第一章 三月 再会

班長は、猫が狙いを澄ますように目を細めて俺が書き上げた学級新聞に目を通していた。

 卒業式の迫る三月の第二水曜日の放課後。中学三年最期の仕事をやり終えた俺は、窓を眺めながら班長が新聞を読み終わるのを待っていた。

 日は傾き、周囲は大分暗くなってきた。野球部の野太い声が校庭から聞こえてきて、静かな校舎には吹奏楽部の音が響いてる。昼間とは違う、遠く静かなざわめきが俺たちの教室に響いていた。

 こうして放課後の教室で班長と俺の二人きりで残って作業するのも今日で最期だと思うと、少し不思議な気がする。また来月も新聞の締め切りに追われる日々が、有りえないとは解っていてもいつまでも続くような気がする。あるいは、続いて欲しいのかもしれない。

 窓から班長に視線を戻すと班長は、ふーっと息を吐いて顔を上げた。

「誤字もないし、このまま総子に出せると思う」

「あー、これで本当に終わったぁー」

 妙な緊張から開放され、机にうつ伏せる。苦手な事をずっと続けるのは疲れるのだ。「お疲れさま」

「あとで総子に出してくる」

 力なく言うと、

「お願いねぇ。タイミングが良ければそれで大丈夫なはずだから」

と、困ったように言った。そうだな……。タイミングが良ければ……な。

 総子。佐原総子。俺達の国語教師で広報委員の担当でもある。あの人の文句を言い始めたら夜が明ける程、生徒に嫌われている先生だ。なんと言ったらいいか。特別わかりやすい訳でもなく、己の機嫌が悪ければ当たり散らし、妙に上から目線のセンセーなのだ。

「受験生に月二回も新聞書かせるとか、あのババァ鬼かよ。先輩たちは書いてなかったんだろ? それに機嫌が悪けりゃいちゃもん付けて書き直しだし。もう、二度と関わりたくねーよ……」

 終わった解放感から十月から今までのセンセーに対する愚痴がどんどん出てくる。

「あったねー。十二月の受験で忙しいーときだったっけ。先生もピリピリしてたのもわかるけど、それを受験生に当てるなって話だよね。私も六月ぐらいにソレやられて、腹立ってさ、違う紙に丸きり同じ文章で出したらオッケー貰ったなー。なんなんだろ。あのセンセーと縁切れるのが卒業して一番嬉しいことかも」

「あの人、頭いいことしようとして空回りしてるよな。でも、それを中坊に見破られちゃお終いだろ」

 そう言えば「長いこと広報班やっているけどさ、あの先生と合わなすぎて本気でやめようかと思った」と前に水野が愚痴っていた事を思い出した。九月に新しく委員会決めるとき、佐原が担当してる委員会だけなかなか決まらなくて大変だったな。

「にしてもなんか、卒業だって実感湧かねーな」

 机から起き上がり班長を見る。

「皆そうだよ。卒業して一週間経つとちょーっと寂しくなるの。で、最初の頃は中学の友達と集まったりしてさ、でもだんだんと新しい場所に慣れてきて、友達も出来て、一ヶ月ぐらい経つと中学の事なんか忘れて楽しくやるよ」

「そんなもんなのか?」

「そんなものだよ」

 そんなことねぇよ、と言うと、苦笑いをして、それで良いの、なんて言って少し寂しそうに笑った。

 掲示物が無くなって、私物も少なくなり、伽藍として寂しくなった教室を見渡す。もうすぐ、俺達の縄張りだったこの場所は俺達の場所じゃなくなるのだ。

「結局、見つからなかったね」

 不意に班長は水野の席を撫でながら呟く。

 アイツの席だけは、以前と変わらず私物が残ったままなので、回りがさっぱりとしていくなか一人だけ時間に取り残されているようだった。

 吹奏楽の音が止んで、静寂が訪れる。「さ! さっさと総子センセーに新聞出して帰ろっか」

 少ししんみりとした空気を変えるように明るい調子で班長は、さっきの呟きを無かったことにした。俺も水野の話は何となく今は避けたくて班長に乗る。

「そうだな。さっさと帰ろ、帰ろ」

「何事もなければいいね」

「フラグじみた事言うなよ」

 笑いながら席を立ち上がった班長に続いて荷物を持ち、追うように螺旋階段を降りて行った。


「失礼しましたー」

 簡単に礼をしながらガラガラと職員室の扉を閉める。

「総子、帰ってて良かったな」

「うん。机の上に置いといたし、明日の朝には印刷してくれるよ。こういう時はチェック無しで通るから」

「最後にしてはなんかあっさりだな。まぁいい、帰るぞ」

「はーい」

 あんだけ必死に書き続けてきた物が、こうもあっさりと終わると少しだけ名残惜しい。書き直すのはごめんだが。

 下駄箱で履き替え、教科書が無駄に詰まった鞄を背負い直して昇降口を出ると、陽は沈み、僅かな水色も段々と夜に呑まれていた。「もう咲いてきたね。卒業式には満開かもよ」

 一足先に出ていた班長が桜を見上げながら言った。

「そうだな。最近暖かくなってきたし入学式あたりには散ってるかもな」

「残念だなー新入生。ここの桜並木凄く綺麗なのに、それを見れないなんて」

 正門から裏門までの百何メートルある一本道は、桜並木になっていて、満開に成ると空が桜で埋め尽くされそれはそれは圧巻で綺麗なのだ。

「その分俺達が見るからいいんだよ。ほら、置いて行くぞ」

「あ、ひどい」

 とんとんっと班長が駆けて来るのを待って、俺達は裏門を出る。

「この学校っていっつも思うけど設計間違えたよね?」

「そうか?」

「だって、正門より裏門利用者が多いじゃん。こっち正門にしたほうがいいんじゃないかっていつも思うよ。正門なんて卒業式で初めて使う子だっているし、私とか」

 この学校では、卒業生が在校生に見送られながら正門をくぐり抜けることで卒業式の幕は引くのが伝統だ。俺たちも去年まで先輩達を見送ったな。

「俺は入学式に使ったな。まぁ、裏門の方が昔から住宅地多いよな」

「正門の方、お山だし」

「市境問題じゃないか? ほら、正門の場所で学校の住所が決まるとか聞いたことがあるぞ。ま、真相はどうでも良いけど。……なぁ、お前、ちゃんと卒業式でられそうか?」

 班長はうーんと唸って、

「このままだとそうだね」

 と、ぼんやり言った。

 俺はそれを聞いて、安心したような悲しいような気持ちになった。そして、とうとうその時が来てしまうのだと緊張する。

 少しだけ残った冬の冷たい風が俺たちの間を抜けていく。

「小谷くん、賭けをしようか」

 班長はあの日と同じことをそっと呟いた。

 俺と班長は賭けをしている。否、勝負はまだ始まっても居ない。けれど、もう結果はわかりきってしまっている賭けだ。

「大丈夫……忘れてねーよ」

「そっか、なら良かった」

「そうか」

「うん……これでやっとわかるね。君が正気か狂ってるか」

「どっちにしろ、悲劇だろ」

 どうせなら、俺が狂っていたほうが良い。それならまだ、希望は残るから。

 九月より、早く鳴るようになった防災無線が流れ始める。

「なんかパンドラの箱の話に似てるね」

「そうか? まぁ、ありとあらゆる厄災の後に待っているのが最高の奇跡だったら良かったんけど」

 そんな奇跡は無いことを俺は知ってる。解ってもいる。けれど夢なら良いのに、と願わずにはいられない。今までの事が全部、夢だったという、そんな奇跡は無いだろうか。そんな願いは、駄目だろうか。

 小学校の前の横断歩道に辿り着く。ここでいつも俺たちは別れるのだ。ザラついて古ぼけたボタンを押して信号が変わるのを待った。

「なぁ、村雨」

「なに?」

「楽しかったか?」

 班長は俺の質問の意図をしばし考え、そして、

「うん。私の中学三年間。色々あったけど、そんなに悪いものじゃなかったよ」

 と、微笑んだ。

「それなら良かった」

「君は?」

 俺も少し考える。悲しいことも、楽しいことも、面倒なことも、馬鹿やったことも、沢山の出来事が頭を過ぎった。

「俺も……そんなに悪いものじゃなかった」

 とそっけなく返すと、班長は呆れたように、

「素直じゃないなぁ」

 と、笑った。

「お前に言われたくねぇ」

「あはは、そうだね」

 信号が青に変わる。

「小谷くん、またね」

 班長は、そう言って手を振る。俺は班長の方を見ずに軽く手を振って返した。 あぁ、なんだかあの時と同じだ。アイツと永遠に別れてしまったときと。

 一つだけ違うのは、もう彼岸花が咲いていない事だけだろう。


 俺達が予想したように満開に咲いた桜の下、卒業式を向かえても結局行方知れずの水野は見つかることはなく、席は空白のまま式は進められた。

 練習通りに卒業証書を貰い、ぼーっとしていると、班長がステージから降りてくるのが見えた。にこにこと嬉しそうだった。

 その後も滞りなく式は進み。最後の合唱では、女子は大泣きし男子の野太い声だけが体育館に響いた。隣の奴が女子の声に釣られて涙ぐんでるのを見て笑ってやった。きっと、班長も泣かず俺のように笑ってるだろう。

 式が終わり、後は校舎の前の桜並木の道を卒業生が通る最後の幕引きだけが残った。今年は桜が満開だからきっと記憶に残るだろう。

 担任の最後の挨拶を聞き、伽藍として何もない俺達の縄張りから出る。この教室は四月には後輩たちの縄張りとなるのだ。俺たちもそうだったように。俺達の痕跡も、水野の痕跡も何一つ残らないのが少しだけ寂しく感じた。

 外に出ると青空に薄紅の桜が映えて綺麗で、陽射しが温かく気持ちがいい。 拍手が鳴り響き、列は自然に消えていった。俺は特に親しい後輩など居なかったので人混みをかき分け歩いていると、班長が隣にやって来た。

「賭けをしようか」

 そういたずらっぽく言って、そっと耳打ちをした。どこかの神社の名前だった。

「そこできっと待ってるよ」

 こんな日でもいつも通りに校則違反の解けた髪が風に揺れていた。

 桜の花びらが静かに二人の間に落ちてくる。

「賭けの結果を確かめてきてね」

 俺が神妙に頷くと、班長は満足げに笑った。そして、少しだけ名残惜しそうな顔をして、俺を、そして学校を見て、それから何か言おうと口を開きかけた時、ザワァと強い風が吹いて桜の花びらが沢山舞い散り歓声があがる。思わず上を見ると、雪のように白い花が降り注ぎ綺麗だった。

「さよなら、小谷くん」

 歓声に掻き消されそうな声だった。ハッとしたときにはもう班長は人混みに、桜に遮られてて、俺から遠ざかっていく。

 俺は必死に手を伸ばして、でも届かなくて、伸ばした先で、班長が正門を抜けていくのを確かに見た。長い髪を風に遊ばせながら、泣きそうな顔で笑っていた。花びらが収まる頃にはもう班長の姿は、どこも無かった。

 掴み損ねて宙をさまよった手は、ひらひらと舞降りてきた花びらを掴む。それを眺め、それからゆっくりと歩き出し正門を前にして、校舎を振り返る。

 もう、あの教室には誰もいない。

「小谷! 早く来いよ! クラスで写真取るって」

「……あぁ、今行く!」

 もう一度だけ振り返り、そして正門を抜る。

 掴んだはずの花びらはいつのまにか何処かへ消えてしまった。


 班長の伝言は中学から正反対の場所。線路を越えた先の先、市境の古びた神社の名前だった。そんな場所に神社がある事をこの時、俺は初めて知った。もともと線路を越えた向こうの地区には明るくなかったので、随分歩いて、迷ってようやく見つけることが出来た。

 その神社は、人々から忘れ去られているという事が一目でわかった。最初の鳥居には門番の様に俺の掌ぐらいの大きく肥えた蜘蛛がいて、その大きく架かった巣を潜ると、空気が変わったのがわかった。もうすぐ春だというのに生気が無く、昼間なのにひんやりと冷たく薄暗い。少し戻れば住宅街だというのに、恐ろしいほどの静寂が満ちていた。

 落ち葉が溜まった長い石段を上るとこれまた落ち葉に覆われ荒れて朽ちた本殿が見えた。それなりに大きな社なのに管理する人がいないのか、本当に何も手を加えられていないのが一目でわかった。

 伝言通り、本殿の裏に周り雑木林の奥へと進む。道なき道を進むと嫌な臭いがしてきた。腐った肉の臭い……。直感でわかる。これは死の臭いだ。先に進みたくない。けど、俺は行かなければならない。吐き気を堪え、震える足を必死に進める。泣きたくなってくる。

「あぁ」

 言葉にならない声が、零れた。せめて、獣であれば良かったのに。俺が狂ってれば良かったのに。こんな、寂しい場所で。

 木の根本には雨風などの汚れで汚くなったけれど見覚えのある制服で……。顔も解らないけど、わかる。あれは。

 震える手で携帯を開く。

そこに、居たのは変わり果てた水野の死体だった。俺は悲しいほど正気だったのだ。

 班長との約束を果たさなければ。必死に、でもゆっくりと番号を押していく。

 別れを言わなければならないのに、手が震え、喉はカラカラに乾いてしまってなかなか声が出せない。

 今、言わなければ、後悔する。それがわかるから必死に言葉を探す。探して、探して、班長の言葉を思い出した。

「……じゃあな、水野」

 それが今の俺の妥協点だった。震える指で、無理矢理通話ボタンを押す。

 馬鹿だなぁ、と水野が笑った気がした。

『はい、もしもし此方名都山警察です。事件ですか? 事故ですか?』

 別れの言葉なんて言えるはずがなかった。



幕間 広報班員 U君の証言


水野と小谷の関係?

 いや、フツーのクラスメイト、同じ班のメンバーッすよ。特別仲いいってわけじゃねーし。まぁ、水野はあんな性格だし。小谷と水野は一年の時から一緒のクラスだったから話は良くしてたみたいっす。

 居なくなってからの様子?

 あー、小谷はなんか責任感じてるみたいでした。今までサボってた仕事、あぁ、広報班なんで毎月学級新聞を書くんすけど、それを積極的にやったり。班はフツー六人なんすけど、水野が抜けたのが痛くて、大変だったんすよ。最後に水野に会ったからって別に責任感じなくても良いのにな。

 そういやー、水野がいなくなった日、小谷、俺より早く帰ってた筈なのになんで水野と最後に会ってるんだろうな。

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