中、瞳に何も映らなくなった――
次に見た光景は、救急隊員によって何か話掛けられている自分の姿。それを空から見ているように、全体が浮き上がって見えた。
これってもしかして死んだのか?昔テレビで見た臨死体験?死後の話?そんな状況に見事重なっていた。
次に目にした光景は、棺桶と自分の遺影とまばらな数の人。葬式だと言う事を理解するのに時間は掛からなかった。
坊主がお経を唱えているのを、その傍らで聞きながら周りを見ていた。
親族の両親は演技臭バリバリでハンカチで目頭を押さえていた。涙なんか流しちゃいない、悲しみの演出。
それはいい。自分は親に期待をする事をやめたのだから。ガキの時から仕事仕事で自分を構わず、今でいう放置子にして、近所に『勝手に預からせていた』んだ。
寂しくて気を引く為に嘘を繰り返しても全く構わず。いや、最後には構ったか。「近所に迷惑になる事はやめなさい!!」とか言われてビンタ喰らったんだっけ。
その時からか。気持ち良くなるような嘘をつき始めたのは。自分の為だけに嘘を付き始めたのは。
次に参列者。担任とクラスメイト数名。担任はまあ、解るが、他は葬式って名目で堂々とサボれるから来た連中だ。だって話した事ねえし。
近所のババァ達のツラもチラホラ。こっちもガキの頃から接点はない。欠伸までしているババァも居やがる、嫌なら来なくて良かったんだが。
親戚もチラホラいる。ウチは親戚付き合いして来なかったので、寧ろよく来たよなって感じだ。
後は……
……………まあいいや。くたばった今となっては意味がない。考えるのは。
まあ、死んだって事で、後は地獄にでも行こうものだが、そういやどうやって行くんだ?
マンガとかじゃ死神が連れて行くって描写もある。あと先祖の迎えとか。
そのどちらも来ていないような気がする。まあ、まだ来ていないんだろ。多分。じゃあ来るまで待つか。
そして、夜。線香の匂いに包まれた仏壇の前で迎えを待つ。つうかいつ来るんだ。暇だ。テレビでも見て待ってりゃいいのか?
そんな事を考えていると、チャイムの音が、来客だ。珍しいな、俺ん家に客とか。
弔問客か?俺の為にわざわざ御苦労なこったと毒付いたが、一気に覚醒した気分になった。
幸…………
何で?なんで慌てて遺影の前に来る?なんで声を上げて泣くんだ?
色々気持ちがおかしくなってくる…………
嗚咽が酷い。幸ってこんなに泣く女だったっけ?しかも俺がくたばった程度で?
少し驚くも、客観的な自分にも更に驚いた。それ故に気が付いた。
幸の手首の包帯が赤く染まっていたのを。また手首切ったのか!?なにやってんだお前!?
そんなに辛いんならなんであの時素直に助けてって言わなかった?いや、言われたところで俺に何が出来るって訳でもないけど……
俺にできる事は、精々嘘をつく程度だ。そんなモンで助けになるか。
泣いている幸に声を掛ける事も出来ない。触れる事も出来ない。
じゃあ……どうすりゃいい?くたばった俺に何が出来る?
何も出来ない。こうやってただ見ているだけしか出来ない。
そんなモン、ふざけんなだ。確かに生きてても碌な人生じゃ無かったが、少なくともあそこには幸が居たんだ。
だったら戻ってやる。戻って今度こそ守り切ってやるよ!
東山は骨壺に収まった自分の骨に入った。いや、入ろうとした。しかし、入れる訳がない。
泣いている幸の傍で、何度も何度もチャレンジしていたその時、遂に使者が迎えに来た。
あの光の輪に入れとしきりに言って来る。骨に入ろうとしても生きかえれる訳がないと。
じゃあどうやったら生きかえられるんだと逆に訊ねた。当たり前だが、そんな事は出来ないと言われた。
俺は戻らなきゃいけないんだ!!そこが地獄であろうとも!!
引っ張って光の向こうに行こうとした使者を振り払った。そして幸の傍で声を張る。
必ず戻るから待ってろ!!お前それまで手首切るなよ!!
使者はその様子を特に咎める訳でもなく。後に解った事だが、心残りがある奴は大抵そうなるらしい。東山だけが特別じゃないって事だった。
別に今すぐ成仏しろと言う訳じゃないと使者が言う。
今日から四十九日の猶予がある。それまで気持ちの整理を付けろと。
何で最初にそう言わなかったと問うと、お前は心残りが無かったから直ぐに旅立てると思ったからだと。
確かにそうだ。幸が来るまでは。
あんだけ泣かれたら、そりゃ心残りも出来るだろ。だって好きな女が自分が死んだから泣いているんだぜ?
カッコ付けてそう返したが、既に使者の姿は無かった。ちょっと悲しかった。
まあ、それはともあれ、四十九日まで戻る方法を思い付かなきゃいけない。
割と簡単に言ったが、流石に戻れるとは思っちゃいなかった。ただ、リストカットはやめさせなきゃいけなかった。
それから東山は幸に纏わり付いた。片時も傍から離れる事無く……
「…………ん?じゃあお前、風呂とかトイレにも……」
話の途中だが、つい突っ込んでしまった。
「流石にそこま「はい、お風呂も覗かれましたし、トイレにもついて来られたようです」なんで言っちゃうのお前!?」
誤魔化そうとして嘘を述べようとしたが、藤咲さんによって阻止されていた。ちょっと可哀想で同情するなぁ……
ま、まあ、麻美もそんな事言っていたし、意外と当たり前の事なのかもな……
「ま、まあ、腰を折って悪かった。続きを……」
「え?あ、おう……」
そして再び語り出す。東山が悪霊になるまでの話を。
幸はこの日、家に帰る事は無く。ただ俺の遺影の前で泣いていた。
それでも泣き疲れて寝ちゃう訳で。
家に帰らなくてもいいのか?と疑問が湧く。帰ってベッドでぐっすり寝たらいい。
そこでハタと気が付く。
俺ん家に来てから、幸の携帯が鳴っていない事に。
いや、そこは問題じゃないのかもしれない。東山的にはこんな遅い時間に帰って来ない娘に電話しないのか?って疑問だったが、電源を切っている可能性もあるからだ。
しかしながら、東山の家は葬儀が終わったばかり。その前に死んだと言う情報は少なくとも近所には知れ渡っている。
だったら隣の家の幸の母親も当然知っている訳だ。
幸の仲が良い俺(他の連中に比べたらの話だが)の所に来ているかもしれないと思わないか?
まともな親なら、こんな状況に夜遅くまでお邪魔する事を良しとしないんじゃないか?
だったら普通迎えに来るだろ。家に来ていると確証がないのなら、様子見くらいしに来るだろ?
なんで来ない?そういや、俺が気付いたのは葬儀のこの光景からだが、その前はどうだったんだ?
流石に死んで直ぐ火葬は無いだろ。三日くらいは経っている筈。その間幸はどうなっていたんだ?毎日此処に来ていたのか?じゃあ母親は?
気になって気になって気になって……
気付いたら幸の家に来ていた。夜なのに電気も灯していない、幸の家に。
生きていたころには不可能だが、今は死んだ身。易々と扉を通り抜けられる。
………何だ?なんか違和感が……
その違和感の正体を探りながら幸の部屋を目指す。
つうか地の部屋何か知らなかった。家に上がった事なんかなかったから。
困ったが、虱潰しに探せないい。その結論に達した時に気が付いた。
電気が灯っていないと言う事は、母は帰っていない?
まさか、結構いい時間だぞ。もう寝ているんだろう。
一人納得し、幸の部屋を探した。
藤咲家は3LDK。探すのは容易い。事実幸の部屋は直ぐに見つかった。
……来てみたが、何をすりゃいいんだ?
自分の行動に疑問を持って果てしなく首を捻った。
リストカットだ。原因を探ろう。
何とか目的を見付けて部屋を漁る。
当たり前だが何も出て来ない。日記の類でもあればどうにかだろうが、それも無い。
しかし、ホントに何だこの違和感は?
じゃあ今度は違和感の原因を本格的に探そう。
そんな訳で、今度は部屋を隈なく回った。
つうか幸の母ちゃん居ねえ。仕事にしても遅すぎる時間だろ。
ああ、彼氏で来たんだっけ?ま、そうだったらたまにはなんかあるだろ、デートとか。
一人納得し、また回る。そうは言っても後はトイレと風呂場くらいしかないが。
まあ、ともあれトイレだ。何の変哲もないトイレだ。じゃあ次は風呂場だな。
風呂場に入って動きが止まった。多分目を剥いた事だろう。
浴槽が真っ赤に染まっており、壁のタイルに血が飛び散った跡!!
風呂場で手首を切っていた。幸は自殺する気満々だった事を裏付けた!!
リストカットで命を絶つ事は実は難しい。余程深く切って動脈まで達すればあるいはだ。
いや、言いたい所はそこじゃない。タイルの血の『跡』だ。
既に渇いているこの血。つまり、清掃していないって事に繋がる。
なぜ掃除しない?幸は死にたい(と仮定すれば)のだから掃除なんかしないだろうが、母親は違う。
………ずっと家に帰っていないって事か?
違和感の正体にこの時気が付いた。
この家は無人のような感じ。生活している空気を感じない。
思えば、幸の部屋と台所には使用した形跡があったが、他は掃除した形跡を感じない。恐らくは幸の母親の部屋であろう場所も、掛布団が綺麗に畳まれていていたが、埃が溜まっていたような気がする。
流石にシャワーくらいは浴びた様で、水飛沫の箇所は血が洗われている。
自分の血だろうが、こんな状況下でよくシャワーを浴びる気になるよな。
そこでもっと最悪の状況に気が付いた。
これは母親の血、とかじゃないのか?だったらもしかしたら、幸が母親を殺した………?
何度も頭を振ってそれを否定する。
流石にそれは無いだろ。幸は俺みたいな糞野郎と普通に話出来る程優しい奴だ。そんな幸が人を殺す訳ない。
何とか否定したいが、否定材料がない。いや、信じているけど、安心感を得たいと言うか。
なので再び幸の部屋に入る。何か何かと必死に物色する。
机に上に置かれている千円札の束が気になるが、これはこの際置いておく。
………千円札?そう言えば台所のテーブルにも一枚置かれていたような?
確認の為、台所に向かう。
それは確かにあった。千円札一枚。
幸の部屋には8千円くらいあったか?じゃあこの一枚はなんだ?
毎日お金を置きに帰ってきてはいる……のか?
それを確かめるべく、幸の家で張る事にした。幽霊の自分に時間の概念は乏しいが、帰って来るまで何時間でも待とうと。
かなり待った。具体的には夜が白々と明けるまで。
多分時間は4時少し回ったあたり。その時玄関から開錠する音。
そして、怠そうに眠そうに台所やって来たのは幸の母親。以前見た時よりも派手になっている。
まず、こんなに金髪じゃ無かった。保険のセールスレディなんだからそんな派手な髪の色は許されないんじゃないかと思う程。
服装も派手だ。歳の割に若く見えるのはいいが、流石にミニスカートは違う。ちょっと屈んだだけでパンツ見えそうなのは断じて違う。
寝むそうに、怠そうにバッグを弄り、財布を出す。
そして千円札をテーブルに置いて自室に向かう。
当然後を追い、観察した。
なんの事は無い、着替えをカバンに詰め込んだだけだった。つうか洗濯物は出さないのか?
そこで気が付く。自室なのに私物があまりない事に。
どう言う事だと思いつつも観察を続けた。しかし、直ぐに観察が終わる。
着替えを詰めた幸の母は、其の儘家を出て行ったのだから。
何が何だか今は整理が難しいが、解った事は、幸は母親を殺していないって事だ。毎朝、もしくは深夜に千円札一枚を置きに帰って来ている。
食費の類だろうが、まあ、それでも自分よりはマシだと思った。
自分が近所に勝手に預けられていたのだから。近所の好意で生きて来られたのだから。
ともあれ一応安堵した、人殺しはしていない、アレはやはりリストカットの跡だと。
いやいやいやいや、安心してどうすんだ?幸が手首切っている事実があるだろ。
しかし、鈍い自分でも何となく解った。母親との諍いだろう。あんな派手になった母ちゃんとか普通嫌だろ。幸はどっちかって言ったら委員長タイプだし、真逆もいい所だ。
で、母親があんな派手になったのは、新しくできたとか言う彼氏の存在か。
あんな成りでセールスレディなんかできるのか?夜のお店に勤務していると言われた方が、よっぽど納得できる成りなんだが。
そう、悶々としていると、カラカラと玄関が開く音。
幸が帰って来たのだ。泣き腫らして腫れた目蓋の儘。
俯きながら家の中に入り、しかしそれでもテーブルの上に置かれた千円札に気付く。
それを一瞥して冷蔵庫を開け、コップに牛乳を入れて一気に呷った。
そして思い出したように泣く。俺の為に泣くのはもういいってのに……
そう思いながらも何も出来ず。ただ周りでオロオロするばかり。
そんなこんなで小一時間。漸く洗面台に向う幸。
顔を洗って歯を磨いて。まあ、朝の日常だ。そして鏡を見て呟く。
「……酷い顔……これじゃ、今日は学校いけないね……」
髪もボサボサ、目蓋も腫れている。確かにいつもの幸とは違う顔になっている。これもくたばった自分が悪い。
幸はこの日、学校をサボった。部屋でぐすぐす泣いて、そして泣き疲れて寝た。
その顔を見て激しく申し訳なく思う。自分がくたばった程度の事で、優等生の幸に学校を休ませたと。
そして手首に目を向ける。右にも左にも包帯が巻かれている。
痛そうにその手首を見る東山。
幸のリスカの原因は、派手になった母親が原因だろうとぼんやりと想像していた。
ならばその原因を排除すればいい。流石に殺そうとは思わないが、脅すくらいは今の自分ならできるだろう。
そう思いながら幸の傍に居た。幸が目が覚めるまで、ずっと。
昼を回った頃、幸が目を覚ました。寝た事もあって髪がもっと酷い事になっていた。
そしてまた泣く。声を殺して泣く。
少しして、鼻を鳴らして立ち上がる。どこに行くんだろうと思って着いて行く。
風呂場だった。慌てて離れる東山。流石に風呂に着いて行く事は出来ない。
風呂場の外で待つと、ボイラーの点火の音。そしてシャワーの音。
あの返り血を洗い流せばいいのに。赤く染まったバスタブの水を捨てればいいのに。そしてゆっくり風呂につかればいい。
ただ心配してそう思った。あの血が無ければ少なくとも脅迫観念は無くならないか?と。
そんな事を考えながら上がって来るのを待つ。しかし、その気配は無かった。
シャワーだけなのに、結構時間食うなと思った。そして気が付く。
幸は着替えを持って行かなかった。まさかさっきまで来ていた服をまた着る筈もない。
ただ忘れたのだろう。それ以外理由が見つからない。
何となくドキドキしながら上がって来るのを待つ。
しかし、その気配がない。シャワーが壁に打たれた音が続くのみ。
流石におかしいと、東山は意を決して中に入った。ドアノブを回す必要もない。壁も必要ない。すり抜けて行く。
幸は赤く染まったバスタブの水を更に赤く染めて横たわっていた。左手首をバスタブに入れて。
右手には剃刀が握られていた。
一瞬何があったのか解らなかったし、幸に全裸に気を取られて呆けていたが、そんな呑気な事をしている場合じゃないのは重々承知。
東山は幸を引っ張って風呂場から出した。あんなに寝ていたのに、また寝ていたので移動させるのには苦は無かった。
いや、寝ているんじゃない、気を失ったんだ。
右手首から血が流れ出ている。それが脱衣所にも付着した。
綺麗なタオルをパニックになりながら探す。幸い、幸の母親の部屋の部屋のクローゼットに使われていないタオルがあったので、それで手首を縛った。
「…………颯介………」
名前を呼ばれてなんだと訊ねるも、聞こえない。反応がない。今の自分は幽霊だ。幸は気を失いながらも自分の名前を呼んだのだ。
閉じた目蓋から涙を流して、東山の名前を呼んだのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます