消失の春

咲川音

消失の春

 私たちに起こった出来事を、ここに書き留めておこうと思います。

 このノートは本棚の一番奥にしまっておくつもりですから、もしかするとこのまま誰にも読まれないかもしれません。けれどこうやって目に見える形にしておかないと、あまりにも非現実的すぎて後々自分の記憶が信じられなくなりそうなのです。


 私には物心ついた頃から霊感というものがありました。といっても、日常的に霊が見えるといった類のものではありません。夢を見るのです。夢枕に立つというのでしょうか、月に一度ほど、見知らぬ人が出てきては「私は故人なのだが、残された家族や恋人に伝えてほしいことがある」と訴えてくるのです。

幼い私はこれにほだされ、放課後になると町中を駆けずり回っていました。

 最も、やっとの思いで目的の人を見つけたところで素直に聞き入れられることはほとんどありませんでした。子供の遊びとあしらわれるのはまだいい方で、不気味な子ねと顔をしかめられたり、こちらは悲しみに暮れているのにそんなでたらめをと怒鳴られたりすることもしばしばありました。依頼主に文句の一つでも言ってやりたいところでしたが、向こうにも何らかの事情があるのか、同じ人が夢に現れることは二度とありませんでした。

 それでも私は故人の伝書鳩をやめませんでした。我ながらなんという健気さでしょう。彼らの言葉を届けられるのは自分しかいない、そんな使命感だけが私を突き動かしていました。


 そんな毎日を送っていたある夜のことです。夢にクラスメイトの弟が出てきました。当時変わり者と敬遠されていた私にとって、その子のお姉さんは数少ない友人の一人でした。

 弟さんはその時まだ六歳ほどでしたが、病気で長いこと入院していました。私も何度かお見舞いに付き添ったのですが、普段離れて暮らしているせいか終始お姉さんにべったりで、仲のいい姉弟だなと微笑ましく思ったのを覚えています。

 だから四年生になってすぐの頃、その子が亡くなったという知らせを受けた時は随分とショックでした。

 夢の中で弟さんは泣いていました。いつものごとく、何でも言ってと安請け合いをする私に、彼は何かを押しつけてきました。これは初めてのパターンです。視線を落とせば、私の手には銀色のケースが鈍く光っていました。目の高さまで持ち上げると、中でカラカラと音がします。

……これをお姉ちゃんに渡して

 見上げる瞳は涙の中にキラキラと光をたたえて、ますます澄んだ色をしていました。

……渡してどうするの?

……お姉ちゃんが僕の所に来られるお薬。これを飲んだらずっと一緒にいられるんだよ。

生まれ変わってもまた姉弟になれるんだって 何も言えないでいる私に、弟さんはますます泣いて、胸元に縋ってきます。

……お願い、早く渡して。でないと僕、一人で行かなくちゃいけないの。もうお姉ちゃんに会えなくなっちゃう。だから、早く

 その瞬間、私は目を覚ましました。金色の光が柔らかなベールのように降り注ぐ、恐ろしいほど穏やかな朝でした。最後に聞いた叫びがまだ耳にこびり付いています。普通なら不思議な夢だったで終わりでしょう。けれど私には何年も幽霊の声を聞いてきた実績がありました。そして案の定、枕元には弟さんに渡されたピルケースが置かれてあったのです。


 馬鹿な私は教室に入るなり友人を呼び出して、今朝の夢の顛末をそのまま話しました。弟さんの言葉に涙した友人は何の疑いもなくピルケースを受け取りました。思い返せば身内が死んでまだ一ヶ月と少し、十歳という夢見がちな年頃も相まって、その不幸は起こってしまったのでしょう。

 血相を変えたその子の両親が家に怒鳴り込んできたのは、その晩のことでした。

 

その子が得体の知れない薬を飲もうとしていたところを、丁度帰宅した母親が慌てて取りあげたために大事には至らなかったそうです。

 今でもあの夜のことは忘れることができません。頭の芯がすうっと冷えて心臓が縮み上がるような、一方で浴びせられる罵声に呆然とするような、とにかく恐ろしさに体の震えが止まりませんでした。彼女の両親が怒るのも当然のことです。息子を亡くして絶望している時に、今度は娘までもが殺されかけたのですから。それも、今まで仲良くしていた同級生の女の子に。弟さんに会えるよ、などという言葉で薬を渡した十歳の少女は、彼らの目にどんなにおぞましく映ったことでしょう。霊感があるのだという私の主張はもちろん聞き届けられることはなく、「殺人鬼の制裁」の名の下行われた壮絶ないじめと数回のカウンセリングを経て、私たち一家は誰も知り合いのいない遠くへ引っ越すことを余儀なくされたのでした。


 それまで変人というレッテルは貼られようとも、それなりに人との交流を図っていた私は、転校後自分の殻に閉じこもるようになりました。例の事件以来、両親からすらも腫れ物に触るような扱いを受けていた私にはもうどこにも居場所などなかったのです。相変わらず夢には幽霊が出てきて伝言を頼んでくるのですが、すべてに耳を塞いでやり過ごしていました。


 そうして、ただ流れるだけの時間が過ぎて中学二年生になった頃、私はカオリに出会ったのです。

 きっかけは確か化学の実験ペアが同じになった事だったように記憶しています。頑なに人との関わりを拒んでいた私が、どうしてあの子とだけ話す気になったのか今思うと不思議ですが、なにか惹かれるものがあったのでしょう。気がつけば私たちは授業以外の時間、いつも行動を共にするようになりました。

 クラスのはみ出し者だった私が言うのも何ですが、彼女はマイペースな人でした。気分屋で面倒くさがりで、思うままに生きている猫みたいな少女でした。

 そういう訳で、いわゆる友達百人というタイプではありませんでしたが、私にとってカオリは唯一無二でした。彼女のまとう薄青い空気は何故か私を落ち着かせました。

 彼女と仲良くなって一年近くたった頃、私は思い悩んだ末にとうとう自分の力について打ち明ける決心をしました。そして私を取り巻く全てを変えてしまった、あの事件についても。

 どうせ離れてしまうならいっそ今のうちにという半分ヤケになったような思いでしたが、打ち明けている最中は怖くて顔を上げることができませんでした。

 ですが話を聞き終わったカオリの反応は、想像していたものとは全く違っていました。彼女は形のいい眉を下げて、大変だったねとひとつ言い、それから、

……じゃあもし私が突然死んじゃっても、とりあえず一度は会えるわけだ。良かった

 カラリと笑ったのでした。

 私は声を上げて泣きました。焦ったように背中を擦る温もりに、体の奥底に固まった、言葉に出来ない想いが溶け出ていくのを感じました。

 嬉しさに涙が止まらなかったのは、人生で初めてのことでした。


 私が通っていたのは中高一貫校だったので、高校生になってもほとんど顔ぶれは変わりませんでした。新鮮味のない入学式でしたが、カオリと同じクラスになれたことが何よりの喜びでした。

 入学して一週間後。毎年数十人いる、高校入学組と仲良くなろうという目的のオリエンテーションが行われたのですが、そこで私にもう一つの出会いがありました。

 同じ班になった、サクヤくんという男の子です。

 彼は孤独の人でした。

 その顔がどんなに笑っていても、あの人に取り付く影は私と同じ色をしていました。

 どこか気になりつつも男子相手に積極的に話せるわけもなく、必要最低限の一言二言交わしただけでオリエンテーションは終わってしまいました。

 次に彼と話したのはそれからしばらく経ってのことでした。カオリと一緒に校舎裏の陰でお弁当を食べていたところに、突然フラリと現れたのです。

……どうしてこんな所で食べてるの

 パンを片手にした自分は棚に上げて、彼はそんなことを言いました。

……ここは涼しくて気持ちいいから

 そう答えたのはカオリでした。因みに私はその横で、久しぶりの彼の声に固まっていたのです。

……教室はクーラー効いてるのに

……あそこはねー、ちょっと煩いから

……もしかしていじめられてるとか

……そういう訳じゃないけど

 皆のことは好きだけど、お昼休みくらい気楽に過ごしたいんだよねと彼女は続けます。

……そっか。じゃあお邪魔しました

……別にここで食べていけばいいじゃん。もうあんまり時間ないんだし。えーと――名前なんだっけ

 それから「私たち」という呼び名に彼が含まれるようになりました。教室では無口な彼がカオリに対してだけ無邪気に笑うようになっていく様は、昔の自分を見ているみたいでどこか気恥ずかしいものがありました。

 仲良くなる中で、彼は私の力についてなんとなく知ったようでした。そしてお返しというように、自分の生い立ちについて話してくれたのです。

 彼は施設育ちでした。自分はいらない子供だったと語る彼は小さい頃両親からネグレクトされ、今の場所に引き取られたそうです。 なるほど彼につきまとう影はここから来ているのだと納得しました。ふと隣を見れば、カオリは私の打ち明け話の時と同じように、ただ黙って話を聞いていました。


 正直に言うとその頃から、私は彼に惹かれ始めていました。けれどそれは身を焦がすような恋ではなく、ある種の仲間意識に近いものがありました。ですから、その後彼がカオリに告白して無事付き合うことになった時にも、穏やかな気持ちで受け入れることが出来たのです。

 彼が私と同じ闇を持っているならば、同じ光に惹き付けられるのは当然のことでした。


 そうして私たちは大学に進学しました。私だけ違う学校でしたが、校舎が近いのと頻繁に連絡を取り合っていたためカオリとの距離が開くことはありませんでした。

 彼に関しては前ほど会うことはなくなりましたが、カオリが突発的に鍋パーティーやたこ焼きパーティーを開催する度に顔を合わせていました。

 カオリのアパートにいる彼は、いつも幸せそうに笑っていました。彼女の部屋の空気や灯りが、優しい色をして彼の闇ごと包み込んでいました。

 あの小さな世界は幸福そのものでした。大げさかもしれないけれど、私はあそこに行く度にいつも少し涙ぐんでいました。こんな光景が一生続くと、信じて疑いませんでした。


 全てが壊れたのは雪のちらつく二月。凍てつくような夜でした。

 私はその日、珍しくサークルの飲み会に参加していました。明日は朝からカオリと約束があるからと一次会で抜け、夜道を歩いている時にその電話がかかって来たのです。

 ディスプレイにはサクヤくんの名前が表示されていました。想い人からの初めての着信に、喜びよりも引っ掛かりを感じたまま携帯を耳に当てます。

 電話の向こうは無音でした。

……サクヤくん?

 呼びかけると、空気が微かに震えたのが伝わってきました。

……カオリが――

……え?

……カオリが死んだ

 声が揺れて、そのまま嗚咽が続きます。私は呆然とその場に立ち尽くすしかありませんでした。


 それからの事はよく思い出せません。私はただただ泣き暮らしました。泣くともなく涙が流れ続けて、水すら喉を通りません。ベッドに行く気力すらなく、冷たい床に体を横たえて真夜中までぼんやりと空を見つめ、そのまま萎れるように眠りました。そして明け方にふと目覚めては、薄暗い部屋の中また泣くという、毎日がその繰り返しでした。

 最初の一週間はそうして過ぎていきました。二週間目、お風呂に入ってベッドで眠れるようになりました。三週間目が終わる頃、少し物を食べられるようになってきて、そうして私はやっと彼のことに思い至ったのでした。

 明日彼の様子を見に行ってみよう。そう決めた晩、カオリが夢に出てきてくれました。

 彼女の姿を見るなり私は泣き崩れました。寂しかったと涙ながらにすがって、何度も何度も名前を呼びました。それから事故に遭ったという彼女に痛いところはないか苦しいところはないかと尋ねました。

 彼女は一つ頷いてぽつりと、

……死んじゃってごめんね

 そう言いました。

……いつか言ってたこと、本当になっちゃったね

 その言葉に、私は余計泣くばかりでした。

……ごめんね。本当にごめんね。でも最後に、お願いがあるの

……なんでもする、なんでもするから、だから帰ってきて

 子供がだだをこねるようにそう言い続ける私は、彼女がこちらに差し出した手の中にある物を見てヒュッと息を飲みました。忘れもしない、銀色のピルケース。彼女はごめん、ごめんと言いながら私にそれを握りこませました。

……これを、彼に渡して

 彼女の頬を涙が伝います。

……私の四十九日までにこれを飲んで死ねば、来世でも一緒になれるんだって。でもこの機会を逃すと永遠に会えないの。だから――ごめんなさい。ごめんね、ごめん――

 夢の最後まで、彼女は謝り続けていました。私のトラウマになった出来事と同じ事を頼むのが心苦しかったのでしょう。自分のしゃくり上げる声で目を覚ました私は、そのまま枕に顔を押しつけてわんわん泣きました。ベッドから滑り落ちたケースが、カシャンと大きな音を立てて落ちるのを聞きました。


 彼女に会えると言えば聞こえはいいですが、この薬を彼に渡すということは結局のところ自殺の斡旋でしかありません。要するに私がするのは殺人です。夢で見たからなんていう理由が通用するはずもないのは、経験上嫌というほど分かっていました。

 彼には言わないでおくべきか。部屋の隅で膝を抱えて、私は悩みました。そして、兎にも角にも彼を訪ねなければとピルケースを鞄に突っ込んで、答えの出ないまま家を出ました。


 何度呼び鈴を押しても、彼は出てきませんでした。もう帰ろうかと思ったその時、扉の向こうで微かに物音がしました。彼の名前を呼んで扉を叩くと、やっとそれが開いて彼が顔を出しました。

……ああ

 私の顔を見るなり、荒れた唇が呻くような声を漏らします。

 彼は酷くやつれていました。綺麗に整えられていた髪もボサボサと伸び放題で、辛うじて立っているという状態でした。

……急にごめんね。メールしたんだけど、見てなかった?

 同じように痩せこけた私は、薄くなった頬を上げて無理やり笑顔を作ります。

……上がっていい?

 彼は無言のまま体を横にずらしました。

 

 カオリと共に一度だけ遊びに来た彼の部屋は、あれから何も変わっていませんでした。 もっと散らかっているかと思いましたが、整頓された空間はカオリが掃除したそのままという感じで、寧ろ悲しみが増す思いでした。

……ろくに食べてないんでしょ? 良かったらこれ。コンビニのやつだけど

 私は袋から取り出した弁当をローテーブルに乗せました。糸が切れた操り人形のように力なく座り込んだ彼は、ちらりとこちらを見ると掠れた声で礼を言いました。

……ごめんね、本当はもっと栄養のあるものの方がいいんだろうけど、今は何も作る気になれなくて

……俺も

 私たちは向かい合って弁当をつつきました。お互い俯きがちに、視線を合わせませんでした。

……何してた、最近

……泣いてた

 私の答えに、彼の目元が泣きそうにふっとゆるみました。

……俺はね、毎日毎日死にたいと思うよ

 彼の口から出た死という単語に、思わず肩が揺れました。

……だけどそうしたところでカオリには二度と会えない。そう思うと余計つらくて――

 きっとあの話をすれば、彼は迷わず死を選ぶ。そう確信しました。彼女がいなくなった今、彼とこの世を繋ぐ未練の糸はもう一本もなくなってしまったのでしょう。

 親友の最期の願いです。それはすなわち彼の願いでもあるのかもしれません。けれど個人的感情としては彼に死んでほしくありませんでした。恋心を抜きにしても、死を選択するのは間違いだというのが世間一般の認識です。

 結局その日は何も話せないまま、彼の部屋を去りました。


 タイムリミットは四十九日と彼女は言いました。急いで結論を出す必要はないはずです。最愛の人が突然死んでまだ一月も経たないのですから、この条件では彼でなくとも死に惹かれてしまうでしょう。残りの数週間、とりあえず彼の気持ちが落ち着いてからまた考えようというのが、一晩かけて辿り着いた答えでした。

 その日から、私は夕方になると彼の家を訪れるようになりました。途中スーパーで買い込んだ食材を使って、レシピサイトを片手になんとか夕飯を作り上げていきます。苦手な掃除や洗濯もしました。その分自分の部屋の方がほったらかしになって、ますます荒れ果ててしまいましたが。

 忙しく動き回る私を、彼は黙って見つめているだけでした。


……送っていくよ

 ある夜、彼がそう言って立ち上がりました。サヨナラの挨拶の代わりにごめん、とひとつ謝るのが最近の彼の習慣でしたので、これには驚かされました。

 刺すような冷たさだった風は随分丸みを帯びて、春の気配を含んでいます。彼の数歩後ろを、私は黙ってついていきました。

……いつもごめんね

 ぽつりと言葉を落とす彼の後ろ姿は寂しげでした。

……いいの、好きでやってる事だから

……悲しいのも、辛いのも俺だけじゃないって頭では分かってるんだけど

……分かるよ、私もまだ気持ちが追いついてない

 それからまた互いに口を閉ざして、ただ歩き続けました。均等に並んだ街灯の白い光に、二人の影が長く伸びているのを見つめていました。

 と、公園の前で突然彼が立ち止まりました。遊具の向こうに大きな桜の木が一本見えます。

……去年、カオリとここでお花見したんだった

 呟く声は夜の静けさに溶けてゆきます。二人だけの思い出は、指先すら触れてはいけないものに思えて、私はただ息を潜めて桜を見つめていました。

……まだ、咲かないね

 呟きの余韻が消えた頃、私はそっと背中に声をかけました。

……もうすぐ見頃かな

……そうだね、きっともうすぐ――

 もうすぐ、彼女の四十九日。私はコートのポケットに手を当てながら言いました。

……もしも――もしもカオリともう一度会えるとして、でもそのためには全てを失わないといけないのなら、会いたい?

……会いたいよ

……命を引換えにしても?

 彼はこちらを振り向いて、悲しげに微笑みました。

 彼が一瞬でも死に戸惑いを感じるのなら、彼女の遺言は胸にしまっておこうと思っていました。私は一生、その罪を背負い続けていこうと。けれど――

……会えるよ、カオリに

 私は強く握った手を彼の方へと差し出しました。


 全てを話し終えた私に、彼は一言だけ、ありがとうと言いました。

……信じてくれるの

……長い付き合いだからね。こういう時に、嘘をつく人じゃないでしょ

 彼は大事そうにそれを握りこんで、結ばれた口をふわりと解きました。

……行くの、カオリの所に

……うん

……どうしても行っちゃうの

……ごめん。一人にしてしまうね

 茶色がかった瞳は凪いで、そこに迷いはありませんでした。


 一週間後。彼からの電話で、私はアパートを訪れました。途中通りがかった公園には桜のつぼみの開いた大木が、空に煙った桃色を浮かび上がらせていました。

 部屋の中は引っ越したばかりのように片付いていました。がらんとした空間の真ん中で、彼は穏やかに微笑んでいます。

……ごめんね、来てもらっちゃって。最後にきちんとお別れしておこうと思って

……今日?

……うん

 私はなんと言っていいのか分かりませんでした。

……夕飯、作ろうか

 開きかけた口を何度も閉ざして、結局出てきたのは当たり障りのない言葉でした。

……いや、大丈夫

 彼はゆっくりと首を振って、ベッドに腰掛けます。

……今までありがとう。色々迷惑かけたね

……こちらこそ

 私たちはそれから、思い出話をしました。私とカオリの出会いから始まって、高校、大学――楽しかった日々を一つ一つ辿っては、笑ったり涙ぐんだりしました。座った床がひんやりと冷たくて、夕暮れの静けさが指先から染み込んでくるようでした。

 ふと会話が途切れた時には、部屋はすっかり暗くなっていました。電気をつけることもせず、深海のような宵に沈んだまま私はぽつりと言いました。

……私ね、サクヤ君のことが好きだよ

 少し離れたところにいる彼の表情はわかりませんでした。

……ありがとう

 しばらくの静寂の後、静かな声で一言、そう返ってきました。

 私は膝を抱えて声を出さずに泣きました。振られた悲しさなのか彼を繋ぎとめられなかった喪失感なのか、ただただ泣けて仕方ありませんでした。

 そのまま壁にもたれて眠ってしまったようです。明け方、微かに空気が動く気配がして、微睡みから浮上しました。

……ごめんね

 声が降ってきました。そのまま足音が遠のいて、バタンとドアの閉まる音が続きます。

――彼女の元へ行く彼を、私は止めることができませんでした。


 翌朝、彼は遺体で発見されました。あの桜の木の下で、遺書を傍らに眠るように死んでいたそうです。

 私はどうすればよかったのか、何もかもが終わった今でも分かりません。そもそも幽霊など本当は存在しなくて、全て気が狂った私の妄想だったのではないか――一人ぼっちになった私はそんな恐怖すら感じます。

 けれど昨日の葬式で、花に囲まれた彼は幸せそうな顔をしていました。

 口元に浮かんだあの微笑みだけが、きっとこれからも生き続けねばならない私への、唯一の許しとなるのでしょう。


 

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消失の春 咲川音 @sakikawa_oto

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