アルビノ村殺人事件

夜煎炉

本編

 分からない。

 眼下で広がる光景は確かに目に入っている。近くを流れる川。しかしれとは異なる水音も耳に届いている。

 にも関わらず、脳が働きを止めてしまったかの様に五感が捉えた情報を全て弾き飛ばす。

 或いは拒んでいるのは心の方か。


 だから今の真湖まこにとって、眼下に広がる光景、耳に届く音は、全て“ただそれだけ”だった。

 意味を持たない事象。

 ……意味を理解してはいけない事象。


 見慣れた洞窟の石畳が赤色の液体で汚れている事も。

 嗅ぎ慣れた苔の匂いではなく、鉄錆を思わせるニオイが鼻を刺す事も。

 赤い液体の中、身を横たえる見知った顔も。


 其れ等に意味を持たせてはいけない。

 其れが何か1つでも意味を持ったら、何もかもが壊れてしまう。

 其れに意味を持たせる事を許してはいけない。



 全神経を眼前の事象の排除に注いでいた所為か、真湖はもう1つの音に気が付かなかった。

 洞窟内であればどんなに気を付けて歩いても、嫌でも響かせてしまう靴音に。だから真湖が、本来であれば此処に来る事が有り得ない誰かの存在に気が付いたのは、背後迄近付いた“誰か”本人が口を開いた事によって、であった。


「あらぁ。まさか本当に“不浄の鬼”を招き入れていたなんてねぇ」


 声音だけでは性別の判断が難しい中世的な声。女性的な物言い。

 記憶の中のソレより多分に嘲りを含んでこそいたが、その声自体には聞き覚えがあった。ゆっくりと顔を後ろへ向ければ、誰かが来る事など有り得ない筈の洞窟内に彼は居た。

 少年と青年の間の様な年格好。闇を呑んだかの如く黒々とした艶やかな漆黒の闇と、同じく夜を湛えた双眸そうぼう。もっとも其処そこには今、嘲りと興奮が隠し切れない程に渦巻いていたが。

 そして其れ等とは対照的な白い肌が洞窟内の薄暗がりでぼんやりと浮き上がる様は、幽霊か何かと見間違えられても文句は言えないだろう。

 真湖も良く知る男だった。


 いや、此の集落で暮らす人間で此の男を知らぬ者はいないだろう。


「……お前が、こんな事をしたのか?」


 絞り出した声は不思議と震えてはいなかった。

 ただ真湖が自分でも今迄聞いた事がない程の怒りに、憎悪に、満ち満ちていた。

 血を溶かした様な見事なまでに真紅の双眸に憎悪を宿し、眼前の男を睨み付ける。華奢で小柄な真湖ではあるが、其の様は集落1の力自慢を謳うたう大男でさえ怯ませるだけの威力が十分にあった。

 しかしやや長身でこそあるが体格が良いとは世辞にも言えない男は、そんな真湖の様子に微塵みじんのたひるみさえ見せない。それどころか真湖の反応全てが予想の内であったという様に満足そうに笑みさえ見せながら、それでいて夜色の双眸に、明らかにわざとらしい驚愕さえ浮べてみせた。


「あらぁ!?そんなにお怒りって事は、もしかしてあの噂は本当だったのかしら?聖女とも謳われる歴代1の巫女様、真湖様が“不浄の鬼”の手引きをしたって噂。だって本当じゃないとその反応はおかしいものね。集落に災厄を運び入れる“不浄の鬼”を討った人間は褒められ、讃えられこそすれ、怒りを買うなんて有り得ない。もしそんな事があるとすれば、憎悪に燃えている誰かが災厄を招き入れた当人、裏切り者の場合だけだもの」

「煩い!お前は、お前だけは此処で」


 冷静に考えれば失策であったのだろう。

 真湖はの時、少なくとも他者の存在を感じ取った瞬間から、平然としているべきだったのだ。先程迄眼下に広がっていた光景を作り出したと思しき彼を、褒め称えるくらいはするべきだったのだ。


 ……そんな事は出来る筈がなかった。


 真湖の其の思いは冷静さや打算、思考とは一切懸け離れた部分、本能的な部分に根付いていて。あの光景について淡々と振舞う事をさせなかった。

 石畳に広がる“血溜まり”の中で横たわる彼。自らの血液でくすんでしまったものの、本来であれば美しい金髪の持ち主であるあの男は。

 リオという名の青年は。

 真湖にとって大切な、真湖が初めて愛しいと、大切だと思った唯一の存在なのだから。


 真湖は己の力をおこそうとして、しかしそれより早く、まるで第3者の介入で強引に断ち切られるかの様に意識がぷつりと途切れた。



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