第二章 十二月 諦め

「さーむーいー! 寒いよ小谷くん」

 登校して早々、先に来ていた班長は俺に言ってきた。教室にはまだ誰もいない。

「んなの、ストーブ付けりゃいいだろ」

「一人でできないもん」

「モンとか言うな。しかたねぇな」

 先に荷物だけを置いて、残りの灯油を確認してから、石油ストーブのスイッチを押す。しばし無音。ボロいからちゃんと動くかいつもハラハラする。しばらくするとボッと言う音と共に焦臭いが教室に広がり、ほっと肩の力を抜いた。このオンボロはいつか爆発すると思ってるのは俺だけじゃないはずだ。「おー、温かい。やはり文明の利器は最高だよね」

 班長はスカートをバサバサとして中に温かい空気を取り込んでる。はしたないぞー。

「夏はなんの役に立たねぇがな」

「この異常気象の中、やっと導入されたのが扇風機ってどうなのよ? 早くクーラー導入すればいいのに」

「そんな金はこの市にねーよ。なけなしの扇風機だ。我慢しろ」

 と、言いながら制服を脱いぎジャージに着替えて、制服をハンガーにかける。

「まぁ、卒業するしカンケー無いか」

「高校はクーラー完備でしょ?」

「今となっては、それは最低基準だよな」

「高校生かぁ。あ、彼女作ったら紹介してね」

「ヤダよ。なんでわざわざ報告しなきゃなんねんだよ」

「減るもんじゃないし良いじゃん。あ、内田くんだ。おはよー」

 その声に教室の後ろの方を見ると、ガラガラと引き戸を開けながら内田がよっ、と手を上げて入ってきた。

「今日、お前いつもより早くね」

「そうかー? おっ、ストーブついてんじゃんラッキー」

「なんかお前のために付けたみたいで腹立つ」

「んなこと言うなよ」

 ストーブは正常に動き、教室が温まってきて窓が曇り始めた。

「そういや、今度の新聞どうすんだよ班長」

 支度が終わったのか珍しく内田から聞いてくる。

「そうだねー、小谷君が独りでやるって」

 にやにやと、班長は俺の方を見た。「おい、それ、冗談でも止めろよ」

 と、睨みながら言うと内田は罰が悪そうな顔をした。

「だって実質そうだろ」

「そんな怒ることないじゃんね〜」

「冗談でも、やめろ」

 はぁ、と溜息付く。

「じゃぁ、今月の新聞はデカイとこお前やれよ」

「はっ? やだよ」

 即答するな。

「やめたほうがいいよ小谷くん。仕事が増えるだけだから」

 そう、班長は疲れたように遠くを見つめていた。

 内田は文章をまとめる力がない。全部箇条書きになるし、取ってつけたようなですますで、とても読めたものではなく、只でさえ人数の少ない広報班のお荷物になっていた。

 以前班長は、出来ないものをいつまでも出来ないままにして、現状に甘えさせるわけには行かない! なにより人足りてないし! と内田に書かせていたが、班長が直したり、総子に直されたり二度手間かつ、本人にやる気がないのも相まって班長の負担になりすぎ、遂に班長は、書かせることを諦めた。以降は、新聞書く仕事が出来ないなら雑用! と何かと出てくる力仕事を任せていた。適材適所という奴だ。

「わかってらぁ、流石に一面は冗談だ。仕事増える。だが人数少ねーんだからお前もちょっとは書く努力しろ。俺だってやってんだから」

「あー、わーかったよ。やれば良いんだろ。やれば」

「四面ぐらい書けるだろ」

 と、この間の委員会で決まった四面記事のテーマが書かれたメモを渡す。

 はいはいと受け取り、

「にしても、水野居なくなってから頑張るよなーお前」

 とボソリ呟いた。

「頑張ってるよねぇ。班長さん嬉しいよ」

 未だストーブの前を陣取っている班長に、俺は睨みながら沈黙で返したが、

「これからも頑張ってね、私の広報班諸君」

 と、ニヤニヤしながら言われる。

「うるせぇ」

 小さく呟くと、班長は目を細めて微笑んだ。

「三面は、吉田に任せればいいし、二面は生川に頼むか」

 一面と他の所は俺と班長がやればいい。ガラガラとドアが開く。「おっ、噂をすればエリーだ。おはよー」

「おっはよー! あれ、広報しかいないのー?」

 生川が元気よく入ってきた。見ての通り四人広報班しかいない。時計を見るとそろそろ八時を指そうとしていた。

「そろそろ他の奴らも来るだろ」

「次、ヨッシー来たら笑えるね。広報班は集まるのが速いってね!」

「それは流石に無いだろ」

「あ、エリー、エリー、新聞の担当決まったよ」

「そうだった。生川、お前二面な」

 内田と同じようにメモを渡す。

「はーい」

 と、内田とは違い素直で良い返事だ。

 チャイムが鳴って、部活が終わったのだろう。学校全体がざわざわと慌ただしくなり、教室も賑わってきた。残念ながら次に教室に入ってきたのは吉田では無かったが、割りと早めに広報班は全員席に着席していたと伝えておく。

 受験が近いせいか、今日の授業は殆ど自習だった。既に受験の苦難から解き離れた私立組は呑気に本を読んだり、出された課題をやったり、公立組を助けたりそれぞれの事をやっている。

 公立組である俺の隣で班長は、腹立たしい事に、そのどれもせず、ただ窓際に飾れている花を眺めながら時折ハァと手を息で温めた。ストーブはついてるがそれでも窓側は寒い。

 視線に気が付いたのか、チラリと俺の方を見て、それから手元の問題集を覗き込んだ。今やってるのは簡単な小論文の様な問題だ。

「それ、論点ズレてない? 問題が聞きたいのはここの部分で、君が書いてるのがこの部分。長ったらしく問題書いてあるけど、聞きたいことはシンプルに一つだよ」

 なるほどわからん。取りあえず言われた箇所を消して、もう一度問題に線を引き直す。

「それはわかってない顔だな。小論より簡単なのに」

 うるさい。お前は数学で同じ事が俺に言えるのか、と睨む。

「はいはい、すみません」

 そう言うと、班長はまた窓の外を眺め始める。つられて外を見るとチラチラと雪が降り始めていた。どおりで寒いわけだ。

「寒いなぁ」

 ポツリと何気なく班長の口から零れた言葉になんだか、居たたまれなくなって、背中を針でつつかれるような罪悪感に襲われる。

 そんな様子を班長は素早く察して、俺に気を使ってか、

「暇だから散歩してくるね」

 と、言うと、わざわざ先生に断りを入れてから廊下に出ていった。それがまた罪悪感を増長させる。お前は何も悪くないのに……。

しかし俺は止めることはせず、ただ見送って問題集を再び見下ろた。が、完全にやる気を失っていて、導かれるように目は空いている水野の席に辿り着く。

 例えば、例えば俺が今死んだら、俺は諦められるだろうか。ふと、そんな事を思う。

 ここまで頑張ってきた受験勉強も学級新聞もこれからある高校生活も、この先にある未来の何もかもを、俺は未練無く諦めて死ねるだろうか。

 答えを出す前に頭を降ってそれ以上考えることを止め、俺はまた問題集に取り組み始める。

本当は答えなんてわかりきってる。でも今言葉にするのはやめた。罪悪感で死にそうになる。

 放課後になると、雪は薄っすらと積もりはじめた。夜にはもっと積もるだろう。コートとマフラーを羽織り、しっかり防寒してから先に出ている班長を追った。

 外に出ると班長は、昇降口の前にある椿の木を見ていた。足元を見ると、落ちた花が赤々としていて白い雪によく映える。何をしているのかと近づこうとしたら、俺達の間を駅伝部の大群が遮った。

もうすぐ大会だもんな。こんな寒いのにご苦労な事で。滑らないようにな。そう思いながら大群を見送り前を向くとそこには班長の姿は無かった。代わりに……代わりに水野が、手に一杯椿を持って俺の方を……俺の方を見ていたのだ。水野はこんなに寒いのにコートもマフラーもせず、薄い制服のまま、結ばれた髪が尻尾のようにゆらりと揺れて、最後に会った九月の姿のまま俺の前に立っている。

 生徒たちの声で賑やかなはずなのに、俺達の周りは妙に静かで音が遠く、逆にドクンドクンと心臓の音が煩かった。急速に視界の色がなくなっていく。いつの間にか咲いている一面の彼岸花と掌の上の椿だけが赤々としていた。

「赤い花が好き」

 そう、水野の声が聞こえた気がした。ぼとり、ぼとり、と指の間から椿が落ちていく。血が滴るみたいだ。

 なんて悪夢だろう。

 何か言おうとしても声は出ずに、体も縫い付けられたように動かない。

 ゆっくりと幽鬼のように水野が近づいてきて、真っ暗な目で俺を見つめる。

「ねぇ、まだ……死にたくない」

 泣きそうな声で死にたくないと何度も言う。

「ねぇ、あたしを殺さないで……」

 違う、俺は、お前は、解ってる、俺はお前を、言い訳めいた切れ切れの言葉が頭に浮かび、しかし口から溢れることは無く、潰れそうなほど心が締め付けられ痛かった。呼吸が荒くなって、立っていられないほど目眩がした。

 水野の手がゆっくりと俺の首に伸びてきて、

「小谷くん、帰ろう」

 班長の声で世界が急に動き出した。体がふっと軽くなり、罪悪感の塊は消えていて、班長が目の前にいた。校則違反の解けた長い髪が風に靡いている。ドクンドクンとまだ心臓の音は煩かった。水野の姿はどこにもない。受験が迫っていて、きっと疲れていたのだろう。水野はあんな事を言わない。……少なくとも俺には言ってくれない。

 雪が少しだけ強く降ってきた。白い息が空気に溶ける。

「小谷くん?」

 班長は心配そうに俺の顔を覗き込んできた。何か言おうとしたが、言葉が出てこずに口をパクパクとさせただけだった。

「小谷!」

 ハッとして振り返る。

「内田……」

「おう! そんな所に突っ立って何してんだ?」

「内田くん、なんか小谷くん様子が変なんだよ」

 俺の影からひょっこりと班長は顔を覗かし内田に相談している。

 大丈夫、大丈夫だ。大きく息をすって、

「……いや、なんでもねーよ」

 と、答えると、そうか? と内田心配そうな顔を一瞬したが、

「なら一緒に帰ろうぜ!」

と、すぐに明るく提案してきた。俺が返事をする前にいいよーと班長が返事をする。まぁ、断る理由もないし、今は班長と二人きりになりたくなくて、内田の提案はとても助かった。そうして俺達は近々有る模試についての話をしながらとぼとぼ歩き、班長は後ろから俺たちの話を聞いて公立は大変そうだと、呑気に聞いていた。

 小学校の前で、帰る方向が俺とは違う班長と内田はいつもならここで別れるが、何故かばいばーいと内田を見送り、班長が俺に着いてきた。

「どうしたんだよ」

 もう、この頃には落ち着いてきて、普通に班長に話しかけることが出来た。

「小谷くん。君は、責任を感じる必要はないんだよ」

 俺の方を見ずに言った言葉に、へっ? と、間抜けな声が出た。

「君は、水野に対しても、私に対しても罪悪感を抱くことなんて無いんだよ。これは私の我が儘で、水野の責任で、君はそれに巻き込まれただけなんだから」

 防災無線からはいつもの曲が流れてくる。鳴るのが随分と早くなった。トラックが一台、俺達の横を通り過ぎる。雪はしんしんと降り注ぐ。

 違う。

 違うんだ、班長。

 俺はお前にそんな事を言わせたいんじゃ、ない。

「君の負担にそんなになるならさ、やっぱり」

「村雨」

 言葉を遮ると、班長は驚いたように俺を見た。猫みたいな顔だ。

 後ろを振り返るとうっすらと足跡が出来ていた。俺の肩にも少し雪が積もっている。 傘を広げて、傘を持っていない班長に傾ける。

「相合傘だ」

「お前と入ったって誰もそんな風に思わねぇよ」

「そうだね」

 班長は少し悲しげに言った。少し意地の悪いことを言った。

 でも、何れ水野の言う通りになるとしても、班長が望んでいたとしても、そうすることが正しいとしても、俺はまた迷っていた。

 殺すということは、その先の未来は無いということだから。

「なんで、なんで俺なんだろうな」

 受験が近くなってきたせいか、そんな八つ当たりに似た弱気な言葉が零れた。吐き出された言葉は白くなり俺たちの間に消えていく。

「なんで、だろうね。なんで君なのか、私にもわかんないや」

「ひどいな」

「うん、非道ひどいね。……だからさ、終わったら全部、全部忘れてね」

 あとは全部私が持っていくから、と班長は零した。

 諦めるなと言っておきながら諦めさせている。本当に酷いのはどちらだろうか。

 雪が静かに落ちてくる。

 俺の心のようなどんよりとした灰色の空を見上げる。傘は段々と重みを増してきた。

 あぁ、結局悲しい事を言わせてしまった。

 昼間考えたことを思い出す。

 俺はきっと未来を諦めることなんて出来はしない。未練たらしく、足掻き続けてしまうだろう。けれど、そんな諦めきれない未来を諦めるために、俺はやらなくてはならないのだ。

「寒いな」

「寒いね」

 そう呟いて、二人はそれから黙り込んだ。

 季節は移ろぎ、あの日はどんどん遠ざかっていく。

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